食事の片付けが終わって、手持ち無沙汰な神無はソファーにちょこんと腰掛けていた。テレビを見慣れない彼女はリモコンを構えただけで電源を入れることはせず、そのかわりテーブルの上に置かれた新聞に手を伸ばして静かに開いた。
 びっしり並んだ文字も、彼女にはやはりひどく見慣れないものである。紙面に躍る文字を少し目で追って、すぐにきちんとたたんでもとの場所に戻した。
 しばらくぼんやり時計を眺め、課題が出ていたことを思い出して慌てて立ち上がり、彼女は居間から出て自室に向かう。寝室とは別にしつらえたその部屋は、四階の居住区の中で唯一彼女のために用意された空間だったが、彼女は勉強以外でその部屋を使用することはなかった。
 学校の成績はさほどいいわけではない。全体的にかろうじて平均点前後をとるというくらいだ。自室の机に向かうと、課題用のプリントをカバンから出してシャープペンを握った。
 一問一問を咀嚼するように読み解答を記していく。わからないところは教科書を開き、ノートを確認しながら解いていった。
 プリントに解答を書き込んでいる途中、背後で小さな音が生まれた。
 神無が驚いて動きを止めそろそろとドアを見ると、すぐにさっきとは違う場所でもう一度音がした。
 華鬼が風呂から出たのだと神無は判断する。ここ数日、ゆっくりとした時間が流れる職員宿舎四階で、彼女は彼の意外な一面をいくつも発見した。
 別に行動自体が学園内と大きく違うというわけではない――しかし、受ける印象が対極していた。
 どちらが本来の彼なのかは判断に窮するが、外で見る彼は以前と変わらずひどく張り詰め、いまだに孤高の獣のようだった。
 けれど家の中ではそうではない。まとう空気が変わるだけで、神無が戸惑うほどの変容をみせた。
 神無はしばらくドアを見つめ、小さく溜め息をついてから再び机に向かって残りの問題を解いてゆく。
 一通り書き終えてペンをペン立てに戻し、消しゴムをしまうため机の引き出しを開けると、そこには六つの鍵が並んでいた。
 一つはこの部屋の、もう一つは桃子の部屋、さらにもえぎと三翼の、部屋の。
 鼓動がはね上がり、彼女は慌てて引き出しを閉めて立ち上がり風呂場に移動する。華鬼が帰ってきてからできたリズムを辿る彼女の脳裏には鍵の残像がちらついていた。
 それを振り払うように頭を振ると、脱衣所の片隅に設置してある鏡が視界をかすめ、神無はふらりとそれに近づく。
 彼女の胸元には赤い、花のような印がある。一般に鬼の花嫁の刻印と呼ばれる、呪詛めいた痣――神無のそれは、他の誰よりも大きく美しく咲き誇っている。
 最近、この印の色が以前よりも赤くなった気がして、神無は胸騒ぎを覚えていた。
 いずれ毒々しいほどの赤になるのではないかと不安になりながら、彼女はそっと刻印に触れる。大輪の花の周りには小さな別の印がある。鬼ヶ里に来て、それから刻まれた花だった。
 三つの花は求愛の証。三翼から与えられた、彼女を守るための呪縛。
 向けられる感情は見返りだけを求めているわけではなく、ときに残酷なまでの優しさを潜ませて彼女に突きつけられる。神無は己の手を凝視して握り締めた。
 鍵はまだ、誰にも返していない。返そうとするたびに、うやむやにされて返せずにいた。
 身近にいる三翼の問いすら満足に答えられない状況であるにもかかわらず、神無のまったく知らない場所で、夫となる鬼の選定が始まっているらしい。いや、彼女が鬼ヶ里に来た時点で、すでにそれは視野に入れられた問題であったと水羽は口にした。
 水羽の表情や口調から読み取れたのは、それが楽観できるものではないという事。学園での神無の扱いをよく知る彼は、長い廊下の途中で真摯な視線を神無へと向けた。
 華鬼はこのことを知っているのだろうか。知っていて、沈黙しているのか。
 本人に直接聞く事もできず神無は唇を噛む。彼にどうして欲しいのか彼女自身が一番わからず混乱していた。
 鬼という種族は子が生まれにくい。鬼にとって自分の花嫁は宝であるが、それ以外の者にとっては本当に道具としての意味しか持たない。それこそ、神無を組み敷いたときに華鬼が言ったように。
「……今は……」
 まだ、道具なのだろうか。
 自らに問うと、胸の奥が鋭く痛む。初めてその意志を伝えられた時は、残酷な男だという思いこそ抱いたがこんなふうに胸が痛んだりしなかった。あの頃ならきっと、別の誰かの元に行ったとしても、そこで幸せになれるなら甘んじて受け入れたに違いない。
