終業の鐘が聞こえるまで神無は保健室のベッドに腰掛けていた。
 響が刻んだであろう印は、幸い麗二に気づかれてはいないらしい。それを知って胸を撫で下ろす。できることなら隠し通したい。求愛の証を敵から贈られた意味を考えると、背筋が凍るような気がした。
「大丈夫ですか?」
 カーテンを開けると書類に目を通していた麗二が顔をあげる。彼に頷き返し、神無は深く頭をさげて保健室をあとにし教室へ戻る。いつも通りの教室は、神無の存在によって微妙に空気が変わる。
 嫉妬と苛立ちと、抑えきれない情欲と。
「神無!」
 その空気をものともせず、桃子の声が響いた。
「大丈夫? まだ真っ青じゃない。今日は部活休みなよ、部長には言っておくからさ」
 弾む声はやけに機嫌がよさそうだった。しかし、直視した瞳はどこか複雑な――ひどく戸惑った色を見せる。なんとなくギクリとして、神無はうつむいた。
「ほら、今日の授業」
 レポート用紙とノートを手渡され、神無は慌てて顔を上げる。
「現国は量が多いから挫折。悪いけど自分で写して?」
「あ、ありがとう」
「じゃ早咲、あと宜しくね」
 近づいてきた水羽を呼び、笑顔を向けてから桃子は席へと戻っていく。その後ろ姿を見送ってから、神無は水羽に向き直った。
「……なんだかなぁ」
 どこか不満げな少年は溜め息混じりに肩をすくめる。ざわめきだした室内に緊張しながらも、なにが気に入らないのかわからない神無が無言のまま水羽を見つめていると、彼は渋面で神無の荷物を手早くまとめた。
「あれは親切なんだろうけどね。……わざと火種を振りまいてるようにしか見えないんだよ、ボクには」
 小さな拒絶の言葉に神無は目を見張る。
「隠す気はないけど、言いふらされるのは好きじゃない」
「でも、あの」
「うん、わかってる。土佐塚は友達だから言ってるんだよ」
 そこだけは認め、けれど水羽の口調は相変わらず厳しいものだった。
「でも、迎え入れた花嫁は庇護翼の手を離れ、印を刻んだ鬼が守るのが普通なんだ。それをいまだに庇護翼が守ってるなんて妙だろ。歴代最高の鬼頭って呼ばれる鬼が自分の花嫁を庇護翼に守らせ続けてるなんて不自然なんだよ」
 彼らの中には彼らの中でのみ通用する常識がある。まとめ終わった神無の荷物と自分のものを手にし、水羽は教室を出るよう指示する。
 小さな言葉はなおも続いた。
「どう解釈されるかはわからないけど、わざわざ口にすることはない。――望まれない花嫁なんていないんだから」
 驚く神無に、水羽は微苦笑した。
「ボクはそう思ってる」
「私は……望まれては」
「華鬼は鈍いから」
 鈍いの一言で伴侶の命を奪おうとするものだろうかと神無は混乱する。今でこそ普通に接してはいるが、出会った当初の扱いは望んで迎えた相手に対するものではなかった。
「自分の花嫁は傷つけられないよ。稀に平気な奴がいるだろうけど、華鬼は絶対ムリ。初めは本当に腹が立ったけど、本気ならとっくに――」
「とっくに何や?」
 突然かけられた声に神無は息をのみ、水羽はそんな彼女の行動に表情を変えた。
「なんや?」
「……突然声かけないでよね。神無が驚いてるじゃん」
「そりゃすまんかったな。神無ちゃん……って、めっちゃ顔色悪いやん」
「保健室で休ませてもらったから平気です」
 大げさなほど動転して顔を覗きこんでくる男に神無は思わず返答する。顔色が悪いのは体調不良ばかりが原因ではなく、しかし、素直に口にするにはあまりに抵抗があった。
 普通なら人目にさらさないような場所に印を刻まれたのだ。とくに肌の露出を嫌う神無は人目どころか日光にすらさらさない。その場所に、印が増えている。おぞましいとさえ思う求愛のしるし――。
 決して好意からではない。それだけははっきりとわかる。あの男が触れたのかと思うと余計に気分が悪くなり、吐き気さえ覚えて唇を噛んだ。
 体の奥から体温が下がっていく。不意に眩暈に襲われ、よろけた体を支えるように腕を掴まれて怖気おぞけを震って、とっさにそれを振り払った。
 そこで、神無ははっとする。
 奇妙なものを見る目が二対、まっすぐに向けられていた。
「ホンマに大丈夫か?」
 浮いた手を下ろしながら光晴が問う。振り払った手が彼のものだったことに気づき、神無はわずかに頷いて下を向いた。気分が優れず眩暈はひどくなる一方で、立っているのも辛くなる。早く校舎から離れたくて歩き出した神無の足元がぐにゃりと歪んだ。
 とっさに壁にすがろうとしたが、なぜか眼前にあるはずの壁に手が届かない。状況に混乱して双眸を閉じると、闇が急速に広がってすべてを飲み込んだ。意識を手放してはいけないとわかっていたがその思いすら四散した。
「神無!?」
 叫ぶ声がふたつ。
 崩れる体を支える腕の数まではわからなかった。浮遊感が訪れ、心もとなくて近くにあるものにすがりつくように手を伸ばし、そこで意識が完全に途切れた。
 悪寒がする。頭も体もひどく重くて不快感だけが増していた。ふっと頬にあたたかいものが触れ、神無は大きく息を吸い込んでから目を開けた。
