眼裏が赤く染まる。
体全体を暖かく包む光をまどろみながら感じる。ひんやりと冷たい芝生とは対照的なそれは、苛立ちを和らげていく。
鬼頭の名を持った者が宴会場で
酔いつぶれる花嫁たちと自分に毛布をかけて歩いていたのは、意外なことに父親だった。
初めは神無を花嫁にしたことに反感を抱いていたような彼は、顔をあわせるたびに二言三言言葉を交わし、勝手になにかを納得したようでそれ以降は顔を見ても言葉すらかけてこなかった。
彼の中で、神無の評価が変わったらしいということはその態度で理解できた。わかりやすい性格をしていると内心呆れたが、彼の意図することまでは掴みきれずにわずかな疑問を華鬼の胸に植えつけた。
明らかに飲めない神無に散々酒をすすめ上機嫌だった父親は、酒盛りと化した大広間の片付けも率先してこなしていた。苦笑しながら手伝っていた伊織から、初めて目にするその光景はどうやらさほど珍しいものではないらしいと知ることができた。
他者がいる場所では眠ることができない華鬼は、しかし起きるのが面倒でされるがままに任せていた。
朝がきて、大広間に寝ていた者たちが起きはじめるよりも前に華鬼は昔からよく惰眠をむさぼっていた場所へと移動した。
大小さまざまな岩で囲まれたその場所には普段から人が近付かず、一人になりたい時にはちょうどいい。
そう思って全身の力を抜いた。気に食わない男がわざわざこんな場所にまでついて来ているが、どうせまた姑息な企みでもしているのだろう。
執着に似た憎悪が何に向けられているのかをおぼろげに理解して、結局あの男も鬼頭という名に踊らされている一人なのだと思った。
ほかの鬼と違って正体をあかすだけ、まだ幾分ましかもしれない。ふと過去を思い出し、まぼろしの痛みに柳眉をよせる。
響がつける傷はそういえばどれも浅かったなと、そんなことを考える。命に関わるような怪我はまだ一度もない。
しかし、今回はどうやらいつもとは違うらしい。
けれどその事実さえどうでもいいような気がした。
永遠に続くような浅い眠りに身をゆだね、つらつらと思考だけを辿る。
静かな木々のざわめきに、不意に別の音が混じった。
人の気配。
「……華鬼?」
遠慮がちな声が耳に届いたが、返事をするのもやはり面倒だと双眸を閉ざし続ける。
誰かが近づいてくる。それは華鬼の間近でとまり、赤く染まっていた眼裏に暗い影を落とした。
顔を覗きこまれているらしいと判断したが、眠りを誘うような不思議な香りが鼻腔をくすぐり、浅い眠りがじょじょに深くなっていく。
間近で再び小さな音が生まれた。
何かが髪に触れる。
一瞬風かと思った。
そっと気遣うように髪に触れるのは、温かい指先。
何度も何度も髪を梳く、優しいともいえるその動きはあの女を思い起こさせる。
ただひたすら許しだけを
懺悔の言葉しか知らず、そして、くだらない望みだけを残して静かに息をひきとった自分勝手な花嫁を――
思い、起こさせる。
それは不快であるはずの記憶。
鬼頭の母親としての重圧に耐えきれずつぶれた女は、長く
たった一つの願いを託し、たった一人の息子に看取られて。
その記憶を否応なしに引きずり出されるにもかかわらず、胸の奥にとぐろを巻き続けるような苛立ちが和らいでいく。
穏やかな静寂。
全身の力が自然と抜ける。
「あ……」
少女の驚きのような声が耳に届く。何をそんなに驚いているのか不思議に思いながら、それでも心地よいと感じ始めた眠りから抜け出せずにまどろみ続ける。
深い眠りにつくその寸前で、なにか別の気配を感じた。
「……あんた、笑えるんだ?」
不意に聞こえてきた声に、風に揺れる黒髪を触っていた指が止まった。
カサリと乾いた木の葉を踏む音が聞こえる。次の瞬間、何が起こっているのかを理解するよりも早く、体が勝手に動いた。
一瞬にして張り詰めた空気に華鬼は視線を走らせ、そこに神無の姿を見つけて息をのんだ。今まで一度も感じたことのない穏やかで不思議な香りは彼女の持つものらしい。
何度も顔をあわせ、触れ合うほど近くにいたときには一度も感じることのなかったその香りは、花嫁が持つ独特のものとは少し違う。
しかし、それを深く追求する間もなく華鬼は瞬時に立ち上がると、目の前にいた鬼を睨みすえた。
「よく眠れた? 鬼頭」
「堀川……!」
クロスボーを手に微笑む響はその照準をまっすぐ華鬼に向けている。
視界の端で、神無が慌てて立ち上がるのが見える。彼女は緊張した表情のままこの場から離れようと少しずつ後退している。
「毒を調合したらちょっと変わったものができてね。これ、解毒剤がないんだ」
変色した矢の先を少し左右に振ってみせ、響が軽い口調でそう告げる。
「かすれば死ぬよ、鬼頭」
低く囁いて響がその照準を華鬼にあわせ続ける。どうやら性格上、武器を使うのが好きらしい。
それをむけられて恐れおののくことを期待しているわけでもないだろうに、毎回武器を変えてくるあたり、意外にもマメなのかもしれない。
どこか呆れたように考え、神無が離れていくのをその気配で確認する。
そばにいられると戦いづらい。響の実力は知っている。武器がなくても三翼と対等に渡り合えるくらいの力は持っている。
だから、余計なものが視界に入ると動きづらいのだ。
手元が狂う。
そこまで考え、疑問のようなものに息をひそめる。
手元が狂っても――別に、関係ない。
関係ないはずなのに、何を躊躇うのだろう。
どうせ要らない花嫁なのに。
ただの気の迷いで選んだだけの、それだけの花嫁であるはずなのに。
死ねばいいと思い続け、そして迎えた花嫁の――
その、はずなのに。
あの女と他の女たちのどこか違うというのだろう。結局は何一つ見ようとしないその事実だけは変わることなく、むしろ彼自身に言い聞かせるように繰り返される。
鬼の中でのみ正当化される地位。
歪み続けた常識。
「余裕だね? オレのことは眼中にない?」
目の前の鬼が微笑む。作り物のように美しく整った顔は、蔑みとは違う色をしている。
それはひどく曖昧な感情。
華鬼にぴたりとあわされた照準が移動する。
どこに、と判断する前に体が勝手に動いていた。人差し指に力が加わるのがわかるほどの至近距離で、向けられたクロスボーの先にいたのは――
「華鬼……!」
風を切る音と同時に、悲鳴のような声が耳に届く。鳥たちが驚いたように羽ばたき、静寂は一瞬で破られた。
激痛が左肩を襲い、その刹那に右手が肩に移動する。
ほとんど無意識に華鬼は矢ごと己の肉を引きちぎっていた。
「自分の花嫁を見殺しになんてできないだろ?」
神無にむけたクロスボーを地面へと落とし響が微笑む。華鬼は彼から視線を外すことなく引きちぎった肉ごと矢を投げ捨て膝を折った。
「華鬼……ッ」
逃げようとしていた神無が駆け戻ってくる。細い腕を伸ばしてわずかに傾いた華鬼の体を支え、真っ青な顔を向ける。
傷を負った時のものとは明らかに違う、痺れるような痛みが肩から広がる。止血のためにきつく押さえた手の間から鮮血が流れ落ち、大地に赤黒いシミを作っては吸い込まれていく。
「毒はまわってる? それ即効性なんだけど」
響はそう言って、ジャケットからナイフを一本取り出した。