革張りの長椅子にふんぞり返っていると、目の前にマグカップと書類の束が無造作に置かれた。
 華鬼は目の前に腰をおろした少女をちらりと見る。相変わらずの美貌は健在で、不機嫌なためいっそう美しく見えるのだが、これといって興味のない華鬼はすぐに視線をはずして目を閉じた。
「生徒会室に来たなら仕事をしてくれない? 生徒会長」
「勝手にやってろ」
「……鬼ヶ里祭の予算見積りがこっちにまで来てるのよ。執行部じゃなくて、生徒会に。こちらには娯楽に割く予算なんてないわ」
「だったら、そのまま報告すればいい」
「木籐君」
 鈴を転がすような声が鋭くなる。人前ではあまり感情を出さない彼女――鬼ヶ里高校生徒会副会長の須澤梓は、生徒会室ではかなり表情豊かになる。
「予算管理は生徒会全体の問題よ。だいたい……」
 止まることのない文句を右から左へ聞き流し、華鬼は出されたコーヒーに口をつける。どちらかというなら日本茶のほうが好みなのだが、あえて注文はせずに苦味のある液体を喉の奥に流し込む。こんなことならさっさと家へ帰ればよかったなと、珍しく生徒会室に立ち寄ったことを後悔して視線を窓へと向けた。
 すでに日が落ちてからずいぶん時間がたっていた。どうせ神無は二階か、あるいは別の部屋に行っているだろう。なんとなくそう思うと面白くない。誰もいない家に、雪の中を苦労して帰るのも億劫で、彼は生徒会室にきて時間を潰していた。
 学校ならスイッチ一つで暖房が入るし、布団は保健室にある。食べ物こそないが、一晩程度ならなんら問題はない。一瞬だけ女子寮に行こうかとも考えたが、後々うるさいと考えてここに留まることを決め、日が落ちたにもかかわらず明るい外をぼんやり眺める。
 いつも苛立つ彼が、今日はやけに大人しいのを怪訝に思ったのだろう梓が柳眉を持ち上げると同時に、外を見ていた華鬼は椅子から立ち上がってカバンとコートを手にドアに向かった。
「木籐君!?」
「帰る」
「ちょっと! まだ話が――!!」
 追いかけてくる梓の声をドアでぴしゃりと弾いて華鬼は廊下を足早に渡り、上着を着ながら階段を駆け下りて昇降口へと移動する。上履きをはきかえてガラス戸を開けると、刺すような冷気がいっきに押し寄せてきた。
 吐き出す息が白く染まる。日中降りつづけていた雪はやんでいたが、一瞬足をとめるほどの積雪になっていた。用務員たちが雪かきで作ってくれたのだろう白い通路が学校と寮、さらに職員宿舎を繋いでいた。
 通路に足を踏み出すと鈍い音を立てて雪が沈む。人気ひとけのない白い道を足早に進んでいくと、つま先の感覚がじょじょになくなってくる。それに気にとめることなく、彼はまっすぐ職員宿舎の別棟に向かって歩き続ける。
 学校から職員宿舎は寮の距離を考えれば多少は遠いのだが、さほど距離があるわけではない。彼は数分で玄関へ辿り着き、靴とズボンについた雪をはらって建物の中に入ってエレベーターに乗り込んだ。
 ひどく焦っている。苛々しながら階を確認し、軽い電子音とともに開いたドアから飛び出してすぐ近くにある木製のドアを引いた。
 明るい玄関には女物の通学用の靴がきちんとそろえて置いてあった。廊下の奥からはリズミカルな音が聞こえてくる。さまざまな香りが混じる空気から、食事の支度をしているのだとすぐに想像できた。
 それはあまりにも意外な彼女の帰宅。
 漠然とではあるが、華鬼は彼女がしばらく四階には帰ってこないだろうと考えていた。しばらくどころか、長期にわたり二階か、あるいは別の階に行くだろうとさえ予想したのだ。
 華鬼はひどく狼狽える。
 生徒会室から四階に灯りがともっているのを目にした時にはまさかと思った。確認するために部屋を飛び出し、そして神無の所在を知ると、安堵と同時に激しい苛立ちを感じた。
 それはまったく相反する感情である。それを持て余した彼はしばらく神無の靴を凝視して、もう一度学校へ戻ろうかと背後を見た。だが、なぜか家を出る気にはなれない。外の寒さが決心を鈍らせる原因の一つであるのだが、それ以外にも気になることが――どうしても、知りたいことがあった。
 華鬼はその場でしばらく考え込み、やがて靴を脱いでスリッパにはき替え廊下を歩き出した。
 キッチンに近づくと軽快な音が大きく乱れた。つられて立ち止まりそうになったが、華鬼はそのまままっすぐ浴室へむかい、複雑な表情をうかべながら風呂に入った。
 予算計上の問題や小言で足止めをくらい、生徒会室から解放されたのは日が落ちてから数時間後――腹立たしくはあったが、彼が先に帰っていたら、神無は四階にあがってくることさえなかったかもしれない。結果的にはこれでよかったのかと、彼は真剣に考える。
