無人かと思うほど閑散とした校内には、その実、驚くほど多くの気配がひそんでいた。ある者は闇にまみれ息を殺しながら機をうかがい、またある者は威風堂々と待ち受け拳を振り上げ、またある者は無関係を装い油断したすきに襲いかかってきた。
 しかし、結果的には誰も彼もが判で押したように同じ末路をたどる。
 床に伏した男たちを一瞥しただけで、これといって興味も示さず、華鬼は短く息を吐き出して歩き出す。そして、神経を尖らせ辺りを慎重に探って足を止めた。
「相変わらず……死にたいらしいな」
 ひどく不快な気配が四方から押し寄せてきて彼の神経を逆撫でする。それは五時のチャイムと同時に刻々と増え、今では鬼ヶ里高校全体に広がっていた。
 神無の気配に似せてはあるが、明らかに別のものだ。乱暴に目の前のドアを開けると気配が急速に広がり、それにともなって怒りとも苛立ちとも取れない感情が胸の奥で大きく膨らむ。
 風を感じた瞬間、華鬼は体をわずかに反らせた。瞬時に背後で鈍い音が聞こえたがそれを無視して室内に踏み込む。続いて窓ガラスが割れ、壁が奇妙な音をたてる。かろうじて視線を動かすと、そこには娯楽で使うはずのダーツが深々と突き刺さっていた。
 いくらおもちゃであっても先端は鋭い針なのだ。場所が悪ければ命にかかわる。しかも力加減は一切なく、異様なほど壁にめり込んでいるダーツから、相手が渾身の力をこめてはなった一矢であることは容易に想像がついた。
 鬼の一族と言うものはもともと力が強く、その腕で投擲とうてきされた武器は時に生命さえ脅かす凶器となる。しかも敵は、どうやらそのつもりで狙ってきているらしい。ことごとく頭部のあった場所にダーツが突き刺さっていく。
「いつまで逃げてる気だ!?」
 不意に声が聞こえ、別の気配が動いたと判断した時には体が自然と応戦の体勢に入った。たとえ意識を失っていても生命を守るために動く忌まわしい体だったが、いまは万能と言わんばかりに自在に動き、間近で繰り出された拳さえ難なくよけた。そして、空を切った腕をすり抜け一瞬だけ身を沈め、襲ってきた男の襟元を掴むや否やくるりと体を反転させる。
 肉を挟んで鈍い衝撃が伝わり、男の口から悲鳴が漏れた。遠くで聞こえる舌打ちに瞳を細め、そのまま拳を突き出すと同時に体重を乗せる。いくら鬼の体が丈夫でも脳震とうまでは対応しきれない。崩れる体を器用に利用し、華鬼はダーツをかまえた男に突進して壁に押さえつけた。
「神無の居場所は?」
 ぎりぎりと喉をしめつけると苦しげなあえぎ声だけが返ってくる。しめすぎだと気付いて緩めてみたが、知らないとだけ返ってきた。
 すでに十数回繰り返してきた問答だ。苛立ちに任せて腹部に一発、崩れたところをすくい上げて顎に拳を送って華鬼は大きく息を吐き出した。室内は妙な気配で満たされている。それを注意深くさぐって歩き出し、部屋の中央で立ち止まって視線をめぐらせ、彼は備え付けの棚へと足を向けた。
 乱暴に押し開けると中には小さな機械がひとつ、無造作に転がっていた。
 ふざけている。人をからかうにもほどがある。苛立ったまま機械を掴み、床に落とすなり踏み潰すと、部屋は途端に水をうったように静かになった。
 変わりに、別の場所から同様の気配がじわりと広がった。今まで確認してきたはずの教室からも忍び寄ってきて、いっそう彼を不快にさせる。鬼ヶ里高校の便利なところは棟と棟を繋ぐ通路が多いことなのだが、それは今の彼にとって決してプラスとは言えない。どれだけの鬼がひそんでいるのか確認さえできない校舎の中で、彼らが動かずに一ヶ所にとどまっている可能性は五分五分だ。
