【三十六 前編】

 部屋の外がざわめきだして、神無はようやく顔を上げた。室内が暗いことに気づき彼女は抱えていた膝から腕をはずす。
 緩慢な動きで立ち上がると時計が見えた。
 時刻は7時をとうに過ぎている。桃子が出て行ってずいぶん過ぎていることを知り、そっとドアを開けた。
「土佐塚さん?」
 部屋の住人の名を呼んだが返答がこない。
 電気をつけてからダイニングキッチンを横切り、対面するドアをノックしたが、やはり何の応答もなかった。神無はもう一度時計を見た。この時間ならば夕食の支度をしなければいけない。慌てて冷蔵庫の前に移動して手を伸ばし、彼女は動きを止めた。
 ここは桃子の部屋なのだ。勝手にいろいろ触るわけにはいかない。
 いったん手を引っ込めたが、しかし、何もしないわけにもいかないような気がして、彼女はおろおろしながら再び冷蔵庫に手を伸ばした。
 心の中で謝罪して冷蔵庫のドアを開ける。中を覗き込み、彼女は無言でドアを閉めた。
 冷蔵庫の中にはミネラルウォーターのボトルが二本入っていて、それ以外は何もない。食事を作る以前の問題だった。
 どうやって食事をしているのか不思議に思い、そこでようやく食堂があるかもしれないと考える。
 神無は普段から食が細く、たとえ一食抜いたとしてもさほど気にとめはしないが、いろいろと気を遣って動き回ってくれる桃子が食事をとり損ねるのは申し訳ない。もし食堂があるならそこに行き、事情を説明し、せめて彼女の分だけでもわけてもらおう。
 神無はカードキーを手にした。
 使い方は桃子がやったのを見ていたから知っているのだが、なんとなく緊張する。しっかりと手に持ってからポケットに入れて玄関に向かった。
 靴を履いて少しだけドアを開ける。ここには自分を害する者はいないのだと言い聞かせても足がすくんだ。
 大きく何度も息を吸い込みさらにドアを押し開けると、華やかな少女の声が聞こえてきた。
「メニューは?」
「なんとかのソテー。マリネとか、えーっと、なんだっけ?」
「何にしようかなぁ。たまにはラーメンとか食べたくない?」
「食べたい!! 今度食べにいこっか?」
「ファーストフードも入れてくれればいいのにー」
 ドアを開ける途中でぴたりと動きを止める。恰幅のいい女性が用意してくれるA定食、B定食を思い浮かべていた神無は、ソテー、マリネと口の中で繰り返してみたものの、その料理がとっさに想像できない。話の内容から、メニューが数種用意されていることを知ってさらに動揺した。
 選択肢は嬉しいが、桃子の好みを知らない今の彼女は活用する術がない。
 だが、ここで桃子を待っていても食事ができる時間までに帰ってきてくれるかどうかは不明で、迷惑をかけている上に夕食まで間にあわないのでは申し訳がない気がした。
 意を決してひとつ頷き、神無はドアを開ける。静かにドアを閉め、どうやって鍵をするのかと首をひねりドアノブに手を伸ばす。
 そして、くるりと回るそれに黙り込む。オートロックだから鍵を持てと桃子が教えてくれた意味を理解した。
 財布がない事を思い出して少し考える。もともと最低限――それこそ小銭程度しか持って歩かない彼女の財布は、校舎に置きっぱなしになっている。
 取りに戻るなら30分はかかる。食堂が開いている時間はわからないが、あまり遅くなるのはよくないだろう。
 神無は迷いながらも少女たちの後を追うように歩き出した。代金は後払いで何とかならないか交渉し、駄目ならばすぐに取りに行くよう伝えればいい。広い廊下に戸惑いながら歩いていると私服の女子生徒たちと何度もすれ違った。
 いまだに制服を着ているからどうしても目立つ。できるだけ足早に移動するよう心がけてはいるが、もともとさほど歩くことが速くないため徒労に終わっている。
 人が増えるたびに囁きが大きくなる。長い廊下を歩き、様々な匂いが入り混じった広い一室に辿り着いたとき、神無は言葉もなく立ちすくんだ。
 異様に広い一室には、白いクロスをひいたテーブルが整然と並んでいる。テーブルの中央には鮮やかな花が思い思いに生けられ、まるでパーティー会場のようだった。
 テーブルにつく少女たちは、ナイフとフォークを器用に使いこなしながら談笑している。鬼ヶ里高校の食堂も広くて立派ではあったが、そこはあくまでも食事≠ェメインであって、これほど華があるわけではない。
 各所に設けられている真紅の布をひいたテーブルの上には巨大な皿がいくつも並び、そこには山積みの食料がのっている。
 やけに豪華なバイキングだ。
 食堂の出入り口に突っ立ったまま神無はそう考える。デザートコーナーまで設ける徹底ぶりに言葉すらない。
 どうしていいのかもわからず突っ立っていると、その脇を少女が通り抜けた。
「結婚した相手」
 それは小さな言葉。
「ああ、転入してきた一年生? 嘘でしょ?」
「そうでもないみたい。職棟でいっしょに暮らしてるとか」
「マジ!? 木籐先輩、本当に結婚してるの? 転校生で木籐って女なんていないじゃない!」
「なんか苗字は違うらしいよ」
 その会話に硬直した。多くのざわめきが生まれる空間で、時折聞こえてくる単語に共通点があることをようやく知った。
「その女って誰? 名前は?」
 己の立場に気付き、鋭い質問にはっとする。昼間の騒ぎが女子寮に蔓延しているのだろう。自分の存在が反感しか買わないことを知っている神無は、瞬時に長居すべきではないと判断した。
 どうやらお金はいらないようだから、料理を皿に盛って早々に立ち去ろうと考えて足を踏み出した。そして、ざわめきが変化したことに気付いて伏せ気味だった顔をわずかにあげる。
 容赦なく視線が突き刺さってくることに驚きとっさに後退した。その細い体は何か柔らかいものにぶつかってよろめく。
「なんでここにいるの?」
 静かな問いが耳朶を打った。背後を見やり、そこに四季子を発見する。艶やかな真紅の服を身にまとい、日本人形のようにまっすぐで美しい黒髪を軽く束ねたその姿は、校内では想像もできないほど大人びた雰囲気だった。
 四季子は神無に近づく。
「どうして? 帰る家でも間違えた?」
 刺々しい笑顔で小首を傾げる。その姿は愛らしいのに、にじみ出る怒りが悪鬼のように彼女を歪めている。
「鬼頭の刻印を持つお前が、どうしてここにいるの?」
 耳元でささやく。
 鬼頭と三翼の花嫁は本来なら職員室の別棟を住居とするのだ。その特別待遇が、すなわち格の違いの最たる例でもある。
 鬼の頂点に立つ男に選ばれ、守られ続ける女が鬼頭の花嫁。その立場は同時に、花嫁の頂点に立つことも意味する。それを熟知している四季子は羨望とは似ても似つかぬ顔で笑みを浮かべていた。

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