広い廊下に出て、神無は深呼吸した。
 クラクラする。
 朱塗りの膳の上に置かれた食事は純和風で手の込んだものだった。場所が場所なのか、それともここの花嫁はそういった嫌がらせはしない性質なのか、出された食事は驚くほどまともなものだった。
 しかし、緊張しすぎてほとんど箸をつけずじまいで、代わりに何故か妙に機嫌のいい忠尚に冷酒ばかりを勧められ、幾度かお猪口を空にする事になった。
 出された冷酒はよく冷えていて、甘口で喉越しがよかった。
 お神酒の時のような苦痛もなく飲むことができたのはいいが、いつまでたっても終わらない宴会と差し出され続ける酒を断りきれず、神無は宴を中座した。
 華鬼は華鬼で、不機嫌この上ない顔をしたまま注がれるグラスを空にしていた。どうやらアルコール類はいけるらしい。ビールから始まり冷酒に移り、さっき飲んでいたのは焼酎だった。
「……二日酔い……」
 には、ならないのだろうか。
 二日酔いになっては苦しげな唸り声をあげていた母の姿を不意に思い出した。忠尚の花嫁たちは手にした酒を華鬼のグラスに移すだけで、その種類を深く考えてはいないように見えた。
 神無はいまだに明るい笑い声を響かせる大広間をちらりと見る。
 顔色一つ変えないのだからアルコール類には強いのかもしれない。
 意味もなく一つ頷いて、神無はふらふらと歩き出した。
 まっすぐ歩いているつもりなのに何故か壁が近付いてくる。首を傾げながら神無は何度も方向を修正して、そして廊下の途中で立ち止まった。
 道が分かれている。
 どちらも襖と欄間が延々と続く道である。総てが違う絵柄だが、今の神無にはそれを理解するだけの観察力がない。
 神無は左右を見比べて、再び首を傾げた。
「……どちらにおいでですか?」
 低い男の声に、神無は首を捻って後方を確認した。
「うしさん」
 そう呼びかけると、壮年の男は唖然としたように目を見開き、大きく咳払いをしながら目を逸らした。
 その動きが妙にぎこちない。
「――ここは忠尚様の花嫁と庇護翼しかいませんが」
「はい」
「……あまり挑発されないほうがいい。鬼頭の花嫁であることの自覚は持っていただかないと――婚礼はすんでいるのですから」
「……」
 ぐるぐる回る思考では目の前の男――渡瀬の言っている意味がよくわからなかった。
 挑発の意味もわからない。彼女はただ廊下を歩いていただけで、そのあとに婚礼の話が続くのも理解できなかった。
 しかし、目の前の男は本当に困ったような顔をしているので彼女は素直に頷いた。
 それを見て、渡瀬も小さく会釈する。
 神無には、婚礼の時はあからさまな情欲を見せたその鬼が、理性でそれを押し留めているのがなんとなくわかった。それは自分がすでに鬼頭の花嫁≠ニして華鬼と契りを交わしたからだろう。
 主の息子の花嫁に危害を加えないように、彼は視線をなるべく向けないようにしてくれている。
 神無は少し考え、
「お風呂、どこですか?」
 と問いかけた。
 簡単に体を洗って、迷惑をかける前に退散しよう。戻る場所は華鬼の部屋しかないが、あのだだっ広い空間を隔離するための鍵はあっただろうか。
 部屋の主をどうやって締め出すかの算段を真面目にしていると、渡瀬は難しそうな顔を作ってちらりと神無を見た。
「入浴はやめたほうがいい。だいぶ飲まれたのでしょう」
 直立できないほどフワフワしている神無からそう判断して、渡瀬は親切にそう助言をした。
 神無は頷いて、まっすぐ渡瀬を見た。
「お風呂、どこですか」
 繰り返す神無の言葉に渡瀬は小さく溜め息を返す。神無は不思議そうに彼を見ながら、もう一度口を開いた。
「お風呂」
「……ご案内します」
 諦めたような苦笑を漏らして、彼は歩き出した。神無はその後を雲の上を歩くような足取りで慌てて追いかける。
 しばらく進んだ先に、真ん中に大きく白い文字でゆ≠ニ書かれた藍色の暖簾のれんが見えた。引き戸は二つあり、かけられている暖簾の大きさも違う。