 鬼の中には、直前まで使用していたと思われる壊れたトランシーバーを持つ者もいた。倒しても倒してもどこからともなく湧いてくる敵は、独自の通信網を築いて団結しているのだ。うまく利用すればいくらでも優位に立てるだろう。
 この校舎内で「味方」と呼べる鬼はわずかに三人――それが今まで拒絶し続け一番に対立していた男たちであることに皮肉のようなものを感じ、彼の表情は険しさを増す。
 本来なら、助けなど求めない相手だ。
 けれど、今は――今だけは、不本意ながら彼らの存在が心強いと思う。
 廊下に飛び出した華鬼は、前触れなく振り下ろされた木刀を反射的に掴む。じんと手のひらが痺れたが、拳は迷いなく男に叩き込んだ。
「次からは真剣にしろ」
 日本刀が校長室に飾られていたことを思い出しながら皮肉を口にしたが、相手はすでに昏倒した後だった。
 華鬼は非常灯だけが光源となる薄暗い廊下で時計を確認する。すでにあれから二十分がたち、傾いていた陽は完全に落ちて西の空は白く光が残るだけとなり、窓の外には一面に灰色の世界が広がっている。
 くしくもそれは、絶望とともに神無が長く見つめてきた世界と酷似していた。そして、その事実を知らない華鬼の心にもじわじわと不安を植えつける。
 すくむように立ち止まった華鬼は不安を振り切るように足を踏み出す。敵をすべて鎮めれば、響がいくら慎重に身をひそめていても必ず気配を読み取れるはずだ。焦りを隠しながら確実な成果をあげるために隣室のドアを蹴破った華鬼は、その部屋にうごめく人影に警戒を強める。
 薄暗い室内には等間隔に机が並び、人影のひとつがそれを持ち上げるなり振りかぶった。華鬼は瞬時に伸ばした手で投げられた机の脚を掴む。だがバランスが悪く、大きく弧を描いて机の一部が窓ガラスにあたって激しくそれを砕いた。
 忍び笑いが聞こえてくると、華鬼は手にした机を薄闇の中に投げつける。
「残念でしたー」
 ふざけた声に、窓ガラスの砕ける音が重なった。机は校庭に落ちたのだろう。割れた窓から冷気がうねりながら流れ込んできて室内が急速に冷えていく。
「寒いな」
 空調だけが轟々と音を立てる中、低く誰かがつぶやいた。複数の影が薄闇の中で蠢いているのが目視だけでわかるが、それ以外に隠れている者もいるに違いない。だが、いまの華鬼にはそんなことなどどうでもよかった。
 立ちはだかる者は排除するまでだ。無論、立ちはだからなくても邪魔であれば始末する。この状況で活路を見い出すなら、校舎内で動ける者は一人でも少ない方がいい。
 怒りに侵食されるように空気が重くなった。彼らの本能に直接圧力をかけるような威圧的な気が、鬼頭と呼ばれた男を中心に増殖していく。
 がたりとどこかで机が鳴いた。格の違いをまざまざと見せ付けるような怒気にひるんだ男が細く短く悲鳴をあげる。
「馬鹿野郎、ひるむな」
 怯えを見せる男に向けた叱責には覇気がない。
 かろうじてひとつだけ薄闇の中で前進する影があった。ゴソゴソと服をさぐり、男は闇にまみれそうな灰色の物体を華鬼に向けて突き出した。
「ここに一通の手紙がある。欲しかったら奪ってみせろ」
 挑発する声はわずかにうわずっていた。
「いい度胸だ」
 それでもなお戦いを挑むのは、おそらく血筋というものだろう。ならば容赦する必要などないと判断し、華鬼は床を蹴った。
 乱闘など幾度となく経験してきた。生れ落ちた場所と身につけた血の濃さがあまりにかけ離れ、たったそれだけの理由が彼をつねに孤独へと導いた。
