どれほど気を張っていたのか、腕の中の少女はぐったりとしたまま浅い呼吸を繰り返すばかりだった。光晴は蒼白となった顔をひととき見おろし、バスタオルでその体をくるんで浴室を出た。
 入浴していたはずの体は冷え切っていた。
 神無を一人にすることに不安を覚えた光晴は、様子を確認するために脱衣所から名を呼んだが返答はなく、不審に思って浴室のドアを開けた。あの時、ほんのわずかでも躊躇ったらどうなったかと思うと肝が冷える。
 呼び声すら耳に入らないほど彼女が追い詰められていたのだと、この時になってようやく知った。
 その原因は、おそらく。
「光晴」
 不意打ちで名を呼ばれて彼は飛び上がるほど驚いた。
「それ、どういう意味?」
 いつの間に上がりこんだのか、廊下の真ん中に水羽の姿があった。気を失った神無を寝室まで運ぼうとしていた光晴は目を瞬いて言葉を失う。
「食事持ってきてくれって頼んだじゃない。部屋に運んどいたけど?」
「あ……ああ、おおきに」
「それで?」
 嫌味っぽくにっこり笑む少年に、彼はどう説明したものかと考えあぐねて言葉を探す。すると、彼は笑顔を引っ込めてくるりと踵をかえした。
「そんな死にそうな顔しないでよ。鼻の下のばしてたら殴ってるところだけど、今日は大目に見る。……神無、何とかしてあげないとね」
 すたすた歩き出した水羽の背にはなぜかウサギのリュックがあった。安堵半分、疑問半分の光晴は首を傾げながらも素直に従って歩き出す。寝室の小さな丸テーブルの上にはおにぎりと魔法瓶、それに小さな土鍋が置かれている。水羽がベッドに背を向けるように座ったのを確認してから、光晴は神無をそっとベッドに横たえさせて脱衣所に戻ってパジャマを手にし、それを神無にきせてから溜め息をついた。
 完全に意識はないらしい。保健室で休んだと言っていたが、その言葉がどれだけ信用できるかもわからなかった。
「自分のほうも何とかしたら?」
 水羽の声に振り返ると、少年は相変わらずウサギを背負しょったまま背を向けていた。
「自分?」
「手、怪我してるよ」
「……ああ、せやった」
 忘れとった、と口にすると水羽が苦笑する。床に転々と残る血痕、シーツをわずかに染めた赤に目をとめて顔をゆがめる。
「なんなら縫ってあげようか?」
 くるりと振り返った水羽に笑顔で質問され、光晴は慌てて首を振った。
「カットバンで充分や。救急箱、救急箱」
 慌てて押入れに突進し、木箱を手にして水羽のところへ行ってみる。貸せといわんばかりの彼に救急箱を手渡して腰をすえると、傷口を見た彼が眉をしかめた。
「深くない?」
「いや、……剃刀やったから、これですんだんや。これだけでな」
 浴室に何もなければ、果たして神無はどうしただろう。生活用品が極端に少ない光晴の家でも、台所に行けば包丁くらいある。それを握って、神無なら同じことをしていたかもしれない。
 自分の心臓に程近い場所に、平然と刃物を向けるような。
「……刻印は消せるんか?」
 目に焼きつく光景に苦く問う。彼女が狙っていたのは心臓ではなく、鬼の花嫁としての印が刻まれた場所だった。そこには、見覚えのない印がひとつ増えていた。
 刃の軌道を胸中で描きながら光晴は瞳を伏せる。
「消せないだろうね。聞いたことないもの」
「たとえば手術で取るとか」
「見た目が消えても根本は同じでしょ。切ったり貼ったりが簡単なもんじゃないよ、本能まで左右するものなんだから」
「せやな。本当なら求愛は慎重にならざるを得ん。せやけど――」
「堀川響?」
 光晴がはっと顔を上げて水羽を見た。器用に包帯を巻いた彼はちらりと肩越しにベッドで眠る神無を振り返ってから口を開いた。
「なんとなく変な感じがしてた。まさか鬼頭と三翼が印を刻んだ花嫁に求愛する命知らずがいるとは思えなかったんだけど。……でも、あいつならやるかもって」
「まだわからん」
「ほぼ確定だよ。付け狙ってて惚れたとか?」
「神無ちゃんのあの反応からは考えにくい。まるきり嫌がらせや」
「嫌がらせで印を刻むなんてリスクが高いよ。よっぽど華鬼が嫌いなら考えられないわけじゃないけど」
「オレらみたいに本気で惚れたりはせんのか?」
「……どうかな。それはそれで迷惑だけど」
「意図が読めん」
「宣戦布告なのかもね」
「せやったら性格悪すぎやん」
「そんなのわかりきってるじゃない」
「言いよるのぉ。しかし、いつやられたんや?」
 素直な疑問を光晴が口にすると、水羽はむぅっと難しい顔をしながら魔法瓶の蓋を開け、中に入っていた味噌汁を椀へと移した。
 一口すすって息を吐き出し、それから考えるように返答する。
「保健室に行く直前、だと思う」
「お前はそばにおらんかったんか?」
