広すぎるほど広い学園には忙しげに多くの人間が蠢いている。そんないつも通りの風景を、華鬼は静まり返った教室で眺めて瞳を細めた。
 白く染まった校庭にぽつりぽつりと黒点が交じり始めた。いつのまにかチャイムが鳴ったらしく、黒点は瞬く間に増えていく。
 山深い学校だから雪などさして珍しくはないのだが、今年の初雪は例年になく遅い。そのうえ鬼ヶ里祭も催されることになり、生徒たちは少なからず浮き足立っている。歓声の響く校庭を眺め、華鬼は溜め息をついていた。
 執行部が動けば学園全体を巻き込む騒ぎになり、当然しわ寄せは生徒会にもおよぶ。知名度だけで生徒会長に選ばれた男は、また副会長か報告書片手に抗議してくるのかとうんざりした。
 胸の奥がむかむかする。朝からひどくなる一方の感覚は彼にとって、ひどく慣れたものだった。
 いや、慣れていたはずの、と表現すべきなのかもしれない。事実、つねに付きまとってきた苛立ちは、ここ最近、すっかり鳴りをひそめていた。
 ――そう、昨日までは。
 何が原因かと考えて、結局辿り着く答えは一つしかないのに眉をしかめた。
「神無……鬼頭の花嫁」
 苛立ちの原因は、いてもいなくても同じように影響を及ぼすらしい。そう思うとさらに苛立ちがました。
「神無、二階であずかってるから」
 今朝、珍しく寝室に訪れた水羽は神無の制服とカバンを手にしてそんな言葉を残していった。
 微睡みの中にいた華鬼は瞬時に覚醒して閉ざされたドアを凝視した。自分でもどうかしていると思うほど狼狽え、それが収まらずに現在まで続いている。
 気づけば狼狽の中に苛立ちが交ざるようになった。視線はいつにも増して定まりなく、何かを探すように揺れる。
 長く使われていなかったにもかかわらず塵一つない教室には、整然と机が並んでいた。たまった欝憤を晴らすべくその一つに向かって足を持ち上げた華鬼は、眼下で蠢く黒点の一つを見て動きをとめる。
 増え続けるそれらは、華鬼にとってどれもこれも大差ないはずだった。しかし、視線はただ一ヶ所に吸いよせられる。
 少女に手をひかれ、引きずられるように歩く影があった。雪に何度も足を取られるその姿に、華鬼の体は知らずに緊張して力が入る。
 皆が思い思いに雪にまみれてはしゃぐ中、彼女だけが途方に暮れたように立ち尽くす。しばらくそうしてあたりを見渡していた彼女は、かたわらの少女が何かを話しかけると慌てたようにしゃがみ込み手を動かした。
 そして、唐突に顔をあげ、顔面で雪の玉をうけて唖然とする。雪を投げた少女が腹を抱えて笑うと、彼女の表情もつられて変化した。さまざまな音が乱れる校庭では彼女の笑い声などかき消されてしまう。それなのに、華鬼の耳には柔らかな声が聞こえるようだった。
 楽しげな表情のまま丸めた雪を振りかぶる。狙いをさだめた玉は、たいした飛距離もなく大地を覆う雪にまじった。それでも彼女は楽しげに笑い、また雪を両手に包み込む。
 彼は吐息で白くなったガラスをぬぐい、彼女の動きを目で追いつづけた。
 怯えるばかりでなく、あんなふうに笑うこともできるのだと素直に驚く。透き通るような白い肌を桜色に染めて、彼女は新しい玉を手のなかに握り込んで立ち上がった。
 見慣れない明るい表情は意外なほどよく動いた。しかし、彼女の視線が下に落ちると同時に陰りを見せはじめる。
 かすかな違和感に華鬼は眉をひそめた。それがひどく不快なものを含んでいることに疑問を抱いたが、はっきりとした原因がわからず、彼は探るように少女を見つめつづける。手が胸元にのびると高揚していた彼女の顔から赤みが消えていく。印のある場所に触れようとした指先はその途中でとまり、握りしめられた。
 その姿を目にし、言葉にはできない動揺が華鬼のなかで急速に広がっていく。毎日当たり前のように帰ってきた彼女がなぜ昨日は二階に泊まったのか――その疑問に突き当たった彼は、青ざめた彼女の顔から目がはなせなくなっていた。
 視界のはしに、白い物体が彼女に向かってまっすぐ飛ぶのがうつる。
