鬼ヶ里祭の準備は表面上、順調に進んでいた。はじめの頃はかなり頼りない音が聞こえてきていた衣装製作部屋からはミシンの音がリズミカルに響くようになり、大小さまざまなカマクラはまるで競うかのように数を増し、駆けずり回るカメラ小僧こと撮影斑もすでに見慣れた学園の風景となっている。そして、祭りのメインとなる雪像は青シートで内部が見えないように完全武装中だ。
「変な光景だな……」
 冬の日没は早い。作業時間を補うため、青シートの内部と、通路に相当する外部にはそれぞれ発光ダイオードのライトが設置され、申請すればライトの数を増やしたり作業時間も延長可能だ。
 着々と奇妙な形になっていく雪像はシートの色を反射してうすぼんやり青く染まっていた。
 桃子の隣で彼女にならって雪像を見上げていると、
「これで間に合うのか?」
 続けて野太い声が神無の不安をそのまま言葉にした。気付けば鬼ヶ里祭当日まで一週間程度なのだ。他のクラスの進行状況がさっぱりわからないだけに不安も大きくなる。神無は腕を組んで雪像を見上げる大田原に視線を投げた。
 確かに現状、かなり怪しげだ。だいたいの形はできあがってはいるものの、公開するには不格好すぎる。はじめの骨組みで失敗したのではないかと疑問を抱くほどの有り様だ。三色なら着色も楽だと予想していたが、実際には見事なまだら人形へと変化している。
「着想は評価してくれるんじゃない?」
 明るい声が背後からかけられ振り返ると、そこには造花をかかえた水羽の姿があった。視線に彼は苦笑して、
「変なところはこれで誤魔化すんだって」
 そう肩をすくめる。
「でもさ、垂直に刺したら、よっぽど大量に花を用意しないと逆効果だと思うんだよね」
 一抱えの花では悪目立ちになりかねないと暗に語り、頭上からの呼び声に溜め息をつく。
「今日参加者が少ないらしくて人使い荒いんだ。神無、土佐塚さんも、転ばないように気をつけてね」
 大田原に軽く頭をさげて水羽はパイプの奥へと消えていった。
「よく働くな」
 半ば感心しながら大田原が笑っている。監視塔ができて以来、大きなトラブルがないため、学校行事にも参加しやすくなっている。神無もあれ以降、単独行動は極力ひかえていたので、多くの視線を感じるものの、そうした努力のかいあってひとまず平穏といえる日々をおくっていた。
 それは自宅に帰っても同様で、傍目からは老成した夫婦のように映っているようだった。華鬼の考えがなんとなくわかるような気がしてからは、あの静寂が心地よく思えることが多くなった。むろん、必要最小限どころかめったに口を開かないので、彼の真意はいまだに謎のままではあったが――少なくとも、嫌がっていないことだけは確信できる。
 そうして切迫しながらもどこかのんびりした空気に直面していると、自分の立場というものを忘れそうになる。
「桃子」
 突然の声に神無が身をこわばらせて視線を移動させると、雪像の影から現れた響が笑顔で近づいてくるところだった。
「捜してたんだ。ちょっとこっち手伝って」
 付き合っているというだけあって親しげな口調だった。神無が警戒する姿に気付かないように彼は桃子の腕を取って強引に歩き出した。それとなくさぐりを入れてみたが、響が桃子に乱暴をすることはないようで、二人の関係はそれなりに円滑にいっているらしかった。
 それでもやはり気がかりになる。どうしようかと悩んでいると、引きずられながら桃子が振り返った。
「すぐ帰ってくるからそこで待ってて」
「う、うん。気をつけて」
 踏み出しかけた足をとめ、神無は頷く。まだそこかしこから作業の音が聞こえてくるのだから、こんな所で何かしでかすはずはないと自分に言い聞かせる。それでも、どうしても心配になって気付けば彼女の消えた方角を見つめていた。