「お、おはようさん」
 少しおどけたような口調と柔らかな笑みが間近にあることに神無はパニックになる。いつもならすぐにでも逃げ出すのだが、体を動かすことさえ億劫で、彼女はまじまじと男の顔を凝視した。
「逃げんの? ホンマに調子悪いんやなぁ」
 そう苦笑して、光晴は離れていく。
「ここは……」
 覚えのある内装を見渡し遠ざかる背に声をかける。最小限の家具しかないその部屋は、彼の寝室だと記憶していた。
「――まさか四階に上がりこむわけにはいかんからな? 水羽と公正な勝負の結果、神無ちゃんは一時オレんとこに預かった」
 華鬼と光晴はとくに仲が悪い。神無はそのことを思い出しながらのろのろとベッドから身を起こし、慌てて体を確認して制服のままである事に安堵の息を吐いた。
 彼はすぐにタオルとパジャマを持って戻り、それを神無に差し出した。
「湯ははってあるからとりあえず風呂入り。それともこのまま四階帰るか?」
 ぴくりと肩が揺れる。庇護翼は自分の主人の刻印がある花嫁の声は感覚的に察知できるらしいと以前に聞いている。それは印があることを前提で告げられた言葉だった。
 ではその逆は、と神無は静かに胸のうちで問いかけていた。
 別の鬼が印を刻んだ事も察知できるのだろうか。距離をおけば、多少はわかりにくくなるのか。
 もし気付かれなくても、そばにいれば何かの拍子に見られてしまうかもしれない。それがどうしても嫌で、四階へ帰るとは言い出せずにうつむくしかなかった。
 光晴は黙り込んだ神無を静かに見つめ、ベッドにタオルとパジャマを置いた。
「浴室にあるもんは全部使ってええから、とにかくゆっくり体あっためてくるんや。気分悪なったらすぐに呼んでくれ。食事は用意しとくからな?」
「すみません」
 視界に入った壁掛け時計と外の様子から夜の七時を過ぎていることを知り、恐縮しながらベッドから降り用意されたものを手にして浴室に向かう。何もかもがゆったりと作られた建物は脱衣所や浴室も広く、やはり落ち着かない彼女は脱衣して体を洗い、すぐに浴槽に浸かった。
 浴槽で膝を抱えて溜め息をつく。うつむいた拍子に印が見え、彼女は息をのんだ。
 昔から胸元を飾っていた大輪の花は今も変わらず咲き誇っている。そこに三翼の印が増え、さらにもう一つの印がある。肌にくっきりと浮かび上がった印は他のものと同様に見間違いなどではなかった。
 神無は恐る恐る指先を印へと伸ばす。
 こすれば取れるのではないかと期待し、だが、どうしてもそれに触れることができずにいた。
「……なにか、もっと……」
 華鬼の印は十六年間取れなかったが、響が刻んだものならあるいは何とかなるかもしれない。
 浴槽から出て、彼女はボディタオルを手に取り肌に当てる。あたたかくなった体が芯から冷えていくような感覚に唇を強く噛んで、印のある場所を何度もこすってみる。しかし、白い肌が赤くなり血がにじんでも、刻印はいっこうに薄くなる気配を見せなかった。
 これでは駄目なのだと判断して視線を彷徨わせる。
 効果的なものが必要なのかもしれない。皮膚一枚ではなく、もう少し深くえぐらなければ消えないのかもしれない。そう気付いて視線を止めた。
 浴室には大きな鏡がある。その近くに、プラスチック製の棚が設置され、シャンプーやボディソープと共に剃刀が置かれていた。あれなら消せる――確信もないのにそう考え、熱に浮かされたようにフラフラと歩み寄って座り込み、剃刀へと手を伸ばした。
 手にとって、ずいぶん見慣れない形に小首を傾げる。使い捨ての剃刀しか見た事のない彼女は、まるで刃物のようだとぼんやり考えながら持ち直した。
 対面の鏡には顔色の悪い痩せた少女の姿があった。腕を持ち上げると剃刀の刃も上がり、鏡の中の自分も同じように動く。
 誰にも知られないうちに、一刻も早く印を何とかしなければならない。
 ――ひどく気分が悪かった。
 肌に焼きつくように残る花さえなくなれば、少しは楽になる。この吐き気も治まるはずなのだ。
 だから、迷わなかった。
 痛みが襲うことなど微塵も考えずに、刃の角度を調節し躊躇い無く引き寄せる。
 直後、目の前を何かが横切った。
「なにやっとるんや!?」
 鋭い声に身をすくませると鏡に赤い飛沫が見えた。刃が突き刺さった場所を確認し、神無の口から悲鳴のような声がかすかに漏れる。
「落ち着け、大丈夫や」
 囁きかける声に驚いて剃刀を取り落とすと、血で汚れた床の上に何度か跳ねた。生暖かいものが彼女の足に滴り、さらに悲鳴があがる。血は光晴の手から流れていた。それが一番取り乱す原因となった。
 再び剃刀を手にしようとした神無の体を拘束するように抱きすくめ、光晴は痛悔つうかいに顔をゆがめる。
 けれどそれを彼女には悟られまいと、ただ静かに言葉をつむいだ。
「何があっても――何があっても必ず守る。だから」
 震える体を抱きしめたまま、願うように言葉を続けた。
「信じろ」

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