大気を満たすのは血臭と怒号。もみ合う人々は一塊となり、次第に聞き慣れない音と悲鳴が混じりはじめる。
 一人、また一人と乱闘の輪からはずれた男たちは、まるで魂のぬけた人形のように座り込み、部屋の中央――異様な熱気がうずまく中心を呆然と見つめていた。
 黄金の閃光がいくつも走り抜ける。自在に動き回る光は対を成していたが、その数は時間をおうごとに確実に減少していった。
 その中で一つだけ、他のどれよりも目を引くものがあった。鮮やかな金の光は胸を締め付けるような慟哭の色を宿す。それは怒りに満ちながらもひどく悲しげで、気付けば目が離せなくなっていた。
 そうしてそれが最後の一対として残った頃、朧気に霞んでいた世界が暗転する。
 血臭が去り、静寂が辺りをつつむ。霧がかかったように霞んだ意識は次第に鮮明になり、神無は苦しげにあえぎながら目を瞬いた。
 眼界には薄闇が広がっている。
 何度も目を瞬いて、神無はゆっくりとあたりを確認した。窓一つないその部屋からはあれほどひしめき合っていた人影が消え、かわりに奇妙な静けさだけが残されていた。
 神無が訳もわからず薄闇に慣れない瞳を凝らしていると、不意に気を失う前の記憶が蘇ってきて全身が震えた。
 逃げ場がないと悟った時、神無は舌を噛み切ろうとした。昔繰り返していた自傷の続きだ、躊躇いなど微塵もなかった。あの苦痛から逃れられるのならどんな方法でもかまわないとさえ思った。
 そう、躊躇いなどなかったはずだった。たった一人、はじめの印を刻んだあの鬼に出会うまでは。どこか寂しげなその顔を思い浮かべてしまうその直前までは。
 神無の一瞬の迷いは響に気取られ、彼は嘲笑いながらそれを止めた。死ぬなら全部終わってからにしろと残酷にささやいて、布を、口に――。
 ざわり、ざわりと寒気を覚えるような何かが全身を包んでいく。ひどく記憶が曖昧で、感覚すらどこか狂っているような気がして神無は大きく身を震わせた。
 虚空を見つめて途切れた記憶を手繰たぐっていたが、どうにも上手く思い出せない。しかし、ここが不快な場所であることは間違いない。動けばこの均衡が崩れてしまいそうな不安を覚えながらも、恐怖に突き動かされるように体を起こし、慎重に床に足をおろした。
 指先に氷のように冷たい何かが触れる。
 とっさに足をあげ、神無は床を凝視して硬直した。男が倒れている。それも、一人や二人という数ではなく、床一面を埋めるほどの人数だ。床を赤黒く染める液体に目を止めた神無は無意識に口を押さえ、そこから少しでも離れようと体を動かす。
 気付けば全身が激しく震えていた。無残に切り裂かれた制服をかき合わせ、神無は身を丸めてきつく目を瞑った。
 ぴくりとも動かない男たちはとても生きているようには思えなかったが、生死を確認するほどの勇気は出ない。一体この場で何が起きたのか、疑問と混乱だけが渦を巻いて彼女の胸中を占めていった。
 だが、このままここでじっとしていることも恐怖に繋がる。
 気を静めるために神無は大きく息を吸った。その直後、衣擦れの音が彼女の耳へと届く。音は確実に近くなってきているのに、床を歩く独特の音が聞こえてこない。疑問に感じながらそっと目を開けると、人影は倒れこむ男たちを平然と踏みつけながら神無の元へと歩を進めていた。
「お目覚め?」
 楽しげな声は、今一番聞きたくない男のものだった。
 静まっていた警笛が再び狂ったように鳴りはじめる。逃げなければならない。ここではないどこか安全な場所に逃げ込んで、二度と会わないように、会わなくてすむように鍵をかけ――。
「助けなんて来ないよ。残念だったね」
 一歩一歩確実に近づいてくる響は獲物を前にした肉食獣のようだった。鋭い眼光に囚われた神無は身じろぎすらできずに迫ってくる男を凝視した。
「――き……」
「無駄だよ」
「華鬼」
「しつこい女だな」
「――華鬼!!」
 絶叫した瞬間、肩に熱がこもり、体が大きく揺さぶられた。恐怖にあらがい何度も華鬼の名を呼び続けると、ふっと頬があたたかい物に包まれた。
「神無!」
 喉の奥に絡み付いて出ることのなかった悲鳴が、呼び声に応えるように細く唇を割った。
「どうした!?」
 続けられた言葉に彼女は双眸を大きく見開く。いつの間にか泣いていたらしい。白く崩れる世界が目の前に広がり、その中央には見慣れた男が狼狽えながら立っていた。
