手にしたジャックナイフより、さらに鋭利な微笑を鬼がうかべる。
漆黒から鮮やかな黄金に変わった瞳は、本来冷酷な彼らの本能をまざまざと伝えてきた。
「逃げないの?」
囁く声は、まっすぐ神無に向いていた。
神無はとっさに顔をあげ響を見た。清涼な風に血臭が混じる。呻き声さえあげることなく、華鬼は彼女の手を振り払うようにしてゆらりと立ちあがった。
「……動けるんだ」
驚きとも感嘆ともつかない声が神無の耳に届く。どんな効果がある毒なのかはわからないが、本来なら立ち上がる事もできないのではないのか。
幾筋にも分かれて指先から地面へとしたたる血は、大地で揺らめく鮮やかな草花を赤く染めている。
その出血と毒で、華鬼の顔は蒼白だった。
響が微笑みながらジャックナイフをかまえたとき、神無は無意識に華鬼の前に出ていた。息をのむような気配が背後から――そして、目の前の男から伝わってきた。
「逃げ出したら見逃してやるよ」
嘲笑を
選択肢はそれ以外存在しないのだと、冷笑を浮かべて言っている。
神無はただ無言で響を見た。
この鬼も背後にいる華鬼と同じ、きっと人の命にさしたる比重をおく事もないに違いない。
ジャックナイフをちらつかせるその姿は、美しい死神のようだった。
「――逃げろよ。見逃してやるって言ってるんだ」
その場から逃げ出すそぶりを見せない神無に、わずかに苛立ちを滲ませて響がそう告げる。彼が一歩進むごとに、神無は無意識のうちに後退る。
「どけ」
華鬼の声が間近に聞こえ、神無は斜め上を見上げた。
毒がどれほどの痛みを彼に与えているかはわからない。だが、肩の肉をえぐり取ったその痛みならばまだ想像できる。
それはわずかに顔をしかめるだけに留まるような物ではないはずだ。
華鬼は蒼白になりながら、びっしりと汗をかきながらも呻き声一つあげない。
「そこをどけ」
低く命令する華鬼をほんの一瞬見詰め、神無は再び響に向き直った。
動揺するように背後が揺れる。
「ふぅん? そんなに死に急ぐ花嫁は初めてだな」
響は神無をまっすぐ捕らえたまま、再びポケットを探り、今度はダガーナイフを取り出した。抜き身のそれは、クロスボーの矢と同じく変色している。
「同じ毒だ。どうする?」
ゆっくりと左右に大きく振る。見せ付けるようなその動きに、神無の全身がこわばる。
これは二択だ。
ここで逃げれば、その刃は誰に向かうのか――
「どけ」
呻くような華鬼の声が背後から聞こえる。
ここをどけばあのナイフが突き刺さるのは、すでに戦うための体勢すらとることができない華鬼の体だ。
「――バカだな。あんたに刺さったら、その肉を引きちぎるのが誰なのかは想像しないの?」
ゾッと背筋が冷えるような問いかけが聞こえる。響は射るような眼差しを神無に向け振り上げた手を移動させた。
神無がわずかに後退る。
その背に、熱い体がぶつかった。
「どけ……」
焦りさえ読み取れるような声音で華鬼がつぶやく。力ないその体は立っているのが不思議なくらいの熱に包まれていた。
ここをどいたら、あのナイフを受けるのは華鬼だ。
何故どけと言うのだろう。都合のいい盾の代わりになるだけの女の身を、彼が案じているとはとても思えないのに。
いつでも彼が一番邪魔者扱いしてきたはずなのに。
響が振り下ろす手を、神無の瞳が忠実に写す。
あのナイフが刺さったら、自分の体にしたように華鬼はその肉を引きちぎってくれるのだろうか。
何度も殺そうとした花嫁の命を救うために。
それとも、黙って絶命するまで待つのだろうか。
どちらも変わらぬ苦痛を運んでくるには違いない。そのどちらが自ら望む未来なのだろうかと考える。
身動き一つせずに響の凶刃を見詰める神無の肩に、熱いものが触れた。
「……華鬼?」
血で赤く染まった手が、神無を脇へと追いやるように動く。
端整な顔が苦痛に歪むのがわかった。
助けようとしているのか、ただ邪魔だから追い払いたいのかその表情から彼の心を読み取ることはできなかった。
一つだけわかるのは、盾となっていた神無がいなくなることにより、華鬼と響の間には障害となるものがなくなった事実。
響がうっすら微笑んだ。
ダガーをかまえた手が華鬼にむかってのびる。
どんな毒が塗られているのかは、知らない。
それが華鬼の体にどう影響しているのかもわからない。
しかし、次にあの毒を受ければ彼の命が危うくなるだろう。
神無を押しやるためにいったんはずされた彼の右手は、再び止血のために左肩を掴んでいる。まるで無抵抗に立ち尽くす彼は、穏やかとも思える瞳で対峙する鬼を見詰めていた。
「華鬼!」
彼に逃げる意志がないのは見て取れた。
あれほど張り詰めた空気をまとい続けたにもかかわらず、今の彼からは戦う意志すら感じ取れない。
まるで、死を待つような静寂。
「だめ……!」
とっさに手がのびる。
目の前にいるのは、最期を受け入れようとする孤高の獣。
助からない。
助け、られない。
確実に距離を縮めるダガーは、まるでスローモーションのようだった。
体を盾にするのは間に合わない。歯痒いほど重い体に絶望すら感じる。
誰かと、心の中で呼びかけた瞬間、言葉がひらめいた。
「三翼――!」
その刹那、視界に今までになかった色が飛び込んできた。何かを弾くような金属音がこもったように鳴る。
森が生み出した固まりは、瞬時に体勢を立て直して地面へと突き刺さったダガーを拾い上げた。
神無と華鬼を守るように目の前に少年が立つ。
「鬼頭の庇護翼、バカにしないでくれない?」