なにかが頬をすべり落ちていくのがわかる。
 外気で冷えた皮膚に、それは異様に熱く感じた。再び熱が頬にあたってゆっくりと移動する。
 かすかに漂っていた血臭がきつくなると上方から低い声が聞こえてきた。
「あんた、調子に乗りすぎなんじゃない?」
 軽蔑する口調は限りなく冷徹で、神無はじかに伝わってくる言葉が自分に向けられたもののような気がして身を強ばらせた。しかし、再度頬を暖かいものが叩き、はっとして目を見開く。
 頬に触れていたのは布ごしの柔らかな感触と息を真っ白に染めるほど凍えた空気、そして、あたたかい体液。
 神無は視線をあげた。
「アタマ悪すぎ」
 ぱたりと真っ赤な雫が生まれ、喉元に落ちてゆっくり滑っていく――その感触の不快ささえ忘れ、神無は桃子の頬に赤く走った傷を見つめた。
「なによ、どうして……っ」
 背後から聞こえる苛立った四季子の声に、神無はあわてて桃子から離れて上体を起こした。
 小さな光の軌道が脳裏に残る。四季子は開いていた手を握りしめて光を隠し、憤りをありありと伝える瞳で桃子を、そして神無を睨み付けた。
 辺りがざわめく。
 きつく結ばれた四季子の手から血がしたたると、神無の背に言いえぬ悪寒がかけぬけた。鮮やかな赤が雪に触れ小さな穴ができ、赤い空洞はまわりを染めながら大きくなってゆく。
「どうした!?」
 騒ぎを聞きつけ怒鳴るように呼びかけた大田原は、駆けよる途中で足をとめ、顔色を変えて騒ぎの中心を見て口ごもった。
「わ、悪い、血は苦手なんだ。先生呼んでくるから……」
「いりません」
「土佐塚?」
「ちょっと爪があたっただけです。ね? 江島さん」
 雪を染める血がすべてを物語っているのに、敵意をむき出しにする四季子に彼女は笑顔を向ける。
 違和感に神無は口を挟むことさえできなかった。
「あ、ごめん神無。汚しちゃった」
 状況を把握した生徒たちが騒めきだしても桃子はそれを無視してポケットからハンカチを取り出して神無についた血をぬぐった。
 青ざめた四季子の肩は大きく震え、握りしめられた手からは血がしたたり続ける。
「桃子?」
 響の声が聞こえ、続けて正反対の場所から駆けよる水羽の姿が神無の視界に入った。彼は響の存在に警戒をあらわにし、すぐになにか問題が起こったことを察知して表情をかえた。
「勘違いしないでね」
 いったん言葉を切って、桃子は続けてささやく。
「かばったわけじゃないから」
 言葉はまっすぐ四季子にむけられ、青ざめた少女の顔は瞬く間に怒りで変容した。
「大丈夫?」
 血のあとが残る神無の顔を水羽が心配して覗き込んできたが、彼女の視線は二人の少女からはずれない。
 緊迫した空気がしばらくつづき、さきに折れたのは四季子だった。
 間近でかける言葉を失うユナの腕をつかみ、人垣をかきわけ雪に血痕を点々と残しながら去っていく。神無が息をのんで見守っている中、それには目もくれずに響は桃子の顔を覗き込んでいた。
「結構深いな。保健室に……」
「神無!」
 心配する響をおしのけて桃子が神無の腕をとると、隣にいた水羽が思わずといった様子でそれを制す。
 あきらかに響を警戒した彼の動きに、桃子が少しだけ不機嫌になった。
「保健室、付き合ってほしいんだけど?」
「え?」
「顔。怪我してるの見えない?」
「ああ……じゃあボクも」
「付き添いは一人で充分。早咲は先生に連絡しといてよ。手当てが終わったらすぐ帰ってくるから」
「……でも」
 戸惑う彼は視線だけを神無に向ける。いっしょに保健室に行くくらいは問題ないと思い、神無は慌てて不安げな彼に大丈夫と返した。それより早く血のとまらない痛々しい傷を治療して欲しくて彼女に近づいた。
「あとで話してね」
 敵対する男の予想外の接触のため、背にかけられた水羽の声はいつもよりずっと硬い。小さく頷くと、神無が同行するのを確認した桃子はきびすを返して歩き出した。
 神無はいつも伏せてしまう顔をなんとか正面にむけ、ゆるく笑む響のとなりを通り過ぎた。
「じゃ、桃子のこと頼んだよ」
 念を押すように彼の手が軽く神無の肩をたたく。過剰な拒絶は精神と同時に肉体にまで影響をおよぼすのか、身がすくんで悲鳴が喉の奥にからみついた。
「神無?」
 腕を掴まれ強く引かれ、神無ははっとして桃子を見た。
「行こう」
 雪ではなく別の理由でもつれる足を叱咤しながら、神無は強引な友人に頷いた。
 小さく吐息がもれた。緊張が解けていくのが自分でもわかり、彼女は複雑な表情になる。
 視線を集めながら昇降口に入り、靴を上履きにはきかえて廊下を渡る途中、神無はようやく解放された腕に視線を落として迷いながら口を開いた。