 他者と対峙することには慣れている。本能だけが生へ執着し、結果として彼はどんな時でも確実に生かされてきた。戦ったのは己の意志ではない。挑んできたから迎え撃ったのだ。
 しかし、いまは違う。
 自らが望み、戦いの場に留まっているのだ。
 たった一人、いまだにどう扱っていいのかわからない娘のために。ようやく手に入れた安息を取り戻す、そんな単純な理由で。
 決着はほんの数分でついた。華鬼は男の手から手紙をむしり取ると表書きを見て眉をしかめ、開封して内容を確認するとあたりを見渡してから歩き出した。
 奇妙な内容だ。罠である確率が高い。
 だが、相手の罠にはまってでも情報が手に入れたい。いまのまま漠然と捜していたのではいつになったら目的地にたどり着けるか見当がつかなかった。
 出会いがしらの敵は問答無用で拳を食らわせ、足早に一階へおりて渡り廊下を突っ切り、そのまま保健室を通り過ぎて何故か明かりのついている職員室のドアを開けた。
 そして、いったん立ち止まる。
「うわ! なんで華鬼まで来るの!?」
「アホやな」
「これで勢ぞろいですね」
「携帯使えないの痛いなぁ。罠だと思ったんだけど、気になるから来ちゃったんだよね」
 どうやら到着したばかりらしい見慣れた三人は、華鬼を見てそれぞれに嘆きの表情になる。
「……どうしてここにいる?」
 思わず緊張感が緩みながらも華鬼は室内に足を踏み入れた。
「私は熱烈なラブレターを受け取りまして」
 備え付けの棚を確認しながら、麗二は趣味の悪い赤い文字のつづられた封筒を閃かせた。
「ラブレター?」
 職員室に並ぶ机の引き出しを次々と確認しながら水羽が首を傾げる。
「ええ、血文字の。あまりに熱烈なお誘いだったので受けたんですが。水羽さんは?」
「ボクは招待状って書いてある。普通にね。光晴は?」
「身代金請求書」
「……なんか、それで素直に来ちゃうのもどうかなーって感じだけど」
「中身は招待状や。ヒントが隠してあるから職員室に来いってな」
 これで罠である可能性は限りなく高くなった。しかし、万が一この情報が真実であるなら一刻も早く入手したい。苛々しながら盛大に机の上の書類をなぎ払っていると、
「華鬼のはなんて書いてあるの?」
 近くにいた水羽が机を確認しながら聞いてきた。答えるのも面倒くさい気がしたが、ポケットにねじ込んであった封筒を抜き取って水羽に投げた。
 そこには仰仰ぎょうぎょうしく「果たし状」と記されている。
「……いまどきこれで来ちゃうのもなぁ……」
 呆れる水羽に華鬼は内心同意する。確かにこれでのこのこ来るほうがどうかしている。だが、情報がない。敵があふれるばかりの校舎で、腹立たしいことに神無を捜す術が一切ないのだ。
 黙々と職員室の備品を破壊して歩く華鬼の姿に、水羽はこんな状況にもかかわらず破顔一笑した。
 書面にあった物を探し続けること十数分、ぞんざいに引き抜いた引き出しに紙が一枚入っていた。
「……殺す」
 ぷつりと理性が切れる。華鬼の異常に気付いた水羽が歩いてくると、麗二と光晴も小走りで近づいてきた。
 そして、華鬼が視線を落としていた紙面に顔を引きつらせる。
「武士に二言はありませんかっ!?」
「いや、武士やない! ってか、ホンマにムカつくな」
「そりゃ間違いじゃないけど……なんか頭痛くなってきた……」
 紙にはただ一言「ヒント」とだけ書かれ、それ以外の文字はない。確かにヒントは隠してあったが、こんな馬鹿な言葉のために大切な時間をロスしたのかと思うと怒りが限界を超えそうになる。
