水音が籠もるように響いている。
 何度も繰り返されるその独特の音色は、柔らかく広がっては新たな音に重なり、心地よく世界を満たしていく。
 永遠に続くと錯覚してしまいそうなその不思議な世界に、無粋な音が生まれた。
 混濁した意識で神無はそれが何かを考える。
 次いで、擦るような音が聞こえた。
 冷気を孕む風に頬を撫でられ神無はようやく目を開ける。
 大きく開かれた障子から月が顔を覗かせていた。
 月の光りでそこが華鬼の部屋であり、自分が布団に寝かされていることを確認すると、神無はようやく体を起こした。
 どうしてここにいるのかわからず、彼女はわずかに小首を傾げた。
 渡瀬の案内で浴室に行き、そこで水羽の庇護翼である双子に会い、そのあと光晴の庇護翼が来て、そして――
 気を失った。
 順に考え、納得する。フワフワした感じはまだ続いているが、気を失う前ほどひどくはない。
 神無は布団から出て、自分が着ているのが制服ではなく旅館などで出される浴衣であることに気付いた。
 着替えた覚えがないので再び首を傾げる。けれどいくら考えても答えが出るはずもなく、彼女は月に支配された凛と張り詰める闇に向かって歩き出した。
 障子の向こうには、日本庭園をゆったり歩く男の姿があった。全身黒ずくめの後ろ姿は、華鬼の父親である忠尚の庇護翼と同じ服装。
 ただ、その後ろ姿には見覚えがあった。
 背の高い均整のとれたその体が不意に反転する。
「ああ、起きたんか?」
 向けられる笑顔はどこか安堵の色を滲ませていた。
 優しげな瞳は丸メガネを通してまっすぐに神無を見詰めている。
「少し歩かん?」
 動き同様、ゆったりと光晴が手を差し伸べてくる。鬼は総じて端整な顔立ちの者が多い。まるで浮世離れしたその光景に、夢と現実の境目さえわからなくなりそうだった。
 誘われるまま神無は赤い鼻緒の下駄を履いた。
「ちょっとな、必要なものができたんで電話こっそり借りにきたんや。携帯つながり悪いんや」
 月明かりを浴びて鬼が微苦笑した。
「水羽は顔がわれとるし、麗ちゃんはなぁ、さり気に見境ないから。大広間に人が集まっとる時にな、こっそり忍び込んで」
 差し出していた手を戻し、彼は人差し指を口に当ててそう続けた。
 ほとんどの者が大広間に集まっていると、屋敷はさらに一層広く思える。眠っていたのはわずかな時間のようで、遠くからいまだに宴の声が小さく聞こえてきた。
「……でな」
 光晴は再び口を開いた。
「ここ、どうもあんま安全やないらしい」
 真剣にそう告げる光晴の言葉に、神無はふと振り返る。
 月の光りに浮かび上がる建物はまるで時間が逆行したかのような古風なものだった。そこは華鬼の生まれた場所であるにもかかわらず、奥深い山中にただ一軒しか建っていないためか、どこかのんびりとした独特の空気が漂っていた。そして、彼に反感を抱く光晴が容易に侵入することができるのであれば、確かに安全とは言いがたいのだろう。
「……別の問題……」
 気を失う前に聞いた言葉を思い出して、神無は小さく言葉にする。
「ああ。ちょっと厄介なのが付いてきて。まぁこっちで何とかするから心配ないんやけど、あんまり一人にはならんといてな?」
 詳細を伝えようとはせずにそう告げる彼を、神無はまっすぐに見詰める。
 見詰める先の瞳は緊迫した雰囲気を帯びている。それだけで、相手が危険な人物であると察しがついた。
 神無は小さく頷いてみせる。
 そして、不意に駆け抜けた風に身をすくませた。
「夜は冷えるな」
 優しい声が笑いを含んでそう言うと、前触れなく男の体が近付いてきた。その腕は大きく弧を描き、同時に神無の背中が温かいものに包まれる。
「大切な花嫁、風邪ひかせるわけにはいかん」
 驚く神無の顔を覗きこむようにして、光晴が笑っている。
 体をすっぽり包むほど大きなジャケットを着せられ、神無は緊張して彼を凝視する。
「……服は……」
 そこまで言うと、パッと光晴が離れた。
「いや! なんも見てへん! 制服やとシワになるから脱がせただけで、全然まったく見てへんから! 脱がせるなら堂々!」
「……」
「……」
 唖然と見上げられ、光晴は口をつぐんでその場にしゃがんだ。
「そら男やし。ちっとばかしええかな〜とか思ったりしたけどな? いやほんま、デキゴコロ」
 丹精込めて手入れされているだろう芝生を無遠慮に引きむしりながら、光晴が何かをブツブツ続けている。
 それは、神無を浴衣に着替えさせるまでの経緯を彼の心情とともに綴った言葉で、以前なら不快と感じたかもしれない類のものだった。だが今は、光晴が拗ねたようなそぶりで口にしているためか不思議とそんな印象はなく、逆に体温が急上昇していく。
「そ、そうじゃ……ないです……」
 彼の言葉をとめさせようと、神無はようやくそれだけを告げた。
「違う?」
 芝生をむしる手をとめて、光晴が一瞬考える。
「ああ、この服?」
 ポンっと手を打って、彼は照れたように笑って立ち上がった。
「父親の庇護翼多いから、多少は誤魔化せるかと思ってな。似合う?」
 そう聞いた彼はふっと言葉を飲み込んで、小さく息を吐いた。
 そのまま何も言わずに黙り込む光晴に、神無は真っ赤に火照ったままの顔を向ける。
 とくん。
 大きく一つ、心臓がはねる。
 まっすぐに見詰めてくる瞳があまりにも真剣で、思考の総てが吸い込まれていきそうだった。
「幸せになりたない? ――神無」
 真っ赤になっているに違いないその頬に、芝生をむしっていたのとは逆の手をそっと伸ばして光晴が問いかける。
 冷やりとしたその感触が心地よくて、ふと瞳を閉じた瞬間、何かに巻き込まれたように体が大きく揺れた。
「ここで」
 じかに耳に囁きかける声は限りなく甘くて、混乱した思考を埋め尽くしていく。そこが男の腕の中である事も、その彼が何を求めているのかも理解できないまま神無はただ大きく目を見開いた。
 幸せに、なれるのだろうか。
 求め、あきらめ続けていたその未来は、果たして自分に存在するのか。
「プロポーズの答え、くれへん?」
 揺れ続ける心を包むような優しい声に、神無はゆっくり双眸を閉じる。この腕に身をゆだねればどんなに楽になれるだろう。
 総てをゆだね、任せることができたなら、きっと誰よりも大切にしてくれる。
 愛してくれるに違いない。
「――さい……」
 けれど、不意に脳裏に浮かんだのは別の男だった。
 非情で残酷で、優しさの欠片もない、殺意しか向けてこない鬼。
 他者の存在の一切を認めない彼は、彼女の存在すら許そうとはしなかった。
 殺されかけた恐怖は細胞が記憶している。
 あの純然たる殺意を向けられれば、きっと今でも身がすくんで悲鳴をあげる事さえできないだろう。
 だが、その瞳の奥には別の感情が眠っていることに気付いてしまった。
 魂を揺さぶるような、慟哭の色が。
「ごめんなさい」
 幸せになりたい。
 そう願う心と同じくらいに彼を知りたいと思った。
「ごめんなさい」
 優しい腕に包まれたまま、神無はただ、同じ言葉を繰り返し続けた。

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