鬼ヶ里祭の開催が決まってから、学園はにわかに活気付いた。まず授業形態が大きく見直され、配られるプリントの枚数が増えた。恐ろしいことに室長が言ったとおり、それは授業内容そのまま書き写したもので、科目によってかなり枚数の開きがあった。
 執行部主催のイベントは予算を踏み倒し、当然あるべきはずのものさえ無視して執り行われる。その執念の行事に生徒たちは喜ぶ以上に困惑していた。
「勉強のほうがマシだったりしてな。部活の先輩に聞いたら皆顔色変えてるんだぜ。どんなだよ……」
「理由は?」
「言わないんだ」
「……なんで」
「さあ」
 雪に埋もれたグランドの一角で、男子生徒たちが引きつった顔を突き合わせてそんな会話をしている。数日かけて決定された雪像のテーマは、なぜか未来から来た猫型ロボットだった。最下位を狙ってるのかという冷ややかな室長の問いに、生徒たちは次々と反論した。
 いわく、
「大衆のアイドル、知名度だけなら天下一品。普通の雪像じゃ面白くないから色付け考慮、冬なのでハワイアンでインパクトは完璧」
 だった。
 却下されるだろうと予想しながらも、しぶしぶ案を会議に出した室長の期待を裏切り、ソレは見事に認定され、彼はしばらくのあいだ軽くへこんでいた。
 イベント色を濃くするためマスコットの正確な正体を知るのは執行部メンバーに限定されているというのは後日談である。当日は大恥をかくぞと肩を落とす室長に反し、生徒たちは俄然やる気をだした。
「目立たない場所なのがせめてもの救いだな」
 防寒対策万全な室長は、グランドのフェンスを眺め一人で黄昏ている。
「外はカマクラ作るんだって。あと、一部の雪像も」
 室長といっしょになってフェンスを眺めていた神無に桃子はそう声をかけてきた。
「土地だけはいっぱいあるからいいよねぇ。ここら辺一帯、学校の所有地なんだってさ」
 呆れた口調で桃子が告げると一眼レフカメラとデジタルカメラを手にした一群が校舎から飛び出し、思い思いにシャッターを切りはじめた。
 どこか鬼気迫る姿にノルマでもあるのかと首を傾げると、巨大な白い平原と化したグランドに立ち、同じように彼らを見つめる大田原の姿を発見した。
「おお、お前らも雪像班か?」
 近付きなから嬉しそうに尋ねてくる放送部の部長に神無は頷く。
「部長もですか?」
「ああ、せっかくだからな。つっても、三年は自由参加だから実質一、二年に頑張ってもらうんだが」
「えぇーずるくないですかぁ?」
 間髪を容れずに不満の声をあげる桃子に大田原が太い眉を持ち上げた。
「三年は受験や就職活動で忙しいんだよ。まあ高校最後の祭りだから楽しむけどな」
「そっか」
 納得する桃子に大田原も頷く。そうして一言二言交わしたあと、彼は友人に呼ばれて去っていった。
 雪像といっても基盤は木で作り、そこへ雪を付けていくらしい。注文した工具と木材、竹、足場器材がレッカー車で運ばれてきたときには、鬼ヶ里祭初体験の生徒たちはさすがに驚きを隠せなかった。本来なら室内で作るべきものだが、高校もそこまでの設備はない。よって、グランドには謎の山と困惑した生徒の群れができる。
「大がかりだよねぇ」
 角材を苦笑しながら眺めて桃子が肩をすくめた。学園祭は金に糸目を付けずに催された印象があるのだが、鬼ヶ里祭も例外ではないらしい。氷が必要ならプールの水を凍らせるから好きなだけ使えと言ってきた執行部に、生徒たちは学校設備の有り様に少しだけ疑問を抱いた。
「何ぼぉっとつっ立ってるわけ?」
 所在なげに辺りを見渡す神無の耳に鋭い言葉が届く。美しい声は相変わらず刺々しく、神無は反射的に後退して何かにぶつかりよろめいた。視線が正面にいる四季子をとらえ、次に自分の腕を掴んでささえる大きな手をとらえた。
 悪寒を感じて神無が青ざめる。過去に何度も直面した気配は、今では拒絶できないほど身近に存在していた。
「何もめてるの?」
 上辺だけの優しげな声音が四季子に問う。驚いた彼女の視線は神無の背後に固定されていた。
