「堀川響は?」
 二年三組の教室で華鬼は中を覗き込みながら近くにいた女子生徒に尋ねた。
 普段はよほどの理由がないかぎり自分から声をかけることのない男が人を訪ねてきている。しかも、同学年ではなく後輩である男を。
 見慣れぬ男の訪問にしんと室内が静まりかえり、すべての視線が一点へと集中する。
「え、え、あ……」
 突然声をかけられた少女は、質問内容さえ聞き取れずに席を立って頬を染めた。
 華鬼はそんな女子生徒には目もくれずに室内を再度見渡した。鬼の容姿の中でも響は飛び抜けて整っており嫌でも目立つ。隠れるほど姑息なタイプではないから、室内にいれば見落とすことはないはずだ。
 しかし、華鬼がぐるりと見渡しても響の姿は確認できなかった。
「堀川なら、彼女に会いにいくって出ていったけど」
 少し離れた場所にいた男子がしどろもどろに答えると、
「彼女?」
 意外な言葉に華鬼は思わず反芻した。あんな性格のねじまがった奴と付き合う物好きがいるのかと、自分のことは棚に上げて彼は妙に感心する。
 とりあえず本人がいないならここに用はないと判断し、教室のドアを閉めて注目を一身に集めながら歩き出す。
 神無の肌には響が言ったとおり刻印が増えていた。まさか求愛するとは努努ゆめゆめ思わなかった華鬼は、事実を確認して印を刻んだ当人である響を捜した。子供のように他人の物だから欲しがっているとはどうしても思えず疑問ばかりが増えていくが、華鬼も敵の次の行動をおとなしく待っているほど人がいいわけではない。
 自分なりの結論を見いだした彼は、居心地のよくなったあの場所とそれにまつわる者を守るため、初めて自分の意志で行動をおこした。
 しかし、肝心の相手がいない。どうせ教室にいるだろうと高をくくってチャイムが鳴ると同時に響の教室におもむいた彼は、完全に出鼻をくじかれ途方にくれる。もう一度教室に戻って行きそうな場所を聞こうかとも考えたが、恋人といっしょのところに押し掛けるほど彼も野暮な性格ではない。
「恋人か」
 恋人というからには鬼の花嫁なのだろうと考える。鬼ヶ里高校に在学しているのだから、響に花嫁がいることは充分に考えられたのだが、華鬼はどうしてもその事実に釈然としなかった。
 響という男は花嫁にうつつを抜かすタイプには見えない。しかし、時間を惜しむほど会いたい女がいるなら、華鬼が抱く印象と本人は別という事になる。
 やはり華鬼は釈然としない。
 いっそその女にちょっかいでも出してやろうかと思ったが、乗り気になれずに思うだけに留まった。
 華鬼は溜め息を一つ落として廊下をあてどなく歩く。まだるっこしいことは省き、さっさと決着をつけようとしたはずの彼はすっかり覇気を失っていた。教室に戻ろうかと思ったがそれもやめ、別の棟へ移って窓の外を眺めながら歩く。鬼ヶ里祭で盛り上がる校舎には華鬼の居場所がなく、もともと学校行事に関心のない彼は参加する気さえなかった。
 二学期が終わるまでこれが続くのかと思うとうんざりする。わざわざ寒いのをこらえて雪像を作る意味がわからないし、今年はそれに加えてダンスパーティーも企画されている。誘う相手は誰でもいいという大雑把なイベントは、やはり華鬼には鬱陶しいものでしかなく、当然ながら参加する気もなかった。寝心地のいい場所でも探すかと思いついて華鬼は階段をあがった。
 ふっと、何かの気配に足をとめる。
 小さな話し声が長い廊下を反響して駆けていく。普段あまり使われない教室は時として恋人たちの逢瀬に利用されるのだと気付いて華鬼は踵を返した。そのままもと来た道を戻ろうとし、次に聞こえてきた男の声に振り返る。
 内容はわからなかったが楽しげな口調は間違いなく響のものだった。教室から出てここに来ていたのだと納得し、華鬼は少しだけ悩んだ。
 響の声以外にも聞こえるものがある。教室で彼女といわれていた女の存在を連想し、華鬼はしばらくその場に立ち尽くしてから静かに歩き始めた。
 だいたい、と彼は心の中で毒づく。
 どうしてその女に遠慮してやる必要があるのだと、華鬼は怒りとともにそう考える。この状況を作り出したのが響なら、その花嫁である女も巻き込まれてしまえばいい。響だけが安全な場所から高みの見物をしているなど納得がいかず、華鬼は声のするほうへ近づく。
 鮮明になる声はくだらない雑談を繰り返している。少し怒ったように、女の声がそれを遮る。
 楽しげな笑い声は本当に意外で、足音を忍ばせることも忘れていた。
 急に会話が途切れる。何気なく廊下の角を曲がった華鬼は首をひねって動きを止め、重なる二つの影に呆気に取られた。
 驚いたようにくぐもった声をあげ少女の体がもがき、必死で広い背中に手をやって制服を引っ張っているのが見える。状況がはっきりと見て取れるわけではないが、華鬼も察しが悪いほど鈍くはないし経験が浅いわけでもない。
 犬も食わない光景に、彼は今度こそ踵を返してその場を去った。