「求愛されたの?」
 と。
 かぼそい問いがよほど意外だったのか、桃子は足をとめて振り返った。
「まさか。そう簡単にするもんじゃないし、あたし、その気ないから」
「その気……?」
「付き合ってるけど、それだけ。難しく考えすぎだよ、神無は」
「……」
「向こうも求愛したいって言ってきたわけじゃないんだからさ」
 軽く言われた内容に心臓が跳ねた。同時に、なぜ、と疑問の言葉が胸中にわく。
 付き合っている人がいるのに、なぜ別の女に――好きでもない女に、求愛の印を刻んだのか。鬼が花嫁を大切にする一族なら、それを知って相手が傷つくことなど考えないはずはない。
 それなのになぜ、あの男は求愛の印を、ここに――。
 そこまで考えたとき、神無はわけもなく戦慄を覚えた。
「さっきからおかしいよ。どうかしたの?」
 怪訝な顔で桃子に声をかけられ、一瞬開きかけた口を神無はきつく引き結んで首をふった。伝えるべき言葉がうまく見つからない。残酷なことを言ってしまいそうで、どうしても口ごもってしまう。
「なんでも、ない」
「変なの。とにかくさ、ほら、保健室行こ」
「うん。……あの、土佐塚さん」
「なぁに?」
 手を引きながら歩く彼女の背を見つめ、神無はそっと瞳を伏せた。
「ううん。……ごめんなさい」
 わずかに桃子の肩が揺れた――ように見え、神無は立ちどまりかける。しかし、かまわず手を引かれてよろよろと従った。
 遠くから聞こえるざわめきに二つの足音だけが混じる。響が尾行していないか何度も背後を確認したが、長い廊下は閑散とし、人の気配はしなかった。
 そして、無事に保健室にたどり着くと、神無はほっと吐息をついた。
「すみませーん、急患でーす」
 おどけた口調とともに桃子がドアを開けると、
「どうしたんですか!?」
 麗二の裏返った声が聞こえた。
「ちょっと切っちゃって」
「ちょっとって……ああ、女性の顔に傷なんて! ……あ、神無さん?」
 桃子の頬の傷に動転した麗二は、神無を見て一瞬だけ表情を崩し、すぐに椅子にかけるよう桃子に指示した。慌ただしく消毒し、傷の具合を診て眉をひそめる。
「これは」
「爪があたっちゃって」
「――嘘おっしゃい。かなり深いですよ。なにか鋭利なもので」
「爪ですって。ちょっとふざけてただけ。ね? 神無」
 神無が同意を求める桃子に答えられずにうつむくと、彼女の溜め息が聞こえてきた。
「大した事ないです、先生――ったあ!」
 言うなり桃子は顔をしかめた。
「先生、痛い!」
「当たり前です、深いって言ってるでしょう。これで傷は残らないと思いますけど、絶対触っちゃ駄目ですよ? 水にも濡らさないように。消毒液と塗り薬用意しますから待っていってください。使い方は――」
 手早く治療をすました麗二は慣れた手つきで消毒液と綿球、ガーゼなどを用意する。山中の隔離された施設であるためか、驚くほどの心遣いだ。
 最後に、なにか異常があったら深夜でもかまいませんから呼び出してください、と言葉を付け加える。
 呆気に取られた桃子は、誰もが見惚れてしまう美貌を間近に直視しながらも平然と笑ってみせた。
「大丈夫ですって。こんな傷くらい」
「こんな傷くらい、じゃありません」
 溜め息とともにそう口にした麗二の顔に悲しみの影がよぎるのを認め、神無は小さな疑問を抱いた。しかし、その感情をむけられた当人はそれに気付く事無く立ち上がる。
「待ってください、報告書を書くので」
「報告書?」
「ええ、クラスと名前、事故現場と状況、傷の具合、処置方法なんかを」
「面倒臭いー先生、適当に書いといてよ」
「統計とって今後の安全対策にも生かされるんですよ」
 苦笑して麗二が言うと桃子は渋々椅子に座りなおした。そうして、神無が耳を疑うほど適当な言葉を並べて麗二に告げ、さっさと保健室をあとにする。
 違和感が胸のうちに広がる。なぜ嘘をついたのか桃子に問うと、逆に、じゃあどう答えればよかったんだと質問された。事を荒立てたくないと思っている神無からすれば、桃子のとった行動は正しいに違いない。
 けれど納得がいかない。
 グランドに戻り、さすがに心配するクラスメイトに囲まれた桃子の姿に釈然としないものを感じながらも、神無は終始無言だった。
 学校が終わり、部活に出て、そして帰宅の途についても、違和感が消えることはなかった。
 神無は台所に立って溜め息をついた。もともと友達付き合いが苦手な――むしろ、友人と呼べる相手がいなかった彼女は、つまるところ桃子をどう扱っていいのかがわからない。