「あ、あの……」
「響!」
 しどろもどろになる四季子を遮り、桃子が忌まわしいその名≠呼んだ。
 とっさに彼から離れてその顔を確認し、神無は混乱して桃子を見た。
「仲良くやろうよ。ね?」
 人のよさそうな笑顔を浮かべて響は四季子に言う。それから色をなくす神無に向きなおった。
「桃子、紹介してくれるんじゃないの?」
「……あー。そのつもりだったけど、なんか嫌だ」
「なんだよ、それ」
 親しげに会話する友人と鬼の関係をはかりかねて神無は混乱する。危険な男だ、すぐに離れてと告げる直前、彼の手が桃子の腕を掴んで引き寄せ二人の顔が重なった。
 神無は一瞬何が起こっているのか理解できなかった。しかし、それは彼女だけではなく、それを目撃した人間――さらに、キスされた本人さえ唖然として動きをとめた。
 次の瞬間、
「なにすんのよ!? このバカ――!」
 遠慮のない桃子の怒声が皆を正気付けた。
「だって紹介してくれないじゃないか」
「実力行使すればいいってもんじゃないでしょうが、このバカ!」
「もうちょっと優しい言い方があるだろ」
「これでも充分優しい!」
「……もう一回して欲しい?」
「いい加減にしてよ」
 ちぇっと舌打ちして響が肩をすくめ、思い出したように周りを見てから注目を浴びたのが気に入らないらしい桃子に耳打ちする。すると、彼女は一瞬表情を険しくしてから立ち尽くす神無を見て観念したように口を開いた。
「二年三組雪像班の堀川響。あたしの彼氏」
「彼……」
「はじめまして」
 茫然とした神無に響がにこやかに言葉をかける。響と初対面どころか命を狙われたことさえある神無は、この不可解な状況に二の句を告げずに友人の姿を見た。神無からすれば、学年や立場が違うこの二人にはまるで接点がなく、偶然と言い切るにはあまりに不自然だった。
 いや、むしろ――。
「あ、じっとして」
 不意に響の手が神無に向かう。同時に薄く笑む顔も近付け、彼は口を開いた。
「余計なことは言うなよ」
 と。
「桃子には鬼がいないんだ。今は大切に扱ってやってるんだから、利用されてるなんて知ったら傷つくだろ?」
 とっさに彼を見ると優しげな笑みのまま言葉を続けた。
「ゴミが」
 何も掴んでいない響の手を凝視して神無が息をのむ。桃子は鬼ヶ里高校に来て、神無が唯一親しく付き合っている女子生徒だ。たった一人の友人だった。
 全身から血の気が失せていく気がした。
「オレの言ってる意味、わかるよね?」
 温和な態度を崩さずに響が問いかけると、桃子は怪訝な顔をした。
「なに?」
「ぼんやりしてるから、言葉がわからないのかと思って」
「そんなわけないでしょ。ってゆーか、あんたが目立つから、みんな魂抜けちゃったみたいじゃん」
「ん? そう?」
 あまりにアンバランスな二人を見て周りにいた生徒たちは驚きを隠せずにいる。おそらくは響の容姿のためだろう――だが、鬼の血を継ぐ生徒たちの驚きは明らかにそれ以外を含んでいた。
「これからよろしくね、朝霧さん」
 人懐っこい笑顔でそう声をかけ、彼は桃子と短く言葉を交わしてから離れていった。遠ざかる男の背を見つめ、桃子はふと皮肉っぽく表情をかえた。
 彼女の視線の先には怒りと羞恥に肩を揺らす四季子の姿がある。
「いい気味」
 楽しげな笑いは嘲笑に似て、冷たい手で背筋を撫でられたような気がして神無は身震いしていた。
「見て、あれ。信じられないって顔」
 くすくすと笑って神無に同意を求め、桃子はすぐに笑顔を消し去った。
「今の人が、土佐塚さんの?」
「あたしの鬼ってわけじゃないけど」
 桃子の発する皮肉な口調に、神無が思わず刻印に触れると、それをちらりと見て彼女は言葉を続ける。
「向こうが強引に付き合えって言ってきただけ。別に好きってわけじゃない」
「いつ、から……?」
「……神無が木籐先輩の家から戻ったあとで仲良くなって、付き合いはじめたのは最近。ってゆっても、向こうは結構前から友達に言いふらしてたっぽいけどね」
