授業が終わった教室からぬけだして、響は携帯電話の上に指を滑らせながら廊下を横切る。階段をのぼる途中でそれを制服のポケットに落とし、悠然と連絡通路を渡ってさらに上の階へと進む。そして、目的の部屋に辿り着くとドアを開け、冷気がつまった室内へと入っていった。
 エアコンのスイッチを入れ、低い機械音とともに空気が流動をはじめたのを確認して響は窓辺に立った。
 口元に狂暴な笑みを浮かべ、彼は窓に背を向け壁に身をあずけて瞳を閉じる。
「いい反応だ。傑作だったな」
 数時間前の華鬼のあの動揺は今まで見たことがないくらい強烈だった。あやふやだったものが形となり明示されることによって、彼は揺るぎない確証を得た。
 華鬼が花嫁を殺す意思は皆無だ。生家で見たとき以上に花嫁に傾倒する様が、その機微が手に取るようにわかる。
 もともと花嫁を溺愛する鬼は多く、自覚を持たずに溺れることもある。響の目には、華鬼がその一部であるように映っていた。
「面白いな。どこまで楽しませてくれる?」
 とことん気に食わない相手だからこそ徹底的に叩き潰したくなる。高飛車で高慢な男が悲嘆にくれる姿は、さぞ胸のすく光景になるだろう。それを考えただけで、笑いが止まらなくなった。
 鬼頭の花嫁である少女に印を刻んだことによって、すべての条件はそろった。
 あとはどう調理するかなのだと思い、彼はここでそのための手駒を待つ。
 校内をうめるざわめきとは別のものを求めて耳をすませば、低い機械音に床を弾く一定の音と呼吸音が交じっていることがわかる。
 狂暴な笑みが皮肉っぽいそれに変わる。視線の先でドアがスライドすると、待っていた相手が息をはずませ室内に踏み込んできた。相変わらずの乱暴な仕草に響があからさまな笑みを浮かべると、桃子の不機嫌な表情にいっそう拍車がかかった。
 桃子は、響の地位を理解しながらも一度として媚びた態度をとることなく、いや、むしろ軽蔑さえする女だった。不機嫌なことを隠しもせずまっすぐ窓辺に歩みよってから響を睨み付けて窓の外を見つめる。普段から不機嫌だが、今日はいつにもまして苛立っているらしい。気に入らないことがあると口数が減ることを知っている響は、桃子を見て笑いをおさめた。
「怒ってるのか?」
 神経を逆撫ですると知りながら、響は猫なで声で問いかける。案の定、協定を組んだ相手にむけるとは思えない顔で睨んできた。
「何であんなことしたのよ」
 凍てついた声音で桃子に問いかけられ、響は意味を解さず肩をすくめてみせた。
「なんのことだ」
「神無の刻印」
「――ああ、それが?」
「それがじゃないでしょ! なんであんなことしたのよ!? あたし聞いてない!」
「お前に断る必要があるのか? まさか妬いてるのか?」
 突き放すように嘲笑し、響は桃子に向きなおる。単純な彼女は目の前の男がいかに危険であるか考えもせず、いつもわかりやすいほどまっすぐな憎悪を向けてくる。
 笑みが、こぼれた。
 途端に壁が轟音をたて、さすがの響も驚いて視線を彼女の足元にむけた。
「ふざけないでよ」
 怒りをおさえる声はその表情とは裏腹に限りなく冷ややかだ。射るような眼差しのまま、彼女は言葉をつづけた。
「自分の刻印を持つ花嫁には絶対服従なのが鬼なんでしょ? 自分がどれだけ不利なのか考えられないほど馬鹿なわけ?」
 蔑みの言葉を吐き出す桃子に響は一瞬目を伏せた。なるほど、この世界に身をおく人間らしいもっともな考えに、呆れとともに怒りがわきおこる。
 響がゆっくり開いた黄金色の双眸を桃子にむけると、その迫力にたじろいだ彼女の足がもつれながら後退した。わずかな怯えの色――しかし、視線だけは気丈にはずすことがない。