 幸い桃子が良くも悪くもマイペースなためそれに巻き込まれ気味で気にならなかったが、ふとした弾みに自分のいる場所が間違っているのではないかと当惑してしまう。
 危険なことに、巻き込んでしまうかもしれない。
 そう思うだけで言葉にできないほどの恐怖をおぼえた。作り物めいた顔で残忍に笑む鬼の姿を思い出したとき、すでに桃子が巻き込まれているのではないかと気付く。誰かに相談したほうがいいかもしれない。だが、相談するには桃子のプライベートまで語らなければならなくなるかもしれない。
 それはどうしてもはばかられる。
 どうすれば友人を傷つけずにあの鬼から遠ざけることができるか――台所に立ち尽くしたまま、神無は必死で考察する。
 しかし、いい案はいっこうに思い浮かばず、焦りだけが増していく。しばらくそうして悩んでいた神無は、電話の着信音に飛び上がるほど驚き、慌てて台所から出て廊下を渡って受話器を取った。
 もしもし、とどもりながら口にすると、笑いを含んだ声が、
「どうした」
 と短く問いかけてきた。
「お――お義父さん」
 安堵して呼びかけた瞬間、緊張の糸がぷつりと途切れてなにかがこみあげてきた。
 受話器を持つ手に力が入ると目尻が熱くなって思わず顔を伏せる。噛みしめた唇からこらえきれなかった嗚咽が漏れ、神無は慌てて口元を押さえた。受話器から息を呑む音が聞こえ、忠尚は一瞬押し黙るように間をあけてから、こっちに来るか、と問いかけてきた。
「渡瀬からは歯切れの悪い言葉しかこない。上があの調子なら学園側も強硬手段に出かねん。……このまま学園にいれば針のむしろだが、生家でならお前を守れる」
 淡々と、だが、はっきりと忠尚がそう口にした。理由も訊かず守ると言ってくれる。それがどれほど心強い言葉なのか知った瞬間、気が緩んだ彼女の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
「大丈夫です」
 受話器をきつく握りしめ、震える声をおさえながらようやくそう告げる。ここから離れれば、一番身近にいた桃子に今以上の害がおよぶかもしれない。それすら計算ずくで響が動いているようで、そう考えると忠尚の好意に甘えることはできなかった。
 生家は、ここよりもきっと楽に呼吸ができる場所だろう。けれど――。
 ふと、ドアの開く音が聞こえて神無が顔をあげると、ぼやけた視界に驚いたように立ち尽くす華鬼の姿が映った。慌てて涙を拭った時には、彼は彼女の脇を通り過ぎて寝室へ消えた。
 ここを出れば今の生活すべてを捨てることになる。そうなれば、彼とも会うことができなくなってしまう。
「私は、大丈夫です。ありがとうございます」
 ひとつ大きく息を吸い込み、受話器を握りしめたまま深く頭をさげると、
「わかった」
 と、忠尚の声が短く返ってきた。そして言葉は続いた。
「辛くなったら電話しろ。――すぐに、お前を迎えに行く」
 あまり優しくされることに慣れていないから、真摯に告げられたその一言で再び涙があふれた。はい、とだけ返事をして電話を切った神無は、その場に座り込んで顔を覆った。
 簡単に助けを求めることなどできないだろうが、こうして案じてくれる人がいる。それだけで、まだ頑張れる気がする。勇気をもって歩いていける気がする。
 そう思った瞬間、頭部を何かが包み、まるで慰めるように軽く叩いた。意外な感触に不思議に思って顔をあげると、視界が白い布で覆われており、驚いてそれを引き降ろすとパイル生地のタオルがずり落ちて彼女の手に治まる。
 目を瞬いて前方を見るとキッチンに入っていく華鬼の後ろ姿が見えた。
 以前のような拒絶ではなく、けれど決して受け入れているというわけでもない――今、二人の関係はひどく微妙なものだった。
 しかし。
 神無はやっと涙が止まりかけたその顔をタオルに埋めた。ほんの些細な心遣いが、こんなにも嬉しい。触れた手が気遣ってくれているようで、ようやく張りなおした気が瞬時に崩れてしまう。後から後からあふれてくる涙はタオルがすべて吸い取っていったが、胸の奥にある灯だけは消えることなく小さく揺らめいて、混乱した彼女の心を柔らかくあたためた。
 まだ大丈夫だと、自分自身に言い聞かせる。
 ようやく前へむかって歩くことを知ったのだから、逃げるためだけに道を探していた過去は繰り返したくない。
 きゅっとタオルを握りしめて彼女は大きく息を吸い込む。
 そして、意を決したように顔をあげた。

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