「やるらしいぜ、鬼ヶ里祭」
「ああ、ポスターあったなぁ。あれなに? 雪像祭りなの?」
「雪降ってるのにやるの!?」
「降ってなきゃやれねーじゃん」
「雪足りないって」
「甘いな、ダンプカーでかき集めるんだよ。あの執行部が主催するイベントだぜ?」
「……全員強制参加。迷惑だな」
「出ないと内申に響くってよ」
「マジか」
 教室の一角でブーイングが起きる。
 開催日は十二月十四日、つまり鬼ヶ里高校の終業式前日に設定されたらしい。雪の降り具合からもめそうな企画だが、昨夜から降り続いて神無が初めて見るような積雪量になっていた。
 昨日、例年になく遅い初雪が降り始めたばかりだと言うのに、いたるところに告知のポスターがあった。その仕事の速さに舌を巻く者もいれば、期待する者、あからさまに嫌がる者もいる。イベントに慣れていない神無は窓を見やって肩をすくめた。
 外は白く染まっている。学校から職棟までの距離はさしてないが、それでも慣れない雪道の通学は彼女にとって十分な重労働だ。
 気鬱になりながらいまだ降り続く雪を眺めていると、いつものように桃子が近づいてきた。
「気分悪いの?」
 唐突に問われて神無が顔をあげる。
「すっごい顔色悪いけど。真っ青」
 心労がかさむような毎日が当たり前になっていた神無にとって、ここ数日の平穏のほうが異例の事態だったのだが、それを知らない桃子からすれば、確かに今日は顔色がよくないように映るだろう。事実、ようやく自分の気持ちに向き合った神無は、ひどく塞ぎこんで一睡もできずにいた。
 気付かなかったほうがよかったとまで思う。
 三翼から向けられる好意がどれほど深いのかは神無自身がよくわかっている。けれどいま選択肢を与えられたら、ほかの三人を傷つけるのを承知で、迷うことなくたった一人の男を選ぶ。
 答えを出すことによって三翼を傷つけてしまうのが心苦しい。自分勝手だとはわかっているが、傷つけずにすむ方法を模索せずにはいられなかった。
「保健室で休ませてもらう? なんか倒れそう」
 聞こえてきた声にはっとして、神無は桃子を見上げて立ち上がった。
「お、行く気? 相当辛いんじゃん」
 時計を確認し、携帯電話をポケットにしまいながら桃子が神無を誘導するように歩き出す。視線のいくつかが鋭く突き刺さってくるが、揉め事は極力避けることを心がけている神無はうつむいたまま気付かないふりをした。
 鬼ヶ里祭に関しての話を一方的に口にする桃子をぼんやりと見つめながら、神無は別のことを考えていた。
 鬼頭と呼ばれ、鬼の頂点に立つ男――残酷な鬼の末裔は、神無に恐怖を与え続ける殺意を以って、彼女に接した。
 いま、その殺意は消えている。一切の感情を向けられなくなったと言ってもいいだろう。感情どころか神無の存在すら彼の意識から消えている事がある。同じ部屋にいて、同じ時間を共有しても、言葉以前に視線すら合わないことなど何度もあった。
 いっしょに暮らすようになって、何度まともな会話をしただろう。どれもこれも一方通行で、まるで置物にでも語りかけている印象ばかりだった。
 道具として迎え入れた女ならば、その対応が妥当なのかもしれない。
 妥当、なのかも知れない――だが。
「どっか痛いの?」
 腕を掴まれて驚いて桃子を見ると、彼女は眉をしかめて立っていた。
「あ……」
「気付いたらいないんだもん、びっくりするじゃない」
「……ごめんなさい」
 どうやら保健室に行く途中で立ち止まってしまったらしく、先を行っていた桃子は慌てて戻ってきたらしい。頭をさげると彼女は軽く息を弾ませ苦笑した。
「残りの授業、休んどきなよ。先生に言っとく」
「でも」
「いいから、いいから! もー本当、体弱いよねぇ」
 見た目通りの神無に溜め息を漏らすと、桃子の視線がふっと神無の後ろへと移動する。少し見開き、その瞳が冷ややかに細められた。
 違和感のようなそれは過去に何度か体験している。