「クラスメイトがいっしょだったんだよ。女同士で仲良くしてるのにボクが割り込むわけにはいかないでしょ。神無も好きみたいだし、実際よく面倒みてくれてるし……ボクは、気に入らないんだけどさ」
「友達かい」
「うん。ほら、土佐塚っていう鬼の花嫁」
「土佐塚? ……ああ、前に言っとったな」
「途中でなんかあったらしいけど、保健室の近くまではいっしょだったって聞いたから安心してたんだ」
 自責の念をにじませる水羽に、光晴は静かな視線を向けた。常に気を張り続ける彼を攻める気にはなれずに小さく頷く。
「麗二がなんか調べてるみたいなんだけど、プライバシーの侵害だとかって言って情報流してくれないんだよ。ただね」
 ふっと言葉を切って、水羽は再び神無を見て声をひそめた。
「土佐塚って、鬼がいないみたい」
「いない? なんでや?」
「……別の花嫁といっしょに鬼ヶ里を出たって」
 光晴は一瞬言葉を失った。印を持つ少女たちは皆、刻んだ鬼たちの花嫁になるためにここに強制的につれてこられる。ひどく乱暴なこの状況に、多くの少女は怒りと不安を覚えながら抗議の言葉を口にするのだ。
 花嫁をなだめて主のもとに届けるのが庇護翼の仕事で、鬼ヶ里高校は、彼女たちを守りながらこの生活に馴染ませる閉鎖された施設という位置づけになる。しかし、多くの場合において、この広い学園で真に花嫁を守ることができるのは印を刻んだ鬼だけだった。
「それは、きついな」
 光晴は小さくそうもらした。
 無理やり常識が狂った世界に放り込まれ、頼るはずの相手が別の女とともに姿を消したのであれば、どれほど理不尽だと思うだろう。
 自ら望んでここを訪れた花嫁など過去に一人としていない。誰もがこの状況に反感を覚え、愛され守られながら少しずつ変わっていく。そうして深まった絆の上に、この不条理な王国は存在し続ける。
「こんな場所で、一人ぽっちは寂しいやろうな」
「……望まれない花嫁なんて、いちゃいけないのにね」
 ふと沈黙が落ちる。鬼の花嫁の一部には、自分の容姿と鬼の容姿を鼻にかけて特別に選ばれた女だと自慢し、他人を見下すようなプライドの高い娘たちがいる。どんな理由にせよ自分の鬼がいないなら、そんな娘に囲まれてひどく惨めな思いをするに違いない。
 本当なら実家へ帰ったほうがいい。
 だが、今まで住んできた家へ帰れない理由が、帰りたくないと思う理由があるのかもしれない。そう考えた光晴は居た堪れない気持ちになる。
 ゆっくり繰り返される呼吸音に耳を傾けていた二人の口からほぼ同時に溜め息が漏れた。
 水羽に無言でおにぎりをすすめられて光晴が一つを手に取る。
「麗ちゃん、気づいとるんか?」
「刻印?」
「ああ」
「たぶん。……夕飯部屋でとるってもえぎに言ったら、なにも聞かずにこれだけ用意してくれた」
「おかゆも?」
 光晴が、小さな土鍋の蓋を開け中身を確認しながら聞くと水羽は頷いた。
「うん。三階も荒れてそうだよね」
「麗ちゃんよう我慢したな。確かに無理に聞いたら精神的に追い詰めそうやけど」
「追い詰めるって?」
「……刻印をな、剃刀でそぎ落とそうとした。心臓に悪いどころの騒ぎやない」
 さすがの水羽も絶句する。浴室での一件を解したのか、それから肩を落としておにぎりに噛り付いた。
「華鬼、気づくかな」
「これで気づかんかったらホンマの阿呆や」
 不機嫌な男に肩をすくめて見せ、水羽は一つ目を食べ終わると並んだおにぎりに手を伸ばす。
「堀川響、なに考えてるんだろう」
「まっとうな事やないやろ。とにかく、神無ちゃんから目ぇ放さんようにな。向こうがなに仕掛けるかわからんし」
「神無自身も心配だし?」
「……せや。無自覚になにやるかわからん。神無ちゃんが望んだんやないことくらいわかるから萎縮せんでもええのにな。こんな魅力的な花嫁がどこにおるって公言でけるくらい図太い女やったらよかったんやけど」
「それは無理だね」
「無理やなぁ。お、ありがとさん」
 湯飲みを手渡されて光晴が軽く手をあげて受け取る。テーブルの上の食事がおかゆと梅干だけになった時点で二人は動きを止めた。
「起きたらご飯食べられるかな」
「食べてくれたほうがええんやけど、難しいやろ」
「だよねぇ」
 死んだように眠る少女を思って何度目かの溜め息をつく。青白い顔は夢の中にあってなおどこか不安そうで儚く見え、落ち着かない気分にさせる。
 しかし、いつまでもそうしているわけにはいかない。
 光晴は雑巾で床の血痕を綺麗にふき取り、それから風呂に入る旨を水羽に告げていったん部屋を出た。
 湯につかり、ジンジンと痛みを訴えてくる手を眺めながら光晴は考える。神無に入浴をすすめたとき、まさかいっしょに入ろうと誘いもできなかったが、いっそそうすべきだったのだろうかと。
