玄関ドアを開けるなり漂ってきた香りに、光晴と水羽は同時に駆け出した。
 勢いよくドアを開けると、もえぎが包丁片手に振り返り、息を切らせた二人を見て不思議そうに小首を傾げる。
「どうしたんです?」
「か、神無ちゃんおらへん!?」
「昼間から探してるんだけど、どこにもいないんだ!」
「ああそれなら」
 もえぎは包丁を置き、フライパンに手を伸ばす。
「お友達が来て、しばらく女子寮に泊まるって話してましたよ。服を取りに来て……三十分くらい前だったかしら」
「女子寮――!?」
 息のぴったり合った叫びに、もえぎがきょとんとする。
「ええ。神無さん、体調があまりよくないとかで……お友達、ちゃんとできたんですねぇ」
 ほっとしたようなもえぎの表情に、しかし二人は安心することができなかった。それどころかさらに青くなり、互いの顔を見合わせる。
「水羽!」
「嫌だ」
「せやかて、男は入れんし!」
「ボクだって立派な男だ。光晴が行ってよ」
「入寮第一歩で見つかるんがオチや。笑いとりに行きたない」
「メイクなら教えてあげる。元は悪くないんだからそれなりに見られるよ」
「大女は目立つし、変態あつかいは嫌じゃぁ……」
「ボクだっていっしょ」
 妙なテンポで繰り返される会話に、もえぎはさらに不思議そうな表情をする。話についていけない彼女は、野菜炒めをひっくり返しながら口を開いた。
「お友達のお部屋に泊まりに行っただけですよ? 男子が無断で入ったら、寮長にどやされるだけじゃ済まされないでしょう。今の罰則は知りませんけど、一般の生徒も大勢いるんですから」
「そうなんやけどな」
「まずいと思う」
「まずいやろ。噂、もう広まってるし」
「だよねぇ。なんで華鬼ってあんなに目立つんだろ。普通にしててくれたら、ボクたちこんなに苦労しなくてよかったと思わない?」
「いまさら言うなや。栄えある鬼頭の庇護翼が」
 引きつったような笑顔で言われ、水羽は肩を落とす。
「……あ、麗二は?」
 ふっと視線を上へと移動させた。学園内にはいなかったからすでに帰宅した可能性が高い。そう思っていると、もえぎが困ったように口を開いた。
「ずっとお部屋にこもって調べ物を」
「そら珍しい」
 光晴が丸メガネの奥の目を見開く。もともと情報収集能力にけた彼は、あらゆる情報を瞬時に集めるネットワークを持っている。
 外見は無駄に若作りだが、築いてきた人脈と情報網は鬼の一族の中でも随一だった。
 その男が、一室に篭っているというのだ。
「個人情報かな」
「その気になれば何でも掌中にしよる。敵に回したないタイプやな」
 ため息混じりにそう話し合う二人をしばらく見詰めていたもえぎは、その視線をゆっくりとドアに移動させた。
 カタリと小さな音が生まれる。
 わずかに開いたドアに人影が見えた。
 その影は、彼女が言葉を発する前にそこから離れて遠ざかってしまった。
 何が起こっているのかさっぱり理解できないという表情のもえぎに、彼女の目の前に立っていた鬼は奇妙な表情を向けている。
「……今、外に……」
 二人をすり抜ける形で指差した先にはドアがある。光晴はもえぎに苦笑してみせて隣にいる水羽を肘でつついた。
「な、おかしいやろ?」
 ちらりと背後を見やってから、水羽は難しい顔をした。
「一日中あの調子や。落ち着きない」
「苛々してない?」
「そわそわやろ」
「うーん、確かに落ち着きないなぁ」
「原因、思い当たらんのやけど」
「……神無かな」
 すでに廊下には誰の気配もない。だが先刻までは確かに華鬼がいたのだ。光晴の問うとおり、いつもは何に対しても動揺や関心を見せないはずの男からはひどく頼りない印象を受けた。
 過去の彼からおおよそ想像できないその変化の原因はひとつしか考えられない。