 神無が桃子を凝視すると、彼女はポケットから携帯を抜き出してにっこりと笑んだ。
「格の違いがわかんない女だねー」
 挑発するような口調とともに指が携帯の上を滑る。
「何のマネよ?」
 背後から怒声とも言うべき問いを投げられ、神無は振り返って廊下に仁王立ちになった少女を見た。
 見事な黒髪を揺らして江島四季子が桃子を指差す。
「人でも呼ぶつもり?」
「まさかぁ。取り巻きのいない江島さんになにができるの? 自意識過剰じゃない?」
 神経を逆撫でするようにくすくすと笑い、桃子は携帯をポケットへ戻す。それから神無の隣に並んでその背を軽く押した。
「神無体調悪いんだ。くだらない話ならあたしが聞いてあげるけど」
「……ムカつく女」
「あんたよりマシ。なんでそうプライド高いかなー。それとも、木籐先輩のこと愛しちゃってるとか?」
 おどける桃子がもう一度神無の背を押し、体を傾けて小声で話しかけてきた。
「保健室近いから一人でいける?」
「え?」
「先行ってて。あたし江島の相手したら教室戻るからさ」
「大丈夫……?」
「うん、大丈夫。神無も早く休ませてもらいなよ」
 力強く言われ、不安を掻き立てられながらも保健室に向かって歩き出す。
「逃げる気!?」
 四季子の声に立ち止まりそうになったが、神無はそのまま廊下の角を折れた。保健室に行けば麗二がいる。いま確実に助けを求められるのは彼以外にいない。下手に立ち止まるよりも一刻も早く保健室に行くべきだと、神無はそう判断した。
 嫌な感じがする。
 その身を守るために働き続けた勘がこの危局に警笛を鳴らし始める。
 神無は慌ててさらに廊下の角を折れ――そして、何かに進行を阻まれた。
「捕まえた」
 ささやく声に思考が止まる。
「バカな女だな」
 秀麗な顔の鬼が醜悪な笑みを浮かべて驚愕する神無の腕を掴んだ。鈍い痛みとともに視界が暗くなり、全身から力が抜ける。
 優しげな声が何か語った気がしたが、それ以上神無には聞くことができなかった。
 体が重い。
 何度か目を開けようとこころみて、ようやくそれに成功して神無は小さく声をもらした。
 白い天井は何度か見た事のあるものだった。体を起こしてから、ベッドに寝ていたことに気付いて慌てて体を探った。
 そして、何の異状もないことに安堵する。
「ああ、起きましたか」
 声と気配で察したのか、カーテンの向こうで麗二の声が聞こえた。
「軽い脳震盪です。あまり急に起きてはダメですよ」
「はい。……あの、私……」
 ベッドから降りて用意されているスリッパを履いた。寝ていたせいですっかり乱れた服を手早く直し、その途中で神無は視界の端で動くものを確認する。首をひねると、そこには洗面台と鏡が設置されていた。
「私、どうしてここに」
 桃子と別れて保健室に向かったことは覚えている。そう、廊下を移動して、二つ目の角で――。
「堀川響が」
 麗二の低い声に神無は身をこわばらせた。堀川響――華鬼に恨みを持ち、彼を執拗に追う鬼。思い出したくもない秀麗な顔には、冷笑とも言うべき嘲りを含んだあの笑みが浮かんでいた。
「彼があなたをここに運んでくれたんです」
「え……?」
 神無は鏡の前で足を止めた。ここは安全だというのに警笛が鳴り続けているのが不気味でたまらない。
 晴れることのない不安に息を詰まらせながら神無は茫然と鏡を見詰めた。
 乱れた襟元にそっと手をかける。ドクリと鼓動が跳ねるのを無視して、彼女はそれをずらした。
 胸元には真紅の花が咲いている。それは鬼が花嫁に送る想いの華。
 まるで血のように咲き誇った大輪の華の周りには、別の鬼が刻んだ印が残されている。
 一つ、二つ、三つ――。
 それは彼女を守るため、彼女に与えられた印。
 そして、新たに増えた四つ目の花≠ヘ彼女を陥れるための――
 呪縛。

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