「……あんまり仲がよさそうには見えないんだけどな」
 ボソリと聞こえてきた声に驚いて大田原を見ると溜め息交じりの苦笑を返された。
「あの二人、な。……堀川のことはよく知らんが、恋愛で浮かれる男じゃない。土佐塚もあいつといると、機嫌が悪いときが多い」
「……機嫌、悪いですか……?」
「ん? ああ。オレにはそう見えるんだがなぁ。なんかピリピリしてるんだ。まああの容姿の男が恋人なら仕方ないかと思ったんだが……なにか、違う気がする」
 考えるようにそう語り彼は時計に視線を落とした。白い息を吐き出しながらマフラーを押さえ、もう七時かとつぶやく。
「そろそろ作業も終わりか。……しかし、今日は本当に人が少ないな。女子は誰も」
 言葉をさえぎるように軽い音を立てて何かが舞い落ちてきた。雪の上に一輪、薔薇の花が横たわる。それが造花だと気付いて顔をあげると、天空からとりどりの花が降ってきた。
「なんだ?」
 大田原が発した声に金属のぶつかる音が混じる。雪像をつつむ機材が低く不快な音を立ててわずかに揺れた――次の瞬間。
「神無、逃げて!」
 鋭い音とともに水羽の声がはるか頭上から聞こえ、皓皓と作業場を照らしていたライトがいっせいに消えた。状況を理解するよりも早く、全身が緊迫した空気を感じ取って警笛を発する。間近にいた大田原が動き、青シートを払いのけて低くうめいた。
「なんだよ、いったい」
 いつもなら雪像作りに追われる校庭や、ダンスパーティー用の衣装作りに奮起する教室に点々と灯りがともって人影もまばらに確認できる時刻だ。急な暗闇に慣れない神無がきつく双眸を閉じると、遠くでざわめきが聞こえた。
 闇の中、雪の白さだけが灯りとなって足元に広がった。
 逃げなければ。
 ここから離れ、安全な場所に行かなければ。
「おい誰だ、灯り全部消した馬鹿は!」
「匂いでわかるだろ。もたもたしてないで探せよ。雪像の近くにいるはずだ」
「一般生徒は?」
「とっくに帰してるよ。ここはオレたちの狩り場だ」
 楽しげな声はわざとらしいほど大きかった。とっさに辺りを見渡して教室までの距離をはかり、次に職員宿舎までの距離を目算する。校舎に逃げ込んだほうが身を隠す場所は多いが、そこで一晩、何事もなく明かせるとは思えなかった。本当ににおいを辿られれば確実に見付かる。職員宿舎に逃げるのが一番確実だ。今の時間、あそこなら麗二や光晴、もえぎ――それに、華鬼が、いるはずだから。
 だがあまりに遠い。いくら除雪してならされているとはいえ慣れない雪道を逃げ切れるとは思えない。
「なんかヤバい空気だな」
 低く聞こえてきた声に神無ははっと隣を見た。そこには、眉をひそめて状況をさぐる大田原の姿がある。彼はとっさに身を引いた神無を見て少し驚いた表情になってから苦笑した。
「大事な後輩に馬鹿なまねはしねぇよ。なんかおかしな話がまわってたが……これのことか」
「部長……」
「面白いことがあるから一口のらないかってな。まったく、オレは賭け事の趣味はねえって断ったんだがこっちのことかよ」
 ちらりと上を見て軋む機材の隙間から人影を確認するなり、大田原は神無の腕を掴んで青シートの外に出た。
「三翼の一人は潰されたな。あとは」
 職員宿舎までは遠く、雪の壁が完全に道を隔離している形となる。遠くにあるいくつもの明かりが妙によそよそしく見えた。
「携帯教室だ。何とかして校舎まで戻るぞ」
「は、はいっ」
 雪の上に転がったパイプを掴み、大田原は鋭くあたりを見渡して歩き出す。
「大丈夫ですか?」
「あ? 腕っ節なら問題ない。これは保険。持ってたほうが脅しになる」
「いえ……私が、そばにいても」
「ああ、それなら」