 湯ぶねに半ば沈みながら目を閉じると、玲瓏とした男の嘲笑がよみがえってきた。昔からことあるごとにからんできた男は、明らかに以前とは違った方法をとっている。
 おさまっていた感情の波が再び押し寄せてくる。怒りの中に得体の知れない感情が混じり、それが彼の神経をひどく逆撫でる。
 破壊衝動が襲ってきたが手近に怒りをぶつけられる対象もなく、彼はあきらめるように息を吐きだした。
 苛つくことが多すぎる。もともと気性の荒い彼はこの状況に平常心を失っていた。
 それでも浴室で充分に時間をつぶし、体を温めてから風呂を出る。用意されていたものに着替えて廊下を歩く頃には食欲を誘う香りがただよってきて、彼はいつもどおりキッチンに向かった。
 ドアを開けて室内に入り、きっちりセッティングされたテーブルに瞳を細めた。テーブルの中央には煮立った大きな土鍋があり、向かいあわせで食器が並べてある。腰掛けると神無が茶わんを手にした。何となく緊張しているのが伝わってきたが、彼が気付かないふりをして食事をすすめると安心したように向かいに腰をおろした。何かを確認されたような気がして眉をひそめたが、これも無視して鍋をつついた。
 そしていつもどおりの静かな食事をすませ、華鬼はさっさと寝支度にはいる。平時とかわらずベッドに入り、それから約一時間、いつもならとっくに寝入っている彼は、逆撫でされた神経のおかげで眠気さえ訪れずに不貞腐れて寝返りをうった。
 小さな足音が近づいてくる。目を閉じ呼吸を整えたころ、ゆっくりと寝室のドアが開き、衣擦れの音がつづけざまに聞こえた。押し殺すような呼吸音、忍び足で近づいてくる気配、そして、すっかり馴れ親しんだ彼女がもつ独特の芳香=B
 今までにない気配がその中に交じっていることに不快感を覚えたが、彼は身じろぎ一つせずに彼女の次の行動を待つ。しばらく躊躇うように立ち尽くした彼女は、意を決したようにベッドの中に忍び込んできた。
 華鬼は無意識に動き、冷えた体を引き寄せて腕の中にくるんだ。己の行動に動揺する彼に反して、腕の中の体は一瞬だけ強ばってから弛緩し、その細い腕が躊躇いがちに彼の体に回される。
 心臓が跳ねた。拒絶ではないその動きがあまりにも意表をつき、彼を動転させる。胸の奥に宿ったのは、戸惑いとはまったく異なる感情だった。不快ではないがひどく落ち着かず、彼はじっと息を殺して神無が眠りにつくまで待つ。
 意外にも、十分も待たずに小さな寝息が聞こえてきた。異性の腕の中でここまであっさり眠るとは思ってもみなかった華鬼は、こんなに無防備で大丈夫なのかと珍しく不安になる。
 そっと体を起こし、寝入る神無を見おろした。まるで信頼しきった寝顔に瞳を細める。少し疲れたような影があるのは、心労がかさんでいるために違いない。出会ったころを思い起こさせる寝顔にかかる髪をどかし、彼は顔を寄せた。
 彼女がまとう独特の香り――それが鼻孔をくすぐり思考を溶かしていくようだった。引き寄せられるように顔を近づけ、彼女の吐息を感じて動きをとめる。惑いながらもう一度指どおりのいい髪を梳き、眠る彼女に口づける。
 柔らかな感触が心地いい。いったん離した唇を再び彼女のそれに重ねると、ひどく狂暴な感情が生まれた。メチャクチャにしたいという破壊衝動。浴室で感じたものよりも、限定的でひどく甘い、疼くような衝撃だった。
 けれどそれとは異なる感情もある。傷つけたいのではなく、もっと不可解な、もっと不可思議な何か。
 何度か口づけ、彼はいったん体をはなす。そっと彼女の唇を指でたどって顎へ移動し、白く細い喉を指先で撫で、パジャマのボタンに手をかけた。一つ、二つと外していき、手をとめる。
 鮮やかに咲き誇る花が見える。過去に彼が刻んだ、大輪の妖花というべき痣だ。そしてその近くには三翼が刻んだ印と、見慣れぬ印がひとつ。
 ふつと、怒りが湧いてくる。誰も触れることがないはずのその場所に触れた者がいるというのが腹立たしい。赤く色づく華に、華鬼は静かに唇をよせた。
 気紛れに印を刻んだ花嫁だとしても、自分の花嫁である限り、他人にどうこうされるのは面白くない。奪われることも傷つけることも許しがたい。
 理解できない独占欲に、彼は独自の結論を出す。
 己の印に愛撫するように口づけて、華鬼は眠り続ける神無をそっと抱きくるむ。穏やかな寝息に耳を傾け、彼も黄金に染まった双眸を閉じた。

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