「華、鬼?」
 なにがどうなっているのか理解できず神無は小さく喘いだ。顔を覗き込んでくる彼の顔に震える手をそっとのばすと、彼はほんの少しだけ動転しながらも大人しくされるがままになっている。
 指先が頬に触れる。あたたかく柔らかな感触に緊張が緩む。だが、まだ夢と現実の区別がつかない神無は、これが現実なのかを確認するように指先に力を込めて華鬼の頬をつねっていた。
「……おい」
 やや崩れた顔のまま柳眉をしかめた華鬼は、神無がするように彼女の頬を軽くつねってから、
「なんの真似だ?」
 と、間抜けな光景に似合わないほど真面目な表情で問いかけてきた。神無の中で緩みかけた緊張が瞬時に崩れ、頬をつねっていた手を離して彼女はその腕を華鬼の首へとのばしてしがみ付いた。
 確かに感じることのできる温もりは夢ではない。これは現実≠ネのだ。
「……嫌な、夢を見て」
「……」
「それで……」
「その夢はもう二度と見ない」
 静かに断言する声に神無は濡れた睫毛を上げた。力強く全身をくるむ腕に吐息をついて、神無もしがみ付く腕に力を込める。
「うん」
 華鬼のたった一言に気が楽になる。なだめるように背中をさすられた神無はそれに安心してさらに腕に力を込めると、顔に鋭い痛みを感じて小さく声をあげた。
 華鬼は瞬時に抱擁をとき、きょとんとする神無の顔を覗き込んで再度、頬に触れた。
 先刻と同じ痛みに彼女が顔をしかめると、
「待ってろ」
 短く残してあっさりと部屋を出ていってしまう。心地よい腕を失った神無は名残惜しそうにドアを見つめ、そして涙を拭いている途中で今更ながらぼっと頬を染めた。
 最近の華鬼は、周りが不思議がるほど変わった。人を寄せ付けない雰囲気はそのままなのに、以前ほど激しく人を拒絶したり軽蔑することがなくなり、女遊びもピタリとやめた。苛立っていることも少ない。二人でいるときはなおさら、穏やかと言っていいくらい大人しかった。
 だが、あそこまで優しくされたのははじめてだ。あんな風に労わるように抱きしめられたことも、当然ながら今まで一度もなかった。
 神無は思わず首を傾げた。そして、やっと自分が見慣れた部屋のベッドの上にいるのを確認し、さらに無残に引き裂かれた制服ではなくパジャマを着ていることに気付く。
 着替えた記憶はない。じっと考え込みながらパジャマを見ていると、長い黒髪がさらりと流れた。それは、わずかに水気を含んでいる。
「……?」
 指を髪にからめて確かめたが、やはり少しだけ湿っている。今晩は雪も降っていないから外を歩いただけでは濡れたりしないだろう。心なしか体もしっとりしているような気が――。
 悶々と考え込んでいると寝室のドアが開き、救急箱を片手にした華鬼が入ってくる。
 よく見れば彼もパジャマを着ている。髪はタオルで拭いたきりなのか、明らかに濡れていた。
 疑問符を浮かべている神無に気付かず、華鬼は救急箱をサイドテーブルの上に置くと消毒薬と綿、それにピンセットを取り出してからついっと神無の顎を掴んだ。
「切れてるな」
 少し不機嫌そうに口にする。
「これは?」
「あ……あの、殴られて」
 口に布を押し込まれ、それから殴られたのだ。本気で殴っていればこんな軽症ではすまなかっただろうから、多少はあの鬼も手加減したに違いない。
 しかし、華鬼の機嫌はさらに悪くなった。
「もう一本折っておけばよかった」
 ボソリとつづけ、華鬼は不思議がる神無を無視して手早く治療する。
「気分は?」
「平気」
「……そうか」
 治療を終えた華鬼が一つ頷きさっさと救急箱の蓋を閉めるのを見て、神無は焦って手をのばした。
 彼の顔にも派手に殴られた痕がある。この分では体にだって傷があるに違いない。彼の手から救急箱を奪うと、すぐに彼女の意思を察した彼は、大仰に溜め息をついてから彼女の隣に腰をおろした。
 ベッドが少しだけ上下したのを体感し、何故だか心臓が大きく跳ねた。
 今日の華鬼は、いつもと違う。態度もそうなのだが、まとう空気がいつもよりずっと穏やかであたたかく――そして、戸惑いを覚えるほど心地いい。
 なんとなく気恥ずかしさのようなものを覚えながら、神無は平静を装って彼に向き直った。