「大浴場は混浴です。今の時間なら使っている者はいないでしょうが――貴女は、右の個人風呂を使われたほうがいい。大浴場は忠尚様も使われるので」
「……」
 こくりと神無は頷いて、おぼつかない足取りで小さな暖簾がかかったすりガラスの引き戸に向かった。
 引き戸を開けると熱気が押し寄せてきた。軽い眩暈を覚えながら、神無はなんとか前方を見詰める。
 すりガラスを開けた奥にはさらにすりガラスがあった。その向こうには、二つの影が重なるようにして見えた。
「だから、そうじゃなくて……」
「あ、フックだ」
「それより、クレンジングってどう使うの?」
「そんなコト知るか――!!」
 その声は聞き覚えがある。
 神無はスリッパを脱ぎ、奥のすりガラスを静かに開けた。
「……」
 そこにいたのは可憐な容姿の双子の美少女で、互いの服を脱がしあっていた。見ようによっては艶っぽい場面なのだが、何故かその場にあるのは戦場さながらの緊迫感である。
 二人は悪戦苦闘しながら、可愛らしいヒラヒラのドレスを無傷で脱ごうとしていた。
「――あ」
「え?」
 美少女の一人がすりガラスを開けた神無にいち早く気付き、そしてもう一人の美少女も神無を見詰める。
 室温と湿度が高いためか二人の顔はほんのり桜色に染まっていた。それが、見る見る青くなっていく。
「違う! 誤解!!」
「オレこんな趣味ないから! 女装は仕事!!」
 ほぼ同時に双子の美少女は叫んだ。
 その声は、見た目とは全く違う元気のいい少年のものである。
「おーおー、似合うじゃねーの?」
 唐突にかけられた声に驚いて斜め後ろを見ると、見たことのある顔がニヤニヤ笑いながら脱衣所の痴態を見詰めている。
 忠尚の庇護翼たちと同じ黒いスーツを着込んだ彼は、光晴の庇護翼である郡司。その少し後方に、苦笑する透の姿があった。
「オレだって黒スーツ着たかったよ!!」
 涙目で少年二人がそう訴えた。
「でも、その背格好じゃね……」
 透が苦笑したままそう言うのを聞いて、双子は真っ赤になった。
「好きでチビな訳じゃない〜!」
「そりゃ黒スーツ着れば目立つことわかってるけど!」
「水羽のバカ!!」
 半裸の美少女は見事に息を合わせて、目の前にはいない主に文句を言った。庇護翼としてもぐりこむには二人の容姿は幼すぎ、どちらかと言えば花嫁のそれに近かった。
 そして、水羽は言い切ったのである。
「死ぬ気で花嫁守るなら、女装ぐらい平気だろ?」
 と。
 もえぎに化粧のテクニックを伝授された時のやるせなさは、体験した本人しかわからない。
「こんなはずじゃなかったのに〜」
 手に手を取って泣き言を並べる二人を、神無は不思議そうに見詰めた。
 どうして彼らがここにいるのかがわからないのだ。見知った顔に出会えるのは嬉しいが、こんな辺鄙な場所に彼らがいること自体がおかしい。
「あの、どうしてこちらに……?」
 美少女と黒スーツに挟まれた神無は、ようやくその一言を搾り出した。
「どうしてって……朝霧さんを守るのがオレたちの仕事だから」
 双子の片割れがそう返すと、郡司が深々と頷いた。
「ここの花嫁は、高校にいる奴らほどひねくれてはいないようだからそこら辺は心配してないけどな」
「別の問題が発生してるんだ」
 続けた透は、随分難しそうな顔をしていた。
 神無はぼんやりと透の言葉を頭の中で反芻する。
 別の問題――。
 それは厄介ごとなのだろう。四人の男たちの表情からそう判断する。詳しく内容を聞こうかどうかを考えているうちに、世界がぐるぐる回り始めた。
「あ、朝霧さん!?」
 声が聞こえる。
 その声とは別の場所から、大きな手が伸びてきた。
「――神無……!」
 崩れゆく視界の端に、誰かの胸が映りこむ。それがいっぱいに広がって彼女の体を優しく包み込んだ瞬間、記憶の糸がプツリと音をたてて切れた。

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