 まともな対話さえ望まない敵に気を遣う必要などないと判断し、一人ずつ捻じ伏せることを心に決めて華鬼が早々に歩き出すと、職員室のドアが乱暴に開いた。
「招待状、受け取った?」
 笑む男の背後には廊下を埋め尽くすほどの鬼がいる。すりガラス越しに揺れる人影に目を見張りとっさに校庭側の窓を見たが、そこにも大勢の鬼たちが中をうかがうようにして待機していた。
「一気につぶしにかかってきたな」
「まあ当然かな」
「……本当に舐められたものですねぇ」
 三翼の声に鬼たちが笑う。しかし、華鬼を見て笑いを消した。
「どけ。死にたいか」
 冷ややかな声に誰もが息を呑む。怒りも苛立ちも隠そうとしない華鬼に気圧されしながらも、彼らは自分たちの仲間を確認して気を取り直したように室内に足を踏み入れた。
「この人数をやれるとでも?」
「いくら鬼頭と三翼でも無理だね」
「そうだ、ここでこいつら潰しちまえばいい!」
「このチャンスを待ってたんだ……!」
 誰かが口火を切ると、不満は一瞬で膨れ上がった。あとは後ろから押されるように鬼たちが室内に雪崩れ込んでくる。
「え!? ここでやるの!?」
 職員室は広めではあるがきっちりと並んだ机は大きく、しかもその床は書類や文房具、引き出しなども散乱して非常に足場が悪い。水羽が悲鳴をあげるのも多少は頷ける。
 だが、華鬼は引く気にはなれなかった。ここでこれだけの鬼が始末できるのは都合がいい。余計な鬼たちを一ヶ所に固め、残りの気配を一つずつつぶしていけば最後には必ず目的の場所にたどり着けるはずだ。
 果たしてこれは誰のための罠であったのか――華鬼は狼狽するどころか嬉々として拳を握る。
 怒号と破壊音は異様な熱気で瞬時に伝染し、次々と突撃してくる男たちで室内は瞬く間に乱闘騒ぎになった。
 軽く身をひねって敵の攻撃を避けると、華鬼の真後ろにはいつの間にか殺気立つ光晴がいた。
「おい、神無ちゃんの居場所、ホンマにわからんのか?」
「ああ」
「しっかりしろ、鬼頭の名が泣くわ!」
 基本的によほど強い刻印でなければ、花嫁ははじめに印を刻んだ鬼の影響を一番強く受ける。神無の印の基盤は華鬼のものだ。彼が一番、彼女の居場所を探るのに適しているはずだった。
 華鬼は光晴の言葉に憤りを覚えたが、いつもなら彼にぶつける怒りを敵へと集中させた。焦っているのは光晴だけではない。一分一秒を争うのは華鬼も同じことだ。ここで仲間割れをするくらいなら、戦力となる男を上手く利用するほうが先決だ。
「大体なんやねん、その鈍さは! ホンマ考えられへん。脳ミソ沸いとるんか!?」
 無視を決め込んだ華鬼の耳に光晴の非難の声が飛び込んでくる。なにが鈍いんだ、誰の脳が沸いてるんだと襟首を掴んで問い詰めたい所だが、それもぐっとこらえて怒りはそのまま振り上げた拳に込めた。
「それがいまさらか!? こんなんなって、ようやく動く――華鬼は歴代鬼頭の中で最高に阿呆や! 有り得ん。こんな馬鹿についとったなんて一生の恥! これでまだ気づいとらんのやから、正真正銘の大馬鹿モン!」
 本日二回目、ぷつりと音を立てて理性が切れる。華鬼は身近にいる男の襟首を掴むと悲鳴を無視して渾身の力を込めて腕を振り切った。光晴はどよめきの中で投げられた男を、これまた渾身の力で横払いする。職員室内に押しかけた鬼たちはとっさに飛んできた男を避けようと右往左往し、数名が巻き添えを食って壁に叩きつけられていた。
「……なにやってんの、この状況で」
「熱血ですねぇ」
 離れた位置から水羽と麗二の声が聞こえてきたが、言い訳も面倒で光晴を睨みつけた。
「貴様から沈めるぞ」
「は! やれるモンならやってみろ、このド阿呆が」
