朝、目を覚まして一番に確認するのは、家人の不在。
 最近冷え込みが厳しくなり、神無は身をすくめて広いベッドを見渡した。どうしてももったいないような気がして、エアコンも加湿器もほとんどつけることがない。もえぎや三翼からは遠慮するなと言われているのだが、つけると逆に落ち着かないのだ。
 彼女はベッドから降りて、もう一度あたりを見渡した。カーテンを開けると、外はすでに秋を通り越して冬の様相を呈している。
 吐き出す息もうっすら白い。
 華鬼が姿を消してから、すでに二ヶ月が過ぎようとしていた。
 まるで昨日のことのように思い出すのは、唐突な口づけ――そして、ひどく戸惑ったような、困惑したような彼の顔。
 森に消えたままの男からはそれ以後、なんの音沙汰もない。
 心配して三翼に問うても、心配ない、の一点張りだ。それどころか、いつでも泊まりにおいでと誘われる始末で、最近では神無自身もその話題を口にしなくなっていた。
 神無は踵を返して洗面所に向かい、顔を洗って着替えをすませる。
 いつも通り食事を二人分作って椅子に腰掛けた。
 一向に帰ってこない男のために作る食事は無駄であるとはわかっているし、下に行けばもえぎたちと食事ができる。それはここにいて、一人でする食事よりも楽しいひと時に違いない。けれど、ここで家人を待つのがむなしいと感じたことはなく、神無は同じ毎日を繰り返している。
 彼女は時計を確認し、両手を合わせてから食事を始めた。本当に何の変哲もない、安穏あんのんとした時間だった。
 食事をすませて食器を片付け、歯を磨いてからカバンを手にする。分厚いコートを着込んで一階に行けば、いつも通り護衛でもするかのように三翼がぴったりと寄り添う。
「いってらっしゃい」
 笑顔でもえぎが送り出してくれる。行ってきますと言葉を返して玄関から出ると、ふっと、光晴が空を見上げた。
「快晴」
 突き抜けるような見事な青に、神無も思わず白い息をはいて上空を見た。山の空気が澄んでいるためか、鬼ヶ里の空はいつも驚くほど美しい。雄大な自然とあいまってその景観は一枚の絵画のようだった。
「今年は初雪が遅いよね」
「せやな。――神無ちゃん、鬼ヶ里は冬休み、結構長いんや」
 思い出したように言われ、神無は歩きながら光晴を見た。
「雪が深いからな、外に出るのが億劫で。長い休み利用して実家に帰省する花嫁も多い」
「長期で海外旅行に行く人もいますからねぇ。今年は12月15日から1月25日まで。これ、毎年変わるんですよ」
「有り得ないよね! 執行部が勝手に決めてるんだから」
「おおむね好評や」
 長期の休みにも驚くが、毎年休みの予定が変わると言うのもおかしな話だ。黙って会話を聞いていると、明るい会話はなおも続いた。
「一メートル以上雪が降った事もあったんだ。二階の窓から出て学校行ったら休校だった」
「寒いのにご苦労さん」
「職棟に住んでると忘れられちゃうんだよ。失礼な話だよね」
 ちょっと唇を尖らせて水羽に同意を求められる。ふわりと表情を緩めると、それにつられたように彼らの表情も柔らかくなる。
 ある日を境に、神無の表情が明らかに変化した。その原因を思えば複雑なのだが、彼らはあえてそれに触れないようにしている。
「部屋に来ていただければ一息なんですが。実に惜しい」
「……麗ちゃん、どさくさに紛れて何ゆうてんねん」
「手段選ばず、ってのは反対。傷つけるなら沈めるよ」
 神無には訳のわからない会話を交わして、三翼はお互いの顔を見合わせる。小さな溜め息をついて苦笑して、彼らはあたりを見渡した。
 儚さの中にも強さを秘める少女は、驚くほどしなやかにこの状況を受け入れている。多くの視線が知らずに彼女に集まる――華鬼の刻んだ印の呪縛は、いまだに神無を孤立させる。その現象は以前からのものだが、彼女が華鬼と婚姻を結んだことが公になってから、何かに促されているかのように女子からの嫌がらせの類が増えてきている。
 嫌がらせがなくても、突き刺さるような視線の多くは明らかな拒絶。もしくは、凶暴な情欲を孕んでいた。
