大気が揺れる。
 まだ肌を刺すというほどではないが、わずかに肌寒さを感じる冷たく澄んだ一陣の風が大木の葉を大きく揺らした。
 夜風に流れる柔らかな髪の下で黄金の瞳がふと細くなり眼下を見据える。
 山中にポツリと建てられた呆れるほど大きな屋敷には、目を見張るほど見事な日本庭園があった。
 そこには重なった影が一つ。
「……へぇ。やっぱり来てるんだ」
 笑いを含んだ声で囁いて、彼は楽しげにその光景を凝視する。
 影の一つは三翼が一人、士都麻光晴。豪腕を誇る鬼頭の庇護翼。そして、その彼に抱きすくめられているのは彼が守るはずの花嫁、朝霧神無。
 長く沈黙を守り続けていた華鬼が選んだただ一人の花嫁。
 生まれながらにして鬼頭の名を与えられた至高の鬼が望んだ唯一の女――
「自分の刻印がある女だ。知らずに惹かれるのは当然、か」
 黄金の瞳を細めて嘲笑する。
 その真後ろで、ごそりと小さな音が生まれる。
「響?」
 暗幕から抜け出して、彼の庇護翼の一人である由紀斗が不思議そうな顔を向ける。
 響はちらりと後方を見て、そして再び眼下に視線を戻した。
 花嫁の幸せを真に願うなら、格上の鬼に選ばれた花嫁に求愛することはまず有り得ない。その常識をくつがえし、三翼が同時に鬼頭の花嫁に求愛したからこそこの不自然すぎる状況が出来上がった。
 その詳細を知る者は少ない。
 成婚初夜に何が起こったのか、あの乱闘の意味も結局よくわからないままにうやむやにされている。
「鬼頭が自分の花嫁を殺そうとしている?」
 そんな噂を耳にしたがあまりにも馬鹿げていた。
「オレじゃあるまいし」
 ポツリと響は呟く。
 確かに、服従を誓っているのではないかと呆れるほど花嫁に頭が上がらない他の鬼と比べれば、その行動は奇妙に映る。
 だが本当に噂どおりなら、花嫁がまだ生きているはずがない。
 たとえ庇護翼がどんなに必死で守ろうとも、鬼頭の名を受ける者がたった一人の女を殺せず手をこまねいているなど考えられなかった。
 再び小さく笑って、彼は二つに重なったままの影を見詰めた。
 鬼頭に選ばれるほどの者が己の花嫁に害を成すなど前例がないのだ。花嫁が鬼を嫌っているなら話は別だが、鬼自らが花嫁を否定することは彼らの世界では考えられなかった。
 それは本能に組み込まれた呪いのような物。
 多少の例外こそあれ、鬼は自分が選んだ花嫁をほぼ無条件に愛し守るのだ。
「……響、あそこにいるのって三翼の……」
「ああ、士都麻光晴。ヤツが来てるなら残りも来ているだろうな。それなら他の庇護翼もいる可能性がある」
 平然と返すと、由紀斗は驚いたように響を凝視した。三翼が動いているとなれば、その庇護翼たちも花嫁を守るために生家に来ていることは十分に考えられる。
 ならばそれを計算に入れた上で動くことが必要だ。
「それ……」
 うろたえる由紀斗に響は苦笑する。
「当然だろ。求愛した手前、鬼頭の生家には入りづらい。あいつらも、こそこそしなきゃいけないのはオレたちと同じだ。けどまぁ、侵入するのは簡単だな」
「……」
「ビビるなよ? お前の主は誰だ?」
「……響」
 戸惑うように答える庇護翼に、響はニヤリと笑った。
「そう、オレだ」
 ゆっくりと噛み砕くように言葉にすると、由紀斗が息をのむ。これから言わんとするその内容を理解したのだろうが、響は言い聞かせるように口を開いた。
「オレだってもともとは三翼候補の五人のうちの一人だ。選ばれなくて清清せいせいしたが、奴らに劣ってるなんて思ったことは一度もない」
 三翼に選ばれることは栄誉に値するが、華鬼の庇護翼であることは苦痛以外の何物でもなかった。
 そして、たとえ選ばれたとしても主に尽くすことはしないだろうと他の者たちが判断し、彼が華鬼の庇護翼になることはなかったのだ。
 力が劣っているわけではない。
 むしろ問題視されたのはその思想、その行動。
 華鬼に向ける――いや、鬼頭≠ニいう名そのものに向ける敵愾心だった。
「今のうちにゆっくりしておけよ、鬼頭の花嫁」
 鬼を苦しめるのは簡単だ。強い鬼であればなおさら、それは確かな形となって露呈する。
 花嫁≠ニいう形で。
 響は冷笑した。
 くだらないものの上に胡坐をかいている鬼がいる。そしてその鬼の刻印を持つ女は、あまりにも無防備に目の前にいた。
「明日が楽しみだな」
 囁きを夜風に乗せて、彼は身をひるがえした。

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