 言葉とほぼ同時、脳髄を揺さぶる強烈な衝撃が華鬼を襲い、体が壁へと叩きつけられる。一瞬なにが起こったか理解できなかった彼は、体の広範囲に渡る痛みと顔面に炸裂した衝撃に息をつめた。
「餞別じゃ、馬鹿が」
 しっかり踏み込んだ足を引き、握った拳をときながら光晴が憮然と言い放つ。辺りがしんとなった。あまり豪快な仲間割れに茫然とする敵の中には、光晴の一撃に震え上がった者さえいた。
「鬼頭の名を持つ男が、何でこんな簡単なことがわからん? ホンマ、いい加減にしくされ」
 光晴は怒声とともに間近にいた敵の襟首を掴み、先刻華鬼がしたように大きく振りかぶって投げつけてきた。慌てて体勢を立て直した華鬼がその場を離れると、無残にも壁にぶち当たった男が勢いよく床に転がる。
 なにが言いたいのか華鬼にはまったく理解できない。しかし、相手が相当怒っているという事はわかる。それこそ、敵も味方も見境がないくらいに。
「いい加減に目ぇ覚ませ、このボケが! いままでお前が苛ついとった理由を一度でもちゃんと考えたことがあるか!? 神無ちゃんを認めてからここは居心地がよくなったやろ!? その理由を、頭使ってちゃんと考えろ!」
 怒鳴り散らしながら八つ当たりのようにひるんだ敵の中に飛び込んでいく光晴に、華鬼はただ混乱して投げられた言葉を反芻する。
 理由など何度も考えた。いてもいなくても苛立たせる相手が神無という名の彼自身の花嫁だった。感情が大きく揺さぶられる時には、不思議と彼女がかかわっていることが多く、しかし、その理由など深く追求することはなかった。
 襲いくる敵に無意識に応戦しながら、華鬼は思考をめぐらせる。
 まるでスイッチが入るように、何かを境に彼女の存在が苛立ち以外のものを彼に与えた。邪魔でなくなっただけなのだと漠然とそう思っていたが、今では彼女のいる場所は確かに不思議と居心地がよかった。
 彼女に向ける感情が大きく変わったという自覚が彼にはなかった。いやむしろ、向けている感情自体は殺意を抱いていたあの頃となんらかわっていないはずだ。
「悩むな!」
 光晴の鋭い声にはっとする。
「一等簡単なことでそんなにグダグダ悩むな! お前はなんで神無ちゃんに印を刻んだんや!? それが一番はじめの感情だろうが!」
 声に導かれるように目の前の敵を床に沈め、思い出す。母を看取ったあとに出会った、貧相な女を。脆弱でなんの魅力もなく、強い殺意さえ抱かせた身重の女――殺すことなど簡単にできた。たとえどんなに懇願したとしても、その気になれば躊躇いなく殺せたはずだった。
 けれど、彼は泣きすがる女を殺さなかった。直前に見た、淡い笑みが胸の奥で引っかかり、殺す価値さえないのだと己に言い聞かせ生かすことにした。
 しかし真実は。
「……オレは、ただ」
 そう、もっと単純に、あれほど望まれ生まれてくる娘に。
「会いたかったから」
 印は呪縛だ。必ずもう一度、彼女は自分の元にやってくる。それを本能で知っていたからこそ印を刻み――だが同時に、彼は鬼頭という名の重さに辟易していた。花嫁たちは鬼頭の名だけを目印に彼に群がり、同時に彼の存在というものをことごとく踏みにじっていった。
 それなのに、彼はその忌まわしい慣習となるものを女児に刻んだ。
 印を刻んだことを何度後悔したか知れない。あんな思いをするくらいならいっそ花嫁など死んでしまえばいいのだと身勝手に残酷に願いつづけ、苛立ちは日増しに大きくなって神無が十六歳の誕生日の日、それがとうとう限界に達した。
「華鬼! 援護する!」