 顔の傷痕は見れば見るほど痛々しい。ちらりと彼の表情をうかがうと、彼は憮然として口を開いた。
「餞別だ」
 短くそう返し、口をつぐむ。どうやらそれ以上は答えたくないらしい。ひとまず怪我を消毒して絆創膏を貼り、続いて治療をしたい彼の体をじっと見つめていると、あきらめたような溜め息とともに服を脱いでくれた。
 現れた身体は多くの傷痕を残してはいるものの、幸い真新しいものはごく少数だった。それがどれほどの意味を持つかなど関知しない神無は、ただ彼の無事に胸を撫で下ろして緊張していた表情を緩める。
 一つ一つ丁寧に治療していると、遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。
「やっと来たか」
 背に触れていた手に振動が直接伝わってきた。
 外の様子を確認しようと視線を窓に目を向けると、そこには相変わらず灰色の世界が広がっていた。その暗く沈んだ闇の中に鳴り響くサイレンの音は、気味が悪いことにいくつも重なって聞こえてくる。
「……華鬼、外に」
 闇の中に赤い光をともした車が何台も走っているのが見え、神無は恐る恐る彼に声をかけた。
「一人一本ずつ折っておいた」
 主語を省いて華鬼が独り言のようにつぶやく。一人、一本、と繰り返し、神無は広い背中から視線をはずしてオモチャのようにちいさな救急車を眺めた。
 一瞬であの学園で起こったことを思い出し、ぞっと背筋が冷えた。嫌悪感が込み上げてきて、全身の皮膚という皮膚を剥ぎ取りたいような衝動にかられる。
「神無」
 窓の外を凝視したまま微動だにしない神無に華鬼は静かに声をかけた。
「あの男は、三本。――肋骨を入れたらそれ以上。もう二度と学園に来ない」
 凛とした声に神無の視線は彷徨いながらも華鬼を捉えた。振り返った彼はまっすぐに神無を見つめ、そして視線を窓へと投げる。
「来たら今度こそ、完全に叩きのめす」
 恐怖で凝り固まった心の奥にちいさな火が灯る。
 闇を貫くような鋭い眼差しは学園へと向けられている。彼は敵対する鬼たちがあふれるあの中を助けに来てくれたのだ。そして、悪夢でしかなかったあの現実を終わらせてくれた。
 黄金の閃光の正体を知って神無は吐息をついた。
「ありがとう」
 最後の傷の治療を終えても、救急車のサイレンはいっこうに鳴り止まない。それどころか、一般車両まで学園にやってきて何かを運んでいるらしい。
「……目につく奴は全員折ったからな」
 華鬼が真剣な顔で洒落にならないことを言うと、神無は慌てて彼に向き直った。
「あの、土佐塚さんは……?」
「土佐塚?」
「私の、友達」
「……ああ、無事だ。手は出してない」
 さすがに分別はあったらしい。よかったとつぶやくと華鬼が奇妙な表情をする。慌ててなんでもないと首をふり、それでも彼女のことが気がかりで窓の外を注視する。
 きっといろいろ、言葉が足りなかったのだ。神無自身も饒舌な方ではなく、桃子が気づかって話しかけてくれたにもかかわらず自分のことをほとんど伝えていないかった。
 恨む気持ちよりも強く、友達だと思っていた相手を信じきれずに口を閉ざしていたことが悔やまれた。
 次に会ったら一番に謝罪しよう。素直にそう思って、次々と到着し、次々と走り去っていく車を見送る。
 同じようにしばらく外を眺めていた華鬼は、思い立ったようにパジャマを手に立ち上がった。その姿を見て、神無はとっさに彼のパジャマを掴む。
「……なんだ?」
「どこに行くの?」
 救急箱をしまうならそれを手にして出て行くはずだが、いまの彼はパジャマの上だけを持って寝室を出ようとしている。予想とは違う行動に驚く彼女に、それ以上に驚いた顔で華鬼は振り返って彼女を見た。
 神無がじっと見つめていると、観念するように重々しく溜め息をつく。
「居間」
 予想外の答えに神無が首を傾げた。
「居間? どうして?」
 問いかけに華鬼の表情が固まる。別におかしな質問ではないはずなのに、華鬼は神無が掴んでいたパジャマを手放して歩き始めた。いつもの彼女なら確実にそれを見送っていただろうが、いつになく迅速に動き、彼女はベッドから身を乗り出して今度は彼のズボンを掴んだ。
 ピタリと彼の動きが止まる。
「どうして居間に行くの?」