 振り返ってふっと笑った。
「オレはどっちかってーと人間に近いからな。多少は影響あるが、あいつらほどじゃない。最近体がなまってたし、女を追い掛け回すよりアホどもを殴ってたほうが性に合う。この雪じゃまともに運動もできなかったからちょうどいいウサ晴らしだ」
 神無の腕から手を離し、大田原は防寒用のコートを脱いで軽くパイプを振り回した。どうやら彼にとっては軽すぎるらしく不服そうではあったが、すぐに気を取り直して握りなおし、雪像用の青シートに身をひそめるように神無に指示を出す。
 胸が早鐘をつくように脈打っている。服の上からでもはっきりとわかってしまいそうなその動揺を必死でおさえ、神無は息を殺して耳をそばだてた。
 たくさんの足音が交錯している。一人でどうにかなるような人数ではないかもしれない。大田原の言葉が真実なら、その裏には響がいるのではないか――ふっと桃子の安否が気にかかり、神無は自分たちのクラスが担当していた青シートの場所へ視線を走らせた。これを計画し事前に桃子だけを隔離したのなら、彼女が無事である確率は高かった。どうでもいい女ならわざわざ呼び寄せたりはしないだろう。いっしょに襲わせることくらい平然とやってのけそうだ。そう考えると、安堵と同じくらい不安になる。
 大田原がここにいるのは響にとって計算外だ。
「部長」
 思わず前を行く大田原のシャツを引っぱると、驚いたように彼が振り返った。
「逃げてください。目的は私だけです。私は、大丈夫ですから」
 小さく震える声を振り絞ると大田原は苦笑した。
「女を残して逃げたら男がすたるだろうが。これでもオレは鬼の一族の端くれなんでね。いまは馬鹿が多いが、――元来、花嫁は等しく宝だ」
 逃げる気など毛頭ないとでも言いたげにおおらかにそう答える大田原に深謝して頭をさげる。直後に、どこからか鈍い音と呻き声が聞こえ、神無は慌てて顔をあげた。
「まず一匹」
 パイプを真後ろに振りあげ大田原はにやりと笑う。白目をむいた男がゆっくりと倒れていくのが見えた。
「ああ、曲がっちまった。……力加減、間違えたな」
 ほぼ直角に曲がったパイプを投げ捨て、青シートをめくって単身で中に入り、すぐに顔を出して神無を呼び寄せる。シート内部、足元でのびている男を見てぎょっとすると、大田原は無言で頷いてきた。
 雪の上に落ちていたナイフに視線をやって小さく舌打ちした彼は言葉通り喧嘩慣れているのかもしれない。彼は周りの気配を探るように息をつめ、神無に顔を近づけた。
「校舎より監視塔のほうが近い。あそこには、緊急用に通信機とサイレンのスイッチがあるって話だから、いったんそっちに行くぞ。こうなりゃ恥も外聞もねぇ」
 青シートに手をかけて先に出て、安全であることを確認して神無に声をかける。場所を確かめながら進んでいくと、複数の足音が聞こえてきた。
「なんだよ、護衛がいるなんて聞いてねーぞ」
 正面の人影に気をとられていた二人は不意に真横から響いてきた声に目をむいた。なにかが鈍く光を集めていると判断した刹那、腕に鋭い痛みを覚えてとっさに後退する。神無が身をひいたのと大田原が前進したのはほぼ同時だった。
 彼が身を低くして上体を戻すと、その拳は空中へと振り切られた。
 声をかける間もなく刃物を持った男はそのまま雪に沈む。問答無用のアッパーに唖然としていると、大田原はすぐに近づいてくる男たちに向き直った。
「離れてろ、朝霧」
 声がいつもよりはるかに低い。なにかをこらえるようなその声音に首を傾げると、
「オレは、血が苦手なんだ」