 水羽の声に現実に引き戻された華鬼は一瞬大きく体を揺らした。
 人垣が崩れ、悲鳴があがる。
「仕方がないですねぇ」
 麗二の声とともに、別の場所でも悲鳴があがる。なぜ嫌っているはずの主人に彼らがここまでしてくれるのか、やはり華鬼には理解できない。
 感謝の言葉も謝罪の言葉もとっさには出てこなかった。ただ言われるまま、崩れ始めた敵の中を出口へと向かって突き進んでいく。
「華鬼」
 この状態でどうやって近づいてきたのか、わずか数歩先に光晴の姿があった。
「捜せ、あの子を。オレには何も聞こえん。けど、必ずお前の名を呼んでるはずや。あの子が三翼を呼ぶんはな――悔しいが、はじめっから」
 どこから入手したのか、その手には雪像づくりに使われた足場のパイプが握られていた。
「お前のためだけや」
 大きくパイプを薙ぎはらうと目の前の道が瞬時にひらける。華鬼は光晴の言葉の意味をはかりかねてちらりと彼を見ると、ひどく苦しげな笑みが返ってきた。
「おかしいやろ。あの子はお前のためだけにしか三翼を呼ばん。そんな子が自分≠フために助けを求めるんなら、それは三翼やない」
 周りを威嚇しながら持ちあげた足は、そのまま職員室のドアを力強く蹴破っていた。鈍い音とくぐもったうめき声が聞こえたが、光晴は容赦なくそれを壁へと押し付ける。
「約束したんや。何があっても必ず守るって。……その言葉、お前に預けた。必ず見つけだせ」
「――わかった」
 殺気にたじろぎ敵の中にわずかな空間ができる。その隙を見逃すことなく、華鬼は驚倒する敵へ単身で身を躍らせ道を作る。背後で威嚇するような怒声が聞こえた。室内がどうなっているのかわからない者たちは、興奮しすぎて逆行しているのが華鬼であることには気付かないらしい。
 顔を伏せ人垣を抜けたが、末端の者はおかしな行動をとっている華鬼に注意さえ払っていなかった。
 異様な熱気を抜けるとふっと冷たい風が頬を撫でた。
 大きく息を吸い込んで、囮となった三人がいる場所に視線を投げてから駆け出した。鼓動が早くなっていく。足を一歩踏み出すたびに、何かが変わっていくような錯覚。
「神無」
 幸い、敵は一ヶ所に集まってくれたらしい。閑散とした廊下をぬけて彼は視線をめぐらせた。
「オレを呼べ」
 相変わらず不快な気配がいたるところから発せられているが、それが神無のものでないことなどわかっている。神経を研ぎ澄まし、彼はいったん足を止めた。
 しかし、望む気配はいまだに掴めない。通常なら捉えやすい花嫁の声も、気味が悪いほど感知できない。
 焦りが胸の奥でとぐろを巻く。
「どこだ……? 神無が――堀川響が、隠れそうな――」
 このまま走り回っているだけではいつまでたってもたどり着けないだろう。神無の気配をあきらめ校舎内に残っている鬼の気配を探ったが、それらは職員室に集中していてやはり役に立たなかった。
 校舎の外である可能性は否定できない。華鬼は窓の外に広がる灰色の世界を見つめ瞳を伏せた。
 可能性は否定できないが、おそらく校舎の内部だ。いくつかある棟の中で、花嫁の気配を隠せるだけの設備がある場所など思いつかず、うっすらと瞳を開き、そこで彼は動きをとめた。
「……放送部」
 そこは、神無が所属し、そして響も籍を置く部活だ。響の庇護翼の一人も副部長として在籍していることを思い出した瞬間、彼は廊下を駆けだしていた。
 放送部はいくつかの部室を所有し、その一部は他の部活と共有されている。基本的にそれらは通常どこにでもある設備を有していたが、たった一部屋だけ、他とは違った奇妙な場所があった。