「あ……」
 危ない、と思った瞬間には彼女の後頭部に雪玉が炸裂していた。玉を投げたのは日本人形を思わせる少女で、突然のできごとに目を丸くする彼女を指差して剣呑な顔で口を開く。すぐに、離れた場所にいた少女が駆け寄って口論になった。
 華鬼はこの時点で、ようやく神無をかばうようにしている少女に見覚えがあることに気づく。神無の友人だと宣言してきた女だ。
 対峙する少女が雪玉を握った手をふりかぶると激怒するのがわかった。
「楽しそうだな」
 不意に真横から声がかけられ、華鬼は反射的にかまえてから、がらにもなく夢中で校庭を見ていた自分に気づいて舌打ちする。
 隣には堀川響が口元にうっすらと笑みを浮かべて立っていた。その視線は、先刻まで華鬼が見つめていた場所にそそがれている。
「たまにはオレだって羽を伸ばす。ああ、なに見てるのかと思えば、神無か」
 親しげな口調に疑問より苛立ちが先に立ち華鬼が無言で睨み付けると、隣に陣取った男はくすりと笑い声をもらした。
 いつもの敵意が感じられないことから、戦いたくて来たのではないというのはわかったが、華鬼にとっては呑気に肩を並べたい相手でもない。
 もめ事を起こせばそれでなくとも煙たがられている華鬼は否応無しに処罰されるだろう。そう考えて響から意識をそらせる。停学でも退学でも、少し前なら喜んで指示にしたがったに違いないのだが、いまは学園から離れる気になれずに怒気だけただよわせて押し黙った。
 華鬼はちらりと校庭に視線をやって窓から離れた。
「あれ? どこ行くの?」
 わざとらしいくらいに親しげな声音で響が尋ねる。無視してドアに向かった華鬼の耳に、響の声だけが届いた。
「神無はオレの花嫁でもあるから――これからよろしく、華鬼」
 弾かれたように振り向いた華鬼の目には、好青年ともいえる人懐こい笑顔の男がいる。一見すれば友好的な態度だった。だが、響がまとう空気は以前と寸分の違いもない。
 敵意がむき出しになる。
 ようやく露呈されたそれに息をのみ、華鬼は窓辺に駆け寄っていた。
 神無の姿は不思議なくらい簡単に見つけだすことができた。彼女は青ざめた顔を伏せ、一人の少女に守られ雪で埋もれた校庭に立っている。
 いつもと変わらないはずのその光景に刺のような鋭い違和感がまじる。ひどく不快なその正体を知った瞬間、怒りが眼前を白く焼いた。
 瞬時に振り向いた彼の瞳は怒気をはらみ鮮やかな黄金に染まる。
 その瞳はすぐにすがめられた。
 長くそうであったように教室は閑散とし、室外から音が忍び込んで小さく反響して消えていく。教室のドアが開いていた。流れ込んできた冷気にとぐろを巻いていた怒りが揺らぎ、治まっていく。
 部屋をゆっくり見渡してから、華鬼は双眸を閉じて深く息を吸い込んだ。片手で顔を覆い、何度か深呼吸を繰り返して校庭を見る。
「……お前の望みか?」
 青ざめた顔は今にも泣き出しそうに見えた。神無は鬼頭の花嫁である自分の立場すら否定した娘だ。望んで印を受け入れたとは到底思えない。答えは自然に導き出されていた。
 胸の奥が焼けるような感覚に、彼は眉をしかめて神無から視線をはずす。
「死にたいらしいな、あの男は」
 わざわざ神無の変化を伝えに来た男は、この状況を楽しんでいるに違いない。そう思うとさっきとはまったく別の怒りが湧いてきた。
 きつく拳を握り締め、華鬼は開いたドアに向かって足を踏み出す。
 神無は苛立ちの原因となる娘だった。だが、同時にいままで一度も感じたことのない穏やかな時間を運んでくる相手でもあった。柔らかな静寂で満たされたあの空間を手放すのはあまりに惜しいのだと、変化し始めた心に気付かず彼は自分を誤魔化すための言葉をつむぎ出す。
 教室を出る直前、彼はもう一度だけ肩越しに背後を見た。
 もう校舎に入ったのか、それとも、まだあの寒々しい中に立っているのか――。
 それが、やけに気になった。

Back  Top  Next