 短く告げて駆け出した。一瞬だけ見えた彼の瞳は見事な黄金色に染まっている。神無はとっさに腕の傷を押さえてさらに後退り、大田原が飛び込んだことによって乱闘の場と化した校庭の一角を凝視した。血で理性を失う者もいるのだと聞いたことはある。あまり気にとめなかったその言葉は、現実となって目の前に存在した。
 複数の人影が入り乱れ、さらにどこからともなく現れた男たちが乱闘の輪に混ざっていくお蔭で、誰が大田原なのか区別もつかない。獣のような咆哮を耳にしながら神無は監視塔を見上げた。
 監視塔に登れば、外部にこの状況を知らせることができる。しかし、乱闘の場と化した空間は監視塔の目の前で、回り道をしても気付かれる場所にある。こうなれば大回りして校舎に行き、そこから電話をかける他ない。
 安全な道を探そうと向きを変えると、そこには見知らぬ男が薄ら笑いを浮かべて立っていた。
「レディを放置して自分だけ楽しむなんて最低の奴らだな」
 鈍い音が響く乱闘の場を顎でしゃくり、男が足を踏み出す。
 弾かれたように駆け出した神無を見て男は笑みを深くした。
「じゃあ鬼ごっこな。見つけたら――」
「見つけたヤツのものって事で」
「さあ、狩りの再開だ」
 複数の声が背後から迫ってくる。灰色の雪を蹴散らし、神無は何度も足をとられながら校舎とは真逆の方向にひたすら走る。引き返さなければ助けを呼べないとわかっているのに、逃げ道は確実に狭く絞られて迫ってくる足音の数だけが多くなる。
 まるで冷気が喉の奥を引き裂いているようだった。空気を吸うこともままならず、胸をかきむしりたくなるほど苦しくなる。
 青シートを抜けてカマクラが並ぶ場所に出る。カマクラを抜ければ森となり、そうなれば助けを求める手段などなくなってしまう。
 だが、背後から迫る気配に足をとめることができない。
 カマクラに身を隠しながら神無は森を目指して突き進む。その途中、腕を掴まれ強引に引かれ体が傾いた。漏れた悲鳴は瞬時に大きな手に塞がれ、灰色の闇が真の闇へと転じる。必死で暴れたが難なく封じられ、半狂乱してくぐもった声をあげ、そして、耳元で聞こえたちいさな声にピタリと動きをとめた。
「……あ……っ」
 目の前に、見知った男の顔がある。彼は狼狽した表情をとっさに隠し、優しく目じりを下げた。
「意外に力あるから焦った。さすがに外にいる鬼全員とやりあうのは遠慮したいから、神無ちゃんちょっとだけ静かにしててな?」
「ど……て、ここ……」
 そこでようやく自分がカマクラの中に引きずり込まれたのを知った神無は茫然と光晴の顔を見上げた。彼はコートを大きく広げで神無を包み、カマクラのドアを雪でめばりして携帯電話を取り出す。
「雪像づくりの雪が足りんかったから取りに行った帰り。急に学校中が消灯したから、なんやおかしいと思って途中で車のエンジン切って徒歩で来たんや。怪我、しとるんか?」
「す、少しだけです。痛くはありません」
 言った瞬間、安堵とともに涙腺が緩んだ。
「部活の先輩が、いっしょにいて……っ」
「……わかった。よう頑張ったな」
 光晴は携帯に指を滑らせ、送信ボタンを押してからマナーモードに切り替える。
「麗ちゃんにメールしたからすぐ飛んでくる。ついでに先生数人連れて来いって入れた。しばらくの辛抱や。先輩も大事無いから心配するな」
 励ますためなのだろう、そうささやいて光晴は震える神無の体を抱きしめる。麻痺していた恐怖が胸の奥ではじけ、気付けば嗚咽をもらしていた。
「そんな泣き顔見せられたらオレの方が切なくなる」
 耳元でささやいて彼は苦笑した。
「必ず守る。約束な?」
 指きりをするように小指をからめ、その指に力がこもった。胸に響く声を聞きながら神無は濡れた瞳を伏せて素直に頷いていた。

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