朝のホームルームが終わると同時、いつもなら一限目の授業受け持ちのクラスに移動する教師は、パイプ椅子を持ち出して腰をすえ小脇に抱えた本を開いて読み始めた。
 かわりに室長が立ち上がってざわめく中を悠然と歩き、壇上にあがると書類を教壇においてから眼鏡のフレームを押し上げる。マイペースな男は紙を一枚めくってから咳払いしてようやく口を開いた。
「もう知ってると思うが、鬼ヶ里祭の開催が決まった。それにともなって、一限目は緊急ミーティングにあてられた。日程は十二月十四日、主催は執行部だ。前夜祭から無料の屋台設置、――今年はダンスパーティーも企画中らしい」
 どよめく室内に彼はぬるく笑った。
「迷惑な話だ」
 どさくさに紛れて小さく本音を吐きだして咳払いする。
「当日は催し物の他にゲームがあって、夜はキャンプファイヤー。……ああ、言いわすれた。カマクラも作るが、メインは雪像だから」
 取って付けたようなぞんざいな言葉に笑いがおこり、クラスメイトの一人がおどけながら挙手して立ち上がった。
「オレ踊れませーん」
「当日までみっちり練習してもらうから心配するな。踊れない奴は居残りだ」
 にべもなく言い放つ。抗議の言葉がちらほら聞こえだすと、彼は大げさに肩をすくめてクラスメイトを見渡した。
「いいか、主催はあの執行部だ。雪像とダンスは採点されて、最優秀クラスと最下位クラスにはありがたい景品が出される」
 そこで思わせぶりに言葉を切って、再び続けた。
「二三年生の反応からまともな物じゃないことは確実だ。間違っても最下位だけにはなるなよ」
「まともな物じゃないって……だって、景品だろ?」
「無料奉仕権、ってのもあるんだよ。雑用権とかな?」
「……それ、景品じゃねーし」
「譲渡されるものはすべて景品≠チてのが執行部の見解だ。ちなみに、拒否権はない。詳細は当日までのお楽しみだそうだ」
 さわやかな笑みで言うが、本人が一番嫌がっていることは見慣れぬ笑顔から知れた。相当怒っているだろうと何人かが判断すると、彼は黒板に文字を書きとめて振り返る。
「ダンスパーティーのパートナー選びは各自で」
「パートナーって!?」
「一人で踊る気か? ガキじゃないんだから相手くらい自分で見つけてくれよ。採点方法は別紙参照、一年五組は二年三組、および三年七組とチームを組んで合同で雪像作りに着手する。これから雪像のテーマについて案を出してもらう」
 一気にまくしたてて腕時計を確認し、キラリと眼鏡を光らせ皆を見渡した。
「十五分まで話し合っていいぞ。あとで聞くから案でもキャラでも好きなのをあげてくれ。いいか、雪像なんだからあまり凝った奴は却下だからな」
 わらわら立ちはじめたクラスメイトに怒鳴り、彼も席の最前列にプリントを配ってから席へと戻っていった。案って言ってもさーと、壇上からおりた彼に文句を言う男子生徒の姿がいくつもある。
 三年七組、と口の中で反芻した神無は、そこが放送部の部長である大田原がいるクラスであることを思い出す。彼は受験なんて楽勝だと豪語し、引退してもいい時期なのに部活をしきってくれている。神無の入部でさらに心配したのかまめに顔を出てくれる彼は、他の男子生徒よりも格段に話しやすくて少しだけほっとした。
「なーんか楽しそうだね」
 声をはずませた桃子が神無の席の脇に立つ。雪は驚くほど積もってきているし、これからもしばらくは天候が芳しくないらしい。雪像作りに必要な雪は思いのほか順調に集まっており、見切り発車の催し物は当初の予定よりも良好なスタートを切っていた。
 しかし問題なのは神無の想像以上に雪が重いことである。まとまった積雪さえ見たことのない彼女は、この状況に困惑の色を隠せなかった。三クラスが一丸となって作るなら相当のものになるだろうが、果たして慣れない彼女がどこまで手伝えるか。
 一風変わった企画自体は楽しそうだと思うが、いろいろと問題も多い。小さく溜め息をついて再び雪の降り始めた校庭へ顔を向けると、じっと見つめてくる視線に気付いて神無は視線を教室へ戻した。
 見れば、桃子が無言のまま見おろしていた。何かを探るような空気に狼狽えると、彼女は慌てて笑顔を見せてこっそりと耳打ちしてきた。
「なんかあったの?」
「え?」
「顔色よくなったし……雰囲気、変わった」
 返答に窮する質問は、登校時に三翼から向けられたものとまったく同じである。最近とくに多いこの手の問いに神無は身に覚えがないことが多く、うまく答えられたためしがない。
