「づつない……」
 紙袋に顔を突っ込んで、大きな背中を丸めて光晴が哀愁を漂わせている。
「……あの、光晴さん?」
 笑いを誘うようなその姿に、しかし笑ってはいけない気がして、麗二の顔面の筋肉が不自然にひきつった。
「どうせ昨日、神無になんか言われたんでしょ」
 スッパリと斬り捨てるように水羽に言われ、光晴はさらに紙袋の中に顔を突っ込んだ。
「づつない」
 そんな光晴に、水羽は溜め息をついてインスタントの味噌汁が入ったマグカップをさしだした。
 外と連絡がとりたいと言って華鬼の生家に行った光晴は、世も末だというような顔で帰ってきた。
 連絡を取った相手は今朝がた訪れ、光晴がいま顔を突っ込んでいる紙袋を届けるなり、恐縮しながら見事な日本家屋と庭園を眺めて帰路についた。
 男が届けた袋は紙袋といっても小さなものではなく、黒い手さげのついたしっかりとした作りのものである。中にはどうやら服が入っているらしい。
 これを届けた男は一睡もしていないとぼやいていた。
 何のための服が入っているのかを問いただしたかった麗二と水羽だが、光晴の落ち込みように口を挟めず互いの顔を見合わせる。
 昨夜いったい何があったのか――それは、彼の落ち込みようから粗方予想はついていた。
「なぁ、花嫁が他の誰かを選んだら、あきらめつくか?」
 紙袋に顔を突っ込んだまま、光晴が声を絞り出す。
 麗二と水羽はやっぱりというように少し表情を硬くした。
「花嫁が本当に幸せになるなら身を引きます」
 どこか淡々と麗二が応じた。
「せや、身を引く。幸せになって欲しい女ならなおさら、笑って送り出したらなあかん。どんなに惚れとっても、身を焦がすように想う女が幸せになることが――」
 何よりも、嬉しい。
 矛盾し続ける心は、彼らの本能の断片。
 それは理屈ではなく、ただひたすらに願い続ける祈りのような思い。理性や常識をかなぐり捨てて、胸の奥に小さなとなって彼らの命の続く限り存在し続ける。
「なんで無理やり奪うことがでけんのか……悲しむ顔は、見たないのにな……」
 神無から向けられた謝罪の言葉は拒絶ではない。
 だが同時に、いまのままでは光晴が選ばれる対象でないことを明確に伝えてきた。
「はじめは、ホンマに守るためだけに刻んだ印やった」
 華鬼が神無にむけるのが殺意だと感じ取り、花嫁を守るためのそのシステムを利用したのだ。主の印がある花嫁を庇護翼は否応なしに守る――その行為で凄惨な過去を背負い、それでも生き続けたあの命を守るための盾ができるのなら、かまわないと。
「守りたいだけやったのに」
「本能と呼ぶんでしょうね、この想いを」
 遠く桜の木を見詰めて、麗二が小さく呟いた。
「でもそれだけで好きになったりしないよ」
 ピクリと光晴の肩が揺れる。
「ここまで来たりしない」
 水羽の言葉に誘われるように光晴が顔をあげた。桜の木で囲まれた巨大な建物。華鬼の父親が鬼頭≠フ名を出して建てさせたと噂される空間はひどく閉鎖的で、自然とそこで育ってきたのだろう男の顔を思い起こさせた。
「歴代最高の鬼頭……」
 誰もが認めざるを得ない比類なき鬼の末裔。
「……本能で逆らうには、リスクが高い相手やな」
 小さな影を見つけ、光晴が苦笑した。
「ごめんな、まだあきらめ切れんみたいや。往生際の悪い男は嫌われるんやけど」
 庭園を頼りなく進む少女には届かないと知りながらもそう囁く。
 そして、彼女が向かっている場所に気付いてわずかに息を詰めた。
 まっすぐに彼女が歩を進めるその先には岩で囲まれた、木々によって隔離された館以上に頑なに総てを拒絶する場所があった。
「……神無って、勇気あるよね」
 彼女のむかう先に気付いた水羽も目を見張っている。
 麗二が味噌汁の入っているマグカップを仮設のテーブルに置くと、三人がほぼ同時に立ちあがった。
 神無に苛立ちをそのままぶつける華鬼――神無はたった一人で、彼のいる場所に近付いている。
 それが危険であることは、彼女自身も承知しているはずだ。
「とにかく、急ぎましょう」
 麗二が足を踏み出した時、素早く光晴が彼を制した。
「嫌なタイミングや」
 呻く彼の視線の先には、ダガーと呼ばれる両刃のついたナイフをかまえる鬼がいた。
 資料で見たその顔は、華鬼を敵視する鬼の庇護翼。
 よほど慎重に近付いてきたのだろう。この至近距離でようやく彼らの存在に気づいた光晴は、目の前の男たちを睨みすえて低く唸り声をあげた。
 明らかに臨戦態勢に入った三翼に、対する二人は各々ナイフをちらつかせて冷ややかに笑んでみせる。
「ここから先は通行禁止」
「このナイフの毒、知ってるだろ?」
 三翼の前に立ちはだかった鬼は、硬質な声音でそう問いかけた。

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