 自分が見られるのは平気だが、他人の逢瀬など見たくないのが彼である。しかも響は、自分の花嫁と仲良くじゃれあうかたわらで神無に印を刻んだのだ。侮辱され怒りが頂点に達した彼は苛立ちを隠しもせずに殺気立って教室へと戻っていった。
 そして同じころ、彼が去ったのを確認した男は腕の中の少女を解放してひとしきり笑っていた。
「あんたバッカじゃないの!? いい加減にしてよ、変態!」
 真っ赤になって憤慨している少女を無視して笑い続けると平手が飛んできた。最近は聞き慣れた罵声もいまは笑いを誘うものでしかないが、響は笑いをおさめてその手を難なく受け止めた。
「怒るなよ」
「くだらない話ばっかりして、あ、あんな――……!!」
「いいだろ、キスくらい」
「よくない! 汚い! マジ最低!!」
 涙目になって制服の袖で力の限り口をこすって汚れ≠落とす桃子に、自分がもてると自覚のある男は大げさに驚いて肩をすくめた。
 これだけいっしょにいれば、多少は情がうつってもよさそうなのに毛ほどもその様子がない彼女は、全身で拒絶を示して距離をおいている。その気になれば抵抗のうちにも入らない些細な反抗に響は鼻を鳴らして背後を見た。
「こんなところでやりあうほどオレもバカじゃないんでね」
 体に負った傷ならすぐに癒える。そんなものをつけるために動くほど、響はおめでたい性格ではない。動揺して去っていった華鬼の気配を感じ取った響は、ラブシーンごときで狼狽えて敵から逃げ出すなど鬼頭もまだまだ甘い――そう嗤笑ししょうする。
 しかし、いつも必ず察知できるというわけではない。呑気に廊下を歩く姿を目にしなければ、恋人とじゃれあっているようなそぶりなどとても取れず、下手をするなら桃子との協定さえ知られる可能性がある。今回は不意打ちだったから相手も虚をつかれて引き返していったが、そう何度も使える方法でないことは明らかだ。
 そもそも、華鬼だから帰っていったわけで、他の人間なら逆に興味を抱いて首を突っ込んでくる可能性もある。
 響はわめきちらす桃子を注視した。メールでも用件はすむのだが、詳細な打ち合わせは実際に会って話したほうがスムーズに行く。しかし、人目を忍んで会い続けるのも面倒になってきた。
 彼は桃子ににっこりと笑って見せた。
 ふっと言葉を呑み込んで、彼女は探るような視線を向ける。人を騙すときの響の笑顔は邪気がない。そのことを、桃子は彼よりもよく知っている。
「……不気味なんだけど」
「酷いこと言うな」
 くすりと笑って瞳を細めた。
 鬼頭の花嫁である神無はいまだに教室で孤立し続ける。唯一の話し相手であり友人≠ナあるのが響の目の前にいる桃子で、彼女は何かあればすぐに駆けつけ体をはって神無を女子生徒から守っていた。一方的だった二人の関係は、神無が応えることによって少しずつ状況を変え、いまでは神無自身も桃子に絶大な信用を寄せている。
 それは、響の目にもよくわかった。
「罠を仕掛けようか、桃子」
 手を伸ばし引き寄せて低くささやく。相手を貶めるために得た信頼は別の意味でも利用できる。
「大輪の花はようやく太陽を見つけた。奪われるとしたら、どうすると思う?」
「……言ってる意味が……」
「あの女から、オレのところに来るようにしよう」
 くすくすと笑って桃子から離れ、響は窓の外へと視線をやる。
「あたしたち、対等なんじゃないの?」
 確認する桃子に答えずに響が外の景色を眺めていると、彼女は壁を勢いよく蹴飛ばしてから彼を睨んだ。感情を隠すのが苦手らしい彼女に薄く笑んで、それから彼は降り積もる雪を見つめて思い出したように口を開いた。
「いろいろツテがあるから鬼ヶ里祭は楽しくなりそうだ」
「……情報は共有してよ」
「お前だって隠してることくらいあるだろ?」
 嫌味っぽく問うと桃子の表情が険しくなる。どうせたいした事じゃないだろうけどな、と響は心の中で続けて桃子に向き直った。
「これからはオレに合わせろ。ああ、ダンスパーティーのパートナーは決まってるか?」
「……別に」
「じゃあオレと踊れよ。足踏まないように練習しとけ」
「なんであたしがあんたなんかと踊んなきゃいけないのよ!?」
「オレに合わせろ」
 声音を変えて響は告げる。優しげなそれは、絶対的な威圧感をにじませて桃子に向けられた。
 普通の人間ならすくんで反発さえできないはずの空気に可愛げのない少女は怯むことなく睨みつけてきた。手駒でなければ始末していたかもしれない。だがまだ充分利用価値があると判断して、響は残忍に微笑みかけた。
「許せないんだろ、あの女。お前の望みどおりにしてやる。だから――」
 逆らうな。
 作り物じみた美しい顔でするりと音もなく近づいて、鬼は少女の耳元でそうささやきかけた。

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