 そこは四方が壁で囲まれ、窓はなく、分厚い扉で閉ざされていた。かろうじて備え付けられた空調も特殊なものだと生徒会副会長の須澤梓から聞いたことがある。たまに気紛れで出席した会議で、使う予定もない無駄な部屋があると彼女は不満げに漏らしていた。
 興味のなかった彼はそのままその話を聞き流した。利用用途も目的も、その時は一切知らされていなかったのだ。
 だが、他に思い当たる節はない。授業中はサボって校内の空き部屋にいたことの多かった彼は、これ以上疑わしい部屋がないことを確認して階段を駆け上がった。
 廊下を駆け抜け、再び階段を駆けあがる。さらに階段をあがり、渡り廊下をすぎて角を折れて突き進み、彼は物物しいアルミのドアの前で立ち止まった。他のドアに比べ一回りも大きいドアのノブを掴むと、内部から鍵がかかっているようで左右にわずかに動くにとどまった。
 どっと心臓が鳴った。
 特別棟にある部屋は、貴重品がなければ施錠されることはない。華鬼はノブから手を離し、数歩さがって勢いをつけた。
 ――その娘は、彼が手ずから死を与えようとした花嫁だった。
 しかしどうしても殺すことができない花嫁でもあった。
 死を願えば心がすさみ、殺そうとすれば苛立ちが増す。軽く首をひねればいとも簡単にこの苦痛から逃れられると思っていたのに、どうしても手を下すことができなかった。
 苛立ちと怒りに、安堵と安息が混じり始めたのは何がきっかけであったのか――やがて彼は、彼女を否定することをやめた。
 すると不思議なことに、これまで続いてきた憤激が嘘のように消えた。
 疑問に思いながらもその空間が心地よく、彼は知らずにそれに溺れていった。安心しきった顔で眠る少女を抱きしめて、彼もまた、平素からは考えられないほど穏やかな時間を手に入れた。
 ゆるりと流れるあの時間が何であったのか。
 蹴破ったドアの向こう、どこか陰惨な空気に満たされた室内を見て、彼はようやく理解する。
 ずっと続いてきた苛立ちは、彼の本能が働いたがゆえに生まれた感情の揺らぎだった。
 求め守り慈しむことを本能が望んだにもかかわらず、愚にもつかない事ですべてをあきらめ拒絶したがために、彼の心は完全にバランスを崩した。しかし過去の彼は、それを神無のせいだと思い込みさらに状況を悪化させた。
 それはひどく単純な話しだった。
 本能はいつでも彼女を守るために動いていたというのに、花嫁を嫌おうとした彼だけがその事実に気づけずにいた。怒りの強さはそのまま愛情の深さへと転化されるものだということも知らないままだった。
「遅かったね、華鬼」
 部屋はやけに明るく、目路を男たちが埋めていた。その一室には報告どおり窓はなく、不快な空気で満たされていた。蹴破られたドアを見てどよめき割れていく人垣の奥で、白々しいほど親しげに秀麗な鬼が笑った。
「なかなか楽しいショーだったろ?」
 つづいた言葉は、華鬼の耳には入らなかった。彼の視線はゆっくりと床をたどり、力なく放り出された白い腕、むき出しの細い肩、乱れる黒髪へと移動する。
 顔は見えない。ぴくりとも動かない娘が生きているのか死んでいるのかもよくわからなかった。
 彼女に覆いかぶさっていた響は華鬼を見つめながら譏笑きしょうし、ゆっくりと体を起こして乱れた着衣を直していた。
 怒りとも嘆きとも、絶望ともつかない唸り声が唇を割った。
 眼裏が赤くそまる。
 理性を手放し、彼は躊躇うことなく敵陣へと身を投じた。

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