引き戸を閉めて、神無は顔をあげた。
 ひらがなで大きくゆ≠ニ書かれた藍色の暖簾が大きく揺れる。昨日の晩は結局、光晴に諭されて入浴をひかえ、ようやく今朝、再びこの場所に来た。
 二十四時間入浴が可能な個人風呂。個人といっても十分に大きく、やはりいつものように落ち着かなくて体を洗うにとどめて出てきてしまった。
 あらかじめ部屋に用意してあった服に袖を通し、浴衣を手にして神無は部屋に戻るために長い廊下を歩き出した。
 そして、廊下を折れたところで伊織に会った。
 相変わらず息子を胸に抱いて歩き回っているらしい。生まれてそうたっていないように見える小さな赤ん坊を彼女は優しい表情で見下ろして、ふと顔をあげた。
「朝食の支度が整ってるよ。おいで」
 軽く呼ばれ、神無は思わず自分の手にしている浴衣を見た。
「ああ、それはそこのカゴの中」
 籐で編まれた蓋付きのカゴを顎でさされ、神無は慌てて浴衣をその中に入れて伊織を見た。
 美しい指先で、伊織が赤子をあやしている。
「……赤ちゃん、連れて歩いても大丈夫ですか?」
 見るたびにその胸元にいる小さな命を神無は覗き込むようにして見た。本当に小さい。生まれてどのくらいたっているのかはわからないが、本当なら四六時中ベッドにいてもおかしくないほどだろう。
「この子、抱いててやらないと泣くんだよ。鬼の子は三日で首がすわるから楽だけどね。……抱いてみる?」
「……三日」
 色々なところが違うらしい。興味津々に見下ろしていると、伊織が赤ん坊を差し出した。
「お、落としそうだから……」
「そう言ってるんなら落としゃしないよ」
 くすくす笑って、伊織が赤ん坊を押し付けてきた。神無が慌てて手を伸ばすと、そこにはすっぽりと小さな命がおさまる。
「本当はねぇ、お腹にいたときに触らせてあげるのが一番いいんだけど」
 ゆったり歩きながら伊織が笑った。その意味をはかりかね、神無は歩調をあわせながら彼女を見た。
「おまじないなんだよ。鬼の子は生まれにくいから、早く元気な子に恵まれますようにって、花嫁たちは妊婦のお腹を触るんだ」
「……おまじない」
「鬼頭の子供なら、やっぱり鬼頭を名乗るくらい強い子供になると思うかい? それとも、忠尚様みたいなボンクラ?」
「誰がボンクラだ」
 背後から突然かけられた声に神無は驚いて振り返った。
「おや、聞こえたかい」
 むっつりと口元を引き結んだ忠尚が不機嫌そうに立っている。
「二日酔いかい? だらしないねぇ」
 おかしそうに笑って、伊織はちらりと忠尚を見た。それを恨めしそうな目で睨みつけてから、彼は神無とその腕の中の赤ん坊を交互に見た。
「あれの子供なら次期鬼頭だろう。バカなこと言ってないで、メシにするぞ」
「はいはい」
 あしらうように伊織が頷くと忠尚は神無に抱かれている我が子に手を伸ばした。
 ワシワシと乱暴に頭を撫でさする彼から神無は驚いて離れる。
 彼は浮いた手を下ろしてニヤリと笑った。
「早く初孫の顔を見せろよ。オレは気が短い」
 そう言って、忠尚は唖然とする神無の横を通り過ぎた。
 この状況から何をどうしたら初孫の話につながるのか、神無は混乱しながら考えた。
「庇護翼の言葉なんてあてにするな。お前は鬼頭の花嫁だ」
 小さくそう語った男に視線を移すと、フンと鼻で笑われた。彼がいったいどこまで状況を把握しているのかわからない。
 庇護翼の求愛の件は知っているだろうが、神無が出した答えを彼が知るはずもない。
 だが、自信に満ちたその表情は、やせ我慢のようにはどうしても見えなかった。
「――鬼頭を選ぶのかい?」
 忠尚の背中を見詰めたまま、伊織が静かに問いかける。神無は一瞬言葉に詰まって、小さく首を左右に振った。
 わからない。
 誰かを選ぶという考えがどうしても実感として湧いてこないのだ。
 光晴の求愛に、結局謝罪することしかできなかった。だが、それがそのまま華鬼を選ぶという結論にはならない。
 光晴が嫌いで出した答えではないのだ。そして、同じように残りの二人を神無自身は嫌っているわけではなかった。
 ただ応じられない。
 どうしても胸の奥に華鬼の顔がちらついてはなれない。
 深く知るのが怖いと思う気持ちと、言いえぬ衝動が胸の奥でゆらめき続ける。
 神無は深刻そうに表情を曇らせた伊織に赤ん坊を手渡して、そのまま忠尚について大広間に向かった。
 いくつも並べられた膳には、昨日と同じように花嫁たちがついていた。
 昨日と同じ――
 いや、同じではない。
 昨日いた男が、今日はいない。
 ぽっかりと胸の奥に穴が開いてしまったような感じがして、神無はあたりを見渡す。
 華鬼がいないことに気付いて忠尚は途端に不機嫌な表情になった。しかし、大広間にいる誰もが、彼の不在に気をとめようとはしない。
 それが、どこか奇妙でなぜか悲しくて、神無は華鬼がいなければいけないその場所から視線を外して畳を見つめた。
 苛立ちを向け続けた鬼がいないその空間は昨日よりずっと居心地がいいはずなのに、用意された朝食の味すらよくわからなかった。
 機械的に口に入れ、咀嚼そしゃくし飲み込む。
 その単調な作業を繰り返して、空腹を感じてもいなかった胃を満たし、そして茫乎ぼうことした意識のまま席を立った。
 どこにいるのだろうと、目が彷徨う。
 華鬼は昨夜、部屋には訪れなかった。
 誰かが見張っていたというわけではなく、おそらくは彼の意志で自室には戻ってこなかったのだろう。
 それは神無にとっては喜ばしいこと≠ナあるはずなのに、何かが胸の奥でつかえ続けている。
 その理由がわからない。
「――おい」
 不意にかけられた低い声に、神無は定まりなく揺れていた視線を後方に向けた。
「華鬼を探しているのか?」
 忠尚は不思議と静かな声でそう問いかけてきた。戸惑うような神無をしばらく見詰めて、彼はゆっくり庭に視線を移動させる。
「ここから出て、まっすぐ行ってみろ。どうせそこで寝てる」
 その言葉にハッとして神無は忠尚を凝視した。
 彼は皮肉っぽく笑って踵を返した。大広間に戻っていく男の背中をほんのわずか見詰め、神無は庭に面している渡り廊下を見渡して履物を探した。
「下駄……」
 それはすぐ近くの沓脱石くぬぎいしの上にあった。
 神無は黒い鼻緒の下駄のもとまで行き、それを履いてから忠尚の言ったとおり庭の中に入っていった。

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