「おはようさん」
 神無は、唐突にかけられた陽気な朝の挨拶に疑念を抱き、心地よい熱で満たされた布団にもぐりこもうとしていた動きをとめた。
「起きたの?」
「ああ。意外と寝起き悪いんやなぁ。かわええけど」
 起き抜けに誰かに声をかけられるという経験がほとんどない神無は、双眸を閉じたまま朝一番に聞こえた声にひたすら疑問符が浮かべている。
「眉間にシワ」
 楽しげな声に続き、何かが眉間をそっと押した――刹那、神無は目を開いて凍りついた。
「よお眠れたみたいやな?」
 手を引っ込め、柔らかな笑顔とともに光晴が神無の顔を覗き込むと、逃げることすら忘れるほどパニックをおこした彼女は完全に硬直した。
「オハヨ」
 横から水羽まで顔を覗き込んできて神無はさらに混乱した。一体何が起こっているのか、彼女には事の経緯がまったく理解できない。気がつけば光晴の部屋にいて、気がつけば朝だった――そんな、途切れ途切れの記憶しかなかった。記憶をどう掘り起こしてもそれ以上の答えが出ない。
「とりあえず制服とってくるから」
「おお、よろしゅう」
「またね、神無」
 ふわりと笑んでパジャマ姿の水羽がベッドから降り、枕とリュックを持って退室する。神無は慌てて体を起こし、そしてこの広いベッドで三人仲良く寝ていたことを再確認して絶句した。
 彼女は生来、安全だと判断できる場所でしか熟睡ができない。いままできちんと眠れたのは母と暮らした狭いアパートと、そして華鬼の腕の中だけだった。彼女にとって、過去にその二ヶ所だけが安全な場所だった。
 しかし。
「ん? どないしたん?」
 ベッドに寝転んだまま頬杖をついて問いかける男を見つめていた神無は、とっさに頭を振ってうつむいた。
 異性である男だ。どんなに信用しても、身を守るために必ず一線を引いていた相手であるはずだった。それなのに、こんなに近くにいても恐怖心の欠片もない。逆にひどく落ち着いている自分がいて、神無はさらに訳がわからなくなる。
 それでも一応、警戒しながらもぞもぞ離れた。
 わずかにできた距離に安堵と不安を覚えて彼のほうを盗み見ると、微苦笑を返され心臓が跳ねた。優しくされることに慣れていない。この動揺は、だから仕方がないものなのだと自分に言い聞かせ、跳ねる心臓をなだめようと手をやってから息をのんで動きをとめた。
 一瞬で血の気が引く。
 心臓からほんの少し離れただけの位置に鬼の花嫁≠ニしての刻印がある。そこに痛みがないという事は、あの忌まわしい印はまだ肌に刻まれたままという事になる。血の気が引いた体に血が巡る。早く何とかしなければと気がく。
 誰にも気付かれない内に、削り取ってしまおう。
 ふいに吐き気が戻ってきた。耳障りな鼓動だけが大きく鳴り響き、それなのに体の奥から冷えていくような奇妙な感覚――その途中で、何かが彼女の意識を急速に引き寄せる。
 はっとして隣を見ると起き上がった光晴の姿があった。彼の手が、神無の腕を痛いほどきつく握っていた。
 視界に飛び込んできた彼の顔は怖いくらいに真剣で、そして限りなく優しげだった。
「大丈夫や。誰も、気づいてへんから」
 ささやいて、彼は瞳を細めた。
「だから安心しい。堂々としとるんや。――何があっても必ず守る。約束する」
 印のある場所さえ触れられなかった神無の手をとってそう続け、彼は彼女をまっすぐに見つめ返して破顔した。まるで空気まで柔らかくなるような笑顔だった。
 脳裏を秀麗な男の顔がかすめる。気を失う直前に耳打ちされた言葉はうまく聞き取ることができなかったが、華鬼の生家まで執拗に追ってきた男の性格からすれば、あまりいい内容でなかったに違いない。