「……こう、拒絶の姿がありありと思い浮かぶんが……」
 なんとも切ない。だが、血も凍るようなあんなシーンを見せられるくらいなら、どんなに拒否されても目を放すべきではなかったのだと思ってしまう。
 いまだに鏡の前には剃刀が落ちていた。あの角度で、あの力で切りつけたなら、いくら剃刀でも薄皮一枚というわけにはいかない。深く、肉までえぐっていた可能性もある。
 神無は、過去に身を守るために自傷を繰り返していた少女だった。
 それを思い出し、自分の配慮のなさと印を刻んだだろう響に対しいまさらながらに腹が立ってくる。
「絶対許さん、あのクソ餓鬼」
 人形のように整った面で、やることは限りなくえげつない。これが何かの準備に思えて胸騒ぎが収まらない光晴は、くつろぐこともできずに風呂を出て再び寝室に向かった。
「早いなぁ。ちゃんと暖まった?」
 テーブルの上を片付け、リュックをおろしながら水羽があきれている。彼はウサギのリュックについている長いジッパーをぐるりと開けてから中身を出した。
 水羽の格好はどう見てもパジャマだ。時間帯からすれば別に珍しいことではない。そして、ウサギリュックから取り出したものは彼の意思をしっかりと伝えてきた。
 光晴は真剣に考え込み、水羽がベッドに向かって歩き出すのを見てひとまず突っ込むことにした。
「ちょお待ち」
「うん?」
「それは何や?」
「見てわかんないの? マイ枕」
「いや、そんなん見ればわかるっちゅーねん。なんで枕もって人ん家に――!?」
 光晴の問いににっこり微笑んで、水羽は神無の隣に枕をセッティングするといそいそとベッドに潜り込んだ。
「お邪魔しまーす」
「って、おいこら待てや!」
「うるさいなぁ、神無が起きたらどうするの?」
 枕の位置を直しながら笑む少年は、すかさず携帯電話を取り出した。
「なんなら麗二も呼んじゃう? 今なら、もえぎもついてくると思うけど」
「や、いくらなんでも五人は勘弁」
 大きめのベッドとはいえ、そこまでのゆとりはない。とっさに返した光晴に水羽は小さく笑って携帯をサイドテーブルに置いた。
 それから腕を突き出すようにして思い切り伸びをしている。すっかりリラックスしたその動きに重い空気がやわらぐのがわかり、光晴は苦笑してベッドに近づく。
 一人でなら、あれやこれやと考え込んでまともに眠れないだろう夜に、ふと訪れて場を和ませてくれる。水羽は水羽なりに気遣ってくれているのだと気付いて肩の力が抜けた。
「鬼頭の庇護翼が弱気は似合わんな」
「――歴代最高は華鬼だけじゃない。こっからが腕の見せ所でしょ?」
「ホンマに言いよるな」
 一度刻まれた印が消えたことなど前例にないが、だからといって悲観ばかりはしていられなかった。ようやく普通に笑顔を見せはじめた少女から、再びそれを奪うことなどあってはならない。
「気張るで」
「望むところ」
 伸ばされた手を軽く弾くと小さな音が室内に響く。
 よしよしと頷いて就寝の姿勢に入った水羽に、光晴は思い出したように軽く声をかけた。
「せめて寝る場所くらいは公正に決めんか?」
 手を出してひらひらさせると、水羽は不満げにぷいっと横を向く。
「じゃんけん弱いから嫌だよ。公正公正って言うけど、じゃんけんは三回勝負でしょ。一回で決めるなんて邪道」
「なんやねん、男は潔く一発勝負やろ」
 少し考え、光晴の言葉に水羽はしぶしぶ体を起こす。構えてから、一応、と前置きして質問した。
「負けたらどうするのさ」
「ああ、床にな?」
「絶対イヤ!」
 返答の途中で勢いよくベッドに沈んで布団をかぶる。
「光晴は反対側でいいだろ、反対側で!」
 また負ける予感がしているのか、指だけ布団から出してそう指示し、すぐに引っ込んだ。光晴は素直な反応に思わず吹き出し消灯してベッドに入る。
 少女が眠っているはずのベッドは意外に冷えていた。
 薄闇の中でもその横顔が青ざめているのがわかるような気がして、光晴は音もなく彼女の頬に触れた。
 やはり冷たい。体の奥にある熱がほんの少しだけ漏れてきて、それでようやく暖かさを確認できるようなイメージだ。保護なくしては生きていけない小動物のような、そんな弱々しささえ感じてしまう。
 愛しいと思うのは、その儚さゆえか、あるいは内に秘めた強さに惹かれたのか。
 光晴が手を引いて深く息をつくと、寝返りをうって背を向けた水羽が彼の名を呼び、しばし沈黙したあと言葉を続けた。
「神無を傷つけたくないんだ。……今は、それだけ」
 水羽の真摯な想いに光晴は瞳を閉じる。
 そして言葉もなく、ただ静かに頷き返した。

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