 桃子から告げられたのは神無にとってはあまりにも意外な言葉だった。響の言った内容が鮮明に蘇り、利用するという意味がようやく彼女の中で明確になる。
「あの人……」
 神無はつづく言葉をとっさにのみこんだ。わかれたほうがいいと喉元まで出かかったが、理由を説明して友人を傷つけたくないという気持ちのほうが先に立って口ごもる。
 もちろん、黙っていても傷つける可能性があることはわかっている。いや、響が何かしらメリットを見つけて桃子に接触してきたなら、遅かれ早かれ、彼女を傷つけてしまうに違いない。
 このままでは大切な友達が悲しむ結果になってしまう――そう考え、偽りの情報を与えられた彼女は真相を知らずに苦悩する。
 しかし、そんな神無の葛藤に気付くことなく、桃子は離れていく四季子を蔑んだ目で見つめていた。
「あの女、あたしに鬼がいないってバカにしてたんだ」
「え……?」
「……神無にだけ教えてあげる」
 ひどく歪んだ笑みを近付けて桃子は声をひそめた。
「あたし、自分の鬼に捨てられたの。言ったでしょ? 美人の母親に美人の娘――まさか次女がこんなふうになるなんて予定外だったみたいでさ、あたしに印を刻んだ鬼は他の花嫁つれて、さっさと鬼ヶ里を出ていったんだ。ねえ、あいつら、なにがそんなに偉いんだろうね? 人のこと、期待はずれだったからって踏みにじった挙句にゴミみたいに捨てて――なにが……っ」
「土佐塚さん……」
 桃子は表情を隠すように顔を伏せ、一つ大きく息を吸い込むとすぐににっこり微笑んで見せた。
 その瞬間、神無は伸ばしかけた手を知らずに握りしめた。
「同情なんてしないでよ? あたし、同情されるの大っ嫌い。それにカードは手渡されてるから、あいつがいなくても全然困ってないし」
 声のトーンに皮肉が混じる。神無は語調以上に内容が気になって、とっさに彼女の言葉を繰り返していた。
「カード?」
「クレジットカード。婚姻の一部じゃない……神無ももらってるでしょ、木籐先輩から」
 当然と言わんばかりの口調におされ、神無はあいまいに頷く。しかし、実際に彼から受け取ったものはなにもなく、その事実に傷つく己の心を知って、彼女はひどく狼狽えた。
 強欲になっているのだと思う。
 ただ怯えてばかり暮らしていたころとは違い、次を、次をと望む欲求はあまりに底なしで、気付けば会いたいと願いその姿を捜してしまう。
 強欲になっているのだ。触れて欲しいと、彼のことを夢に見てしまうほど。
 神無はその想いを慌てて振り払い、なおも話し続ける桃子を見つめた。
 彼女は平然と言葉をつむぐ。表情はいつもどおり明るく、先刻の告白などまるで気にとめていないとでも言うように他愛無い話題を口にして軽く笑い声さえあげる。
 神無は桃子に笑顔を返そうとして失敗した。
 ぞくりと悪寒が走った。
 微笑む友人の瞳が凍てついているのに気付き、そこに見えない孤絶の壁と強い拒絶の色をくみ取る。
 体の奥から冷えていくような、奇妙な感覚が彼女を襲った。
「どうしたの、神無?」
 親しげな声が遠のき、胸の奥で小さく何かが鳴り響く。それはまるで警笛に似て、彼女を悪戯に不安にさせて結果的に口ごもらせた。
 焦るほどに言葉が喉にからまり話せなくなると桃子の表情が不審なものへと変化する。
 なんでもないと、たった一言伝えればいい。それは決して難しい言葉ではなかった。
 それなのに声が出ない。
 不意に激しく警笛が鳴り響き、本能があげる悲鳴に神無の思考が停止した。早く逃げろと、体にすり込まれた記憶だけが危険を察知し命令をくだす。従おうとしたその瞬間、視界が大きく傾いた。
 鈍い衝撃が上半身を襲い、次に訪れると予期された衝撃にそなえてきつく双眸を閉じたことにより、神無の視界が完全に闇にのまれた――刹那、ぱたりと生暖かいものが頬に落ちる。
 血臭がする。
 どこか遠くで悲鳴のような音が木霊していた。

Back  Top  Next