 あの鬼は、人をいたぶる楽しさを知っている。そのための手段など選ばず、相手をおとしめることだけに心血をそそぐだろう。
 ぞっとした。何かにすがりつきたいほど不安になる。
「神無」
 突然短く名を呼ばれ、神無は驚いたように目の前の男に視線を合わせた。澄んだ眼差しを向けられると不安がゆっくりと溶けていくのがわかる。
 だが、それでも素直に頷くことができない。神無は無言でうつむき、そして視界をかすめる白いものに小さく声をあげた。
「包帯」
 昨日まではなかったものが光晴の手に巻かれている。すぐに浴室での出来事を思い出して神無はその手に自分の物を重ねていた。
「ああ? ちょっと斬れたんや。鬼は丈夫やから平気なんやけど」
「ご……ごめんなさい」
「謝るのは無し。守るって言ってるやろ?」
 落とした視線をもう一度彼に向け、それからゆっくりと頷いた。嬉しそうな笑顔を見ていると心のどこかが軽くなってきた。吐き気が去ったことに気付いて小首を傾げながら光晴の手から自分の手を離し、昨日、一度だけ目にしたパジャマを自分が着ていることを不思議がる。
「風邪ひくといかんし、着せた」
 パジャマを引っぱって確認していた神無に、光晴は笑顔のままそう応えた。
 着せた。
 神無は光晴の言葉を胸中で反芻する。温まるつもりで入った浴槽で剃刀を見つけ、そして手にしたことは覚えている。光晴がそれを止めて、それから――神無は、自分でパジャマを着た記憶がないことにうろたえた。
「ん。やっぱ育ち盛りやし。うん。な?」
「なにが、な? だよ!」
 鋭い声とともに光晴の顔面に厚みのあるリュックが炸裂し、彼はそのまま後方に倒れこんだ。
「セクハラ!」
「女の子らしゅうなったって褒めて――」
 緩んだ顔面を押さえながら体を起こした光晴をじろりと睨みつけた水羽は、制服と一緒に持ってきた教科書やノートのつまったカバンを大きく振りかぶってみせた。
 カバンの厚みを見て光晴の顔色が変わる。
「それは勘弁! 洒落にならん!」
「わかったなら顔洗ってさっさと着替えてくる!」
「しゃあないなぁ……」
「……」
「おお、はよせんと食いっぱぐれる!」
 水羽に睨まれ、光晴は壁掛け時計を確認してベッドから飛び降り駆け出した。部屋を出る直前、ちらりと向けられた視線は声とは裏腹に包み込むように優しげで、そんな表情を見慣れていない神無の動悸はさらに激しくなる。
「まったく」
 すでに着替えをすませた水羽は、光晴の背を目で追ってから、溜め息とともに近づいてきてベッドに神無の制服とカバンを置いた。真っ赤になる彼女に苦笑し、その髪を柔らかく撫でる。
 水羽は名残惜しそうに手を離し、どこか寂しげな表情をした。
「華鬼、変わったね」
「え?」
「……外で待ってる。着替えたら一階で朝食にしよう」
 不意打ちの言葉に驚く神無に、水羽は微笑を浮かべたまま踵を返した。茫然とそれを見送っていた彼女の視線は、静かに閉じたドアからはずれ、窓の向こうに広がる雪景色へと移る。
 外は白く、目にしみるような銀世界が続いていた。
 深く積もった雪の上に新たな雪が舞い降りていく。
 しんしんと降り続く雪。
 世界を染めあげ、染め潰していく雪。
 外に飛び出せば身を切るような寒さが襲ってくるだろう。ここでうずくまっていれば、暖かく優しい手が差し伸べてもらえる。
 神無は震える肩を強く抱きしめた。
 しんしんしん、と。
 ――雪は、ただ音もなく降り続く。

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