「このオレが、刻印ごときで惑わされると?」
 その発想がまず気に入らない。
「とくに強い鬼には影響するんだって聞いてる。あんただって強いんでしょ?」
 華鬼がいなければ次期鬼頭になっていただろう男をつかまえて、少女はなおも言葉をつづけた。
「自分の意志じゃどうにもならないって」
「普通ならな」
 桃子の言葉を遮って響は彼女の肩を掴んだ。
「疑うなら証拠を見せてやろうか? お前の肌に印を刻んで笑いながら殺してやる」
 桃子はとっさに響の手をはらった。恐怖に引きつると予想した顔は、意外にも怒りで埋めつくされていた。
「求愛の印をくだらないことに使わないで。あれは好きな女におくるものよ。あたしは、あんなふうに刻印を使うなんて最低だって言ってるのよ……!」
 響にとっては想定外の言葉だった。煮え切らない言葉の数々の中には、思春期の少女が持つ一種独特な――陳腐とさえ思える夢が隠れていたのだと気づくと、馬鹿馬鹿しい思い込みに反吐が出た。
 この女もまた、真実を知らずに幻想を追いかけている。
「消しなさいよ! あんなもの必要ない!」
「――本気でいたぶるならあのくらい必要だ」
「あたしが嫌だって言ってるのよ!」
「お前になんの権限がある?」
「響……!」
「利用できるものはすべて使う。それがオレのやり方だ。逆らうならお前でも容赦しない」
「あたしはあんたのパートナーよ。情報は、あたしが握ってる」
 それだけで優位に立てるとは思っていないだろうが、桃子は怯まずに響に対峙した。ほんの少し手を加えればあっけなく壊れるだろう少女に彼は黄金の瞳を向ける。
「消しなさいよ、神無の刻印」
 苛立つ桃子に冷笑し、今度は響が軽蔑して彼女をめつけた。
「どんなことをしてもあれは消えない」
「あんたがつけたんでしょ? 偉そうにしたって、結局役立たずなわけ?」
「……お前、なんか勘違いしてないか?」
「してないわよ!」
「してるだろ。花嫁の刻印は求愛じゃない」
 あれは元来そういった意味合いのものではない――響は昔から思っていた。そして、自ら印を刻みその思いはいっそう強くなった。
 刻印の本来の用途は、求愛ではない。
 あれは、あの印は、ただの目印にすぎない。自分の細胞を取り入れた、子を宿しやすい母体を見失わないようにするためのマークだ。
 花の形を模した印は他の皮膚よりも薄くなっており、粘膜に近い状態で曝け出されている。印を重ねるという事は、そこから己の細胞を相手の体内に送り込むという事。だから、挑発の手段として充分効果があるくらい、鬼たちは自分の花嫁に他人の印が刻まれるのを嫌う。
 本能的に、穢されたのだと判断するのだ。
 自分の所有物が、別の誰かに。
「……求愛じゃない……?」
 意味を解さない桃子は怪訝な顔で響に問う。
「ああ、違う。あれはただの目印だ。動物と同じ、傲慢な自己主張の産物。知ってるか? 鬼ってヤツはな、自分の花嫁がどこにいるかなんとなくわかるんだ。――便利だろ?」
 桃子が目を見張った。愛情の欠落した男は驚く彼女に満足して口を歪めて笑みを作る。
「子猫に鈴をつけた。刻印にはこういう使いかたがあるんだよ」
 庇護翼が主の花嫁を見つけやすいように、印を刻んだ鬼も、守るべき花嫁を本能で見つけ出すようになっている。それは古来から、この世界で生きていくために手に入れた能力なのだろう。
 だが、響にはどうでもいいことだった。
 刻印は利用できる。それを全部計算づくで、神無の肌に口づけた。
「花嫁は鬼にとって道具なんだよ。今も、昔も」
「……」
「この種が滅びないようにするための、な」

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