 しかも、手ぶらだ。救急箱をしまいに行くならまだしも、すでに時計は木籐家では深夜とも言うべき十時を示している。普段の彼ならとっくに就寝準備に入っている時刻だ。
「……」
 小首を傾げる神無に、華鬼はどうにも奇妙な表情をする。
「わかった。ミルクを入れてくる」
 ひどく要領を得ない答えを出して、華鬼は神無の手を外して寝室を出た。たまに訳のわからない行動を取るが、今日は格別に何かおかしい。あの争いの際にどこかぶつけたのではないかと心配しながらドアを見ていると、しばらくしてからマグカップを一つだけ持って華鬼が帰ってきた。
 甘い香りにはじめて空腹に気付き、神無は手渡されたカップに口をつける。ほんのりとひかえめな甘さが口腔に広がり、それを味わいながら笑顔を浮かべると、再び華鬼がくるりと背を向けた。
 ほぼ条件反射である。
 またしても神無は華鬼のズボンを掴み、寝室から退散しようとする彼を引き止める。
「どこに行くの?」
 同じ質問を繰り返すと、明らかに華鬼の肩が落ちた。
「居間」
 言ってから、華鬼は振り返った。
「あそこに、ソファーベッドがある。オレはそこで寝る」
 いつもは寝室でいっしょに寝ているにもかかわらず、毛布すらないのに、なぜ今日に限ってそんなことを言い出すのか――神無には、華鬼の行動がどうにも腑に落ちなかった。
 神無はサイドテーブルにマグカップを置くとしっかりと両手で華鬼のズボンを掴んで彼を見上げた。
 彼は珍しく、困惑を通り越して困り果てた顔になっている。
「放せ」
「でも、華鬼が」
「……さっきあんな目にあっただろ。いいから放せ」
「あんな目?」
「学校で」
 その先は言いたくないらしく、彼は押し黙ったまま神無を見つめた。学校での一件に華鬼が気を遣っているなら、それは余計な心配だった。華鬼に恨みを抱くことも、彼を嫌うことも考えられない。
「華鬼なら平気」
 素直な一言を告げる。そばにいる事も触れられる事も、ほんの小さな心の動きですべて不快なものから至福のものへと変わる。それに、過去を何度思い出しても、神無は彼に恐怖を覚えこそすれ嫌悪したことはなかった。
 はじめから、一度として嫌ったことなどないのだ。
 そう思って押し黙ったままの彼を見つめる。動きをとめた彼は、わずかに天井を見上げてから細く息を吐き出して腰をかがめ、不思議そうな顔をしている神無に軽く口づけた。
 予測不能な彼の行動に驚き、神無はしっかり握っていた手を外し、声にならない悲鳴をあげながら彼が触れた唇を押さえていた。
 解放された華鬼はサイドテーブルの引き出しを開け、鍵束を取り出すと寝室を出てまっすぐ玄関へ向かう。パニックを起こした神無の耳に聞きなれない金属音が届き、次にドアを開ける音、さらに閉める音が続いた。
 戻ってきた華鬼は鍵束をマグカップの隣に置いて、窓まで歩き、いきなり開け放つなり握り締めていたものを躊躇いなく闇の中へ落とす。
 落ちていくものを確認した神無の口からちいさな声が漏れた。絡まりながら落ちていくのは、以前、三翼ともえぎ、さらに桃子から手渡された鍵だった。一瞬しか見ることはできなかったが、それぞれについているキーホルダーは個性的で見間違うようなものではなかった。
 いつでも来ていいと言われて受け取った大切な鍵だ。慌てて拾いにいこうと立ち上がった神無は、華鬼に手を取られてバランスを崩し、もう一度ベッドに座り込んでいた。
「行くな」
 低い声は命令のようでいて、懇願のようでもあった。
 変化した空気に気付き、神無はまっすぐに華鬼の視線を受け止めて息をのんだ。戸惑うように揺れる瞳の奥に、柔らかな光が見える。
「華鬼」
 それは、多分ずっと欲しかったもの。焦がれて望んで、何度も欲しいと願い続けただろう感情の欠片。
 通り過ぎていった過去を思い出しながら神無は口を開いた。
「私、華鬼だけの花嫁になってもいい?」
 はじめから、鬼頭≠フ花嫁になりたかったわけではない。迷いながら悩みながらも結局は、たった一人の鬼のための、たった一人の花嫁になりたかった。
「――ああ」
 柔らかく広がる笑みとともに、望む答えが降ってくる。
 のばされた腕がゆっくりと神無を抱きしめると、彼女は安心したように双眸を閉じた。

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