 今朝は三翼に、華鬼に襲われなかったのかとか、寝こみがどうとか、最近ご無沙汰だったから箍がはずれるかもしれないから気をつけろだとか、さんざん注意された。華鬼から異性としての興味を向けられたことのない神無は、自分に魅力がないのだというもっともな結論に達しており、彼らの危惧にただ動揺した。神無にとっては、ベッドに入って朝まで熟睡する相手のどこをどう警戒していいのかも謎なのだ。
 ただ、なんとなく引っかかることはある。
 ふと視線を落として彼女は刻印がある場所を見た。
 朝起きた時、きっちりかけたはずのパジャマのボタンが二つもはずれていて、かなり大胆に胸元がはだけていた。
 神無はわりと寝相がいい。そして、彼女を抱きしめたまま眠る華鬼も、その行為以外に寝ぼけることはなく、ボタンが自然にはずれたとはどうしても考えられない。彼が刻印を確認したとも知らず、神無は朝から大混乱だった。
 もしかしたら気付かれたかもしれないとひどく気鬱になった彼女は、平素と変わらない華鬼の態度に新しい刻印のことはばれていないのだと判断して胸を撫で下ろした。
 後ろめたくはあるが、どうしても彼のそばにいたかった。
 どんな状況であれ神無にとってあの場所は居心地がよく、まるで守るように抱きくるめる腕の中は心から安心していられる場所だった。いろいろな迷いはある。問わなければならない疑問も胸中でくすぶっている。だが、それらの不安要素が包み込まれてしまうほど安心できるのだ。
 そう、安心――。
 はたと、彼女は考える。ボタンをはずしたのが華鬼だと仮定したら、果たして本当に安全だろうか、と。
 いくら魅力がないといっても異性であることには違いない。年頃の男女があの状態というのもかなり奇妙で、華鬼が宗旨しゅうしをかえたとも限らない。
 ただそれだと、ボタンを二個だけはずした意味が読めない。
 起き抜けに軽くパニックをおこした彼女は、その疑問をいまだに引きずって悶々とした。さらに、記憶のすみには唇と刻印に独特の熱が触れた感触が生々しく残っていて彼女を動転させた。
 それはまるで、優しい愛撫のようで。
「神無?」
 名を呼ばれて、神無は大げさなほど体を揺らした。
「どうかしたの? まさか、また気分悪い?」
「へ、平気……!」
 慌てて返答する。気分は、いまだかつて感じたことがないほどよかった。不思議なことに毒々しいまでの赤へと変わりつつあった刻印は鮮やかな赤に変わり、それにともなって不快感もなくなっていた。
 響の刻印がくっきりと肌に残っているにもかかわらず、今は以前ほど刻印に嫌悪感を抱かずにすんでいる。
 いろいろとわからないことが多い。印を刻んだ華鬼に聞けば少しは明らかになるだろうが、きっと目の前にいても聞きづらくて言葉を呑み込んでしまうだろう。
「ねえ」
 押し黙った桃子がざわめく室内とは逆に小声になった。
「木籐先輩となんかあった?」
 興味津々の声はどこか弾んでいた。彼を意識していた神無が真っ赤になると、桃子はさらに声を落とす。
「だってさーなんか色っぽくなってない? ほら、すっごい注目されてる」
 言われてから初めて向けられる視線の多さに気付く。以前から感じていたそれらは、前とは少し意味合いが変化しているようで瞬時に緊張した。
 一人にはならないほうがいい。なるべく信用のおける人と行動をともにして、すきなど見せてはいけない。熱を帯びるような視線に恐怖すら感じたが、弱味など絶対に見せてはいけないような気がして神無は平然とした表情を作って桃子を見た。
「何もなかったけど……変?」
「んー変って言うか……目がいく。なんだろうね?」
 桃子は小首を傾げた。昨日の時点でこんなことはなかったから、神無の知らないうちに何かがあったのかもしれない。いっしょに首を傾げて考えていると、桃子がくすりと笑った。
「調子悪いわけじゃないならいっか。神無はダンパの相手が決まってていいよね。あたしどうしようかなぁ。……あ、ねえ、班分けするんだって。何にする? やっぱやるなら雪像づくりだよね!」
 配られたプリントを覗き込みながら桃子が明るく同意を求めてきた。雪調達係、カマクラ班、雪像班、衣装作成班、撮影班などが細かく記載され、大まかな定員も明記してあった。衣装作成班がダンスパーティーで着用する服をさすならまだこちらのほうが神無むきで無難な気もしたが、楽しげにプリントを読み上げる桃子には逆らえずに頷いた。
 少しだけ、彼女が奇妙な表情になる。
 疑問に思ったが、神無はあえて問わずにプリントを見つめた。
 億劫なはずの行事が楽しみに思えてきた。体調がいいからなのか、それとも気遣ってくれる友がいるお蔭なのかはわからないが、自然と笑みが浮かんだ。
 胸が躍る。
 目の前にある波乱の兆候など気付きもせずに。

Back  Top  Next