 神無の変化は教師の手にあまるほど学園を混乱させる。歴代最高と謳われた、揶揄とも思えるその言葉をものの見事に裏付けるほどに。
 複雑な表情のまま昇降口につくと、麗二は職員用の出入り口に、光晴は三年用の昇降口に向かう。
「今日も一日、頑張ろうね」
 にっこりと水羽が微笑む。ここから先は彼一人の守りになる。どれほど彼が気をはっているのかを知る神無は小さくお辞儀をした。
「よろしくお願いします」
「うん、まかせて」
 いつもどおりに答える声は明るい。最年少で鬼頭の庇護翼を務め、あまつさえこの重圧だ。よく潰れないなと半ば呆れながらも麗二たちが感心していたことを思い出し、神無はもう一度頭を下げた。
「おはよ!」
 弾むような声に神無は顔を上げる。スリッパに履き替えて神無を待っていた桃子が笑顔で手を振った。
「今日のお昼の放送さ、ジャズ流そうよ。ちょっといいの見つけたんだー」
 神無が靴を履き替えるのをじれったそうに待ちながら、桃子は一方的に話しかける。同じ部活に入ろうと提案してきた彼女は、神無が話下手だと知ると、克服するべきだと主張して放送部に入部届けを出した。
 この選択に、もちろん三翼がいい顔をするはずはない。それでなくとも悪い意味で目立つ彼女がさらに晒される状況になったのだ。それに学校行事があればかり出される。守りがどうしても手薄になりかねないという危惧もあった。
 だが、親身になってくれる桃子の意見を受け入れて、神無は一週間に一度、桃子といっしょに放送室に行っている。
 マイクを前にしてもほとんど何も話せないから、結局は桃子が一人でしゃべっているようなものだが、彼女はそれに関しては不満を訴えてはこなかった。
「ねぇ、たまには女子寮にも遊びにおいでよ。この前のときはさ、いっしょにいてあげられなくてやな思いさせちゃったみたいだけど、次は大丈夫だから」
「……でも」
「バカな奴らなんてほっときゃいいってば。どうせ吼えるだけで何もできないんだから」
 廊下を歩きながら断言する桃子を神無は無言で見詰めた。何もできないのではない。たまたま大事がなかっただけで、決して安全とは言えなかった。
 しかし、わざわざ桃子にそれを伝える必要はない。
 神無は曖昧に頷いた。
「あたしの部屋の鍵は持ってていいから。本当いつでも遊びに来てよ、待ってる」
 神無が職棟に戻ったことに対して、桃子からは多少の愚痴があった。しかし、それ以上の文句はなく、以前よりも親密な間柄になっている。一部では、華鬼に近づこうと神無に取り入っていると噂されていたが、そんな言葉を桃子本人は笑って聞き流していた。
 教室に向かう途中、唐突に聞き慣れた音が響く。
 桃子はポケットを探って携帯を取り出した。
「これ、教室までお願い」
 桃子は液晶を確認してカバンを神無に手渡した。
 時折かかる電話を彼女は必ず一人のときに受ける。メールを受け取った後は、きまって不機嫌な顔をしていた。
「神無も早く携帯持ちなよ」
 その言葉を残して、桃子は慌てたように駆け出した。携帯を持てと言われても、なくてもこれといって不便に感じたことがない。二人分のカバンを手に歩き出すと、すぐに背後から水羽の手が伸びてきた。
「持つよ。……あのさ、土佐塚って……」
 言いよどみ、水羽は桃子が消えた廊下を見てから神無に視線をやった。
「あんまりいい感じがしないんだけど。やな言い方でごめん。麗二も警戒してるんだ」
 神無が不思議そうに見上げると、彼はもう一度だけごめんと謝罪してきた。警戒の意味がよくわからない。
 桃子は孤立する神無に唯一話しかけてくる女子生徒だ。口数の少ない神無に苦笑しながらも、根気よくいろいろと話してくれる。強引なところも多いが不快に思ったことはなく、優柔不断ではないが決断の遅い神無には、時として有り難くなるほどだった。
 その彼女に対し、水羽はあまりいい印象を抱いていないようだ。
 なぜ、と視線だけで問うと、彼は困ったように首を傾げた。本当にはっきりとした理由はないのだろう。
 奇妙な沈黙の中、多くの視線を受けながら二人は教室へと向かった。

Back  Top  Next