「初めから特別ではあったんだよね」
 独り言のように水羽が口にする。それを耳ざとく聞いた光晴はあからさまに不快な表情をした。
「なにが」
「華鬼にとっての神無が」
 棘のある問いに水羽は微苦笑して短く答えた。 もともと馬が合わなかった華鬼と光晴の対立は、いつも光晴が身を引くことで一応の解決になっていた。しかし、花嫁の――神無の処遇については、がんとして許す気はないようで、明らかに態度が硬質になる。
「察しはつくんだけど、本人が気づいてないのに言っても納得しないだろうし」
 廊下に面したドアを見ながら小さく溜め息をつく。その水羽の横顔に、光晴は不機嫌な顔を向け続けた。
「なんや?」
 重ねて問う光晴に、水羽は驚いた顔をして一瞬だけ言葉を失った。
「気付いてないの?」
「だから、何がや?」
 困ったように水羽は笑う。言うべきか言わざるべきかを考えるように間をあけ、結局そのまま口をつぐんで瞳を伏せた。
 そんな二人のやり取りを静かに見守っていたもえぎは、二人とドアを交互に眺めてから小首を傾げる。
「盗み聞きですか? 鬼頭らしくないですね」
 状況を理解していないもえぎが料理の手を休めたまま呑気に意見する。
 奇妙な沈黙を守っていた二人は思わず顔を見合わせて苦笑した。確かに、他人には一切の興味を示さなかった男が立ち聞きなど珍しい。しかも過去に彼が殺そうとまでした少女のことを、殺意以外の感情を持ったまま熱心に聞いていたのだ。
「訳がわからん」
「意外と単純かも」
「殴りたなる理由か?」
「……うん、まぁいろんな意味で」
 肩をすくめる水羽に納得しきれないながらも、一応は華鬼が現状の脅威とならないと判断したのか光晴は頷いてキッチンに向かった。
「何や手伝えることある?」
「ありがとうございます」
 珍しい申し出に、もえぎの表情が明るくなる。手渡された食器をテーブルに運びながら光晴は口を開いた。
「明日、何が何でも職棟に戻ってきてもらう。庇護翼の手が届かん場所っちゅうんは、心もとない。生家とは条件が違う」
「同じだろ。手出しできないんだから」
「全然ちゃう。あっちには敵意がなかった」
 小さな、けれど率直な言葉である。多少はぎくしゃくしていたが、生家にいた者たちは皆、神無を鬼頭の花嫁として迎え入れていた。
 しかし、女子寮にいる少女たちは違う。
 鬼の花嫁と一般の少女たちが入り乱れるあの建物は、寮長の下で統率が取れているものの、些細な波紋で簡単に崩れてしまう均衡で成り立っていた。
「とにかく一晩我慢して寮から出たら保護。ええな?」
「中に連絡取れないかな」
「取れるんやったらとっくにやっとる。神無ちゃん携帯持ってへんのや! 寮長に回されて、部外者口出し禁止、統率乱すなっちゅうありがたい説教食らって反省文書いて、それで仕舞いやな」
 寮内は寮長がすべて仕切っている。徹底した管理体制から教師すら口出しするのが難しいのは今に始まったことではない。
「……光晴、ここは一肌脱ぐしかないよ」
「せやから、笑い取りに行くんは嫌じゃぁ」
 胸騒ぎを誤魔化すように努めて明るく笑う。
 神無は異質だ。華鬼がそうであるように、その刻印を持つ神無自身も周りを巻き込む因子を持ち合わせている。
 それなのに、彼女を守り導く役目である庇護翼が手をこまねくしかない。
「馬鹿なマネはせえへん。頼むし」
 光晴は祈るようにつぶやいて女子寮のある方角に顔を向けた。
 花嫁を第一に考えたシステムが裏目に出る状況がくるとは思ってもいなかった。
 花嫁たちに配慮して築き上げた小さな城は、そこに住まう多くの少女たちによって、彼女たちが生活しやすいように絶えず変化している。
 守るべき花嫁は、その只中にいた。

Back  Top  Next

携帯用分割リンク Next(36話前編)