 耳の奥に水羽の言葉が木霊している。
 振り払いたくても振り払えない声に気がふさぐ。
 神無は緩慢な動作で浴室に入り、体を清めて湯船に浸かった。
 ぼんやりとしているとどうしても彼の言葉を思い出してしまい、そのたびに神無は何度も頭を振っていた。
 選定が始まっている。
 人ではなく道具として彼女を値踏みし、互いの意志など関係なく他人の手で未来が決まっていく。
 神無がどれほど拒否しても、おそらく聞き入れられることはないだろう。
 過去に与えられた選択肢は、この話が公になった時点で何の意味も成さなくなったに違いない。彼らの世界には彼ら独自のルールがある。その中では一般の常識は通用せず、個々の意志さえないものとされる。
 水音とともに沈んでいく思考――彼女は我に返って浴室を出て体をふき、着衣後に丹念に髪を乾かした。
 溜め息とともにドライヤーを置いて脱衣所を出る。そして、彼女は電話に気付いて駆け寄った。記憶していたボタンを押して少し待つと、明るい女の声が受話器から流れてきた。
 名乗って挨拶すると、少し驚いた声は戸惑いながらも忠尚に電話を回してくれた。
「夜分にすみません」
 恐縮して受話器を握りながら頭をさげると、おかしそうな声が気にするなと返答してきた。
「華鬼が帰ってきたんですけど、私に……あの、鬼が……」
 どう質問していいのかわからなくなってどもる神無の声に、忠尚は低い声で唐突に謝ってきた。
 鬼候補の件を保留にしようと上に連絡をとったが箸にも棒にもかからない、と。渡瀬が交渉に向かっているが、内々に進められた話はすでに表面化し始めて来ている。――お前の耳にも入ったか、すまなかった。何もトラブルは起こっていないかと、忠尚は心痛な声で続けた。
「だ……大丈夫です。ただ、少し気になって……お義父さんもあまり無理は……」
 頼みの綱だと思っていた男の謝罪に思考を混濁させながら、神無はようやくそう伝える。こっちのことは心配するなと忠尚は苦笑して、それから小さな質問だけを神無に投げて電話を切った。
 半ば茫然として、彼女は受話器を握りしめたまま立ち尽くす。
 受話器を戻してふらふらと寝室に向かう。ドアを開ければそこはすでに薄暗く、小さな寝息だけが切り取られた世界を満たしては消えていった。
 足音を忍ばせてベッドに近づき覗き込むと、華鬼は完全に寝入っていた。
 普段の険しい表情は鳴りをひそめ、警戒心をといたと知れる穏やかな寝顔がある。その表情は、きっと今まで誰も目にしたことはないだろう。
 胸がつかえるような感覚は、不意をついて何度も彼女を襲った。
 水羽には間違えずに選べと言われた。
 失われた選択肢からなにを選べというのか、神無はその意味をとっさに理解できなかった。
 そして今、電話が切れる前に問われた言葉に平静を失う。
 お前はそこにいたいのか?
 いたいのなら、その理由は何だ?
 単純な質問だった。けれど、今までそのことに一切触れることなく日々を送ってきた神無にとって、混乱せざるを得ない問いでもあった。
 失踪した彼を二ヶ月間待ち続け、そして迎えに行った理由。二人きりのこの空間が心地よいと思えるようになった意味。
 変化したのは体だけではない。あるいは、幾度も重なった心の変化が体に影響を与えたのかもしれない。しかし彼女は、あえて気付かないふりをし続けた。
 名を呼ぶたびに深くなるそれ≠ェ何であるのかを気付いていたにもかかわらず。
「華鬼」
 ピンと張り詰めた糸が切れる。
 あふれるのは言葉ではなく想いなのだと、思慕はどんなに誤魔化しても知らずに零れ落ちてしまう物なのだと初めて知った。
 震える指をそっと伸ばす。
 その想いがいつからなのか、一体なにがきっかけだったのか、そんな事は彼女自身にはわからなかった。それでも今は、ここにいたいのだと素直に思う。
 消えた彼を待ち続けたのは、他の誰の元にも行く気がなかったから。他の鬼のもとに行きたくないのは、彼のそばにいたいから。
 彼のそばにいたいとは、すなわち――。
「華鬼」
 降り始めた雪のように、想いはしんしんと胸の奥に募っていった。伸ばした手は彼に触れる手前で止まり、惑いながら離れていく。
 部屋は静寂に包まれている。
 拒絶の言葉しか知らない少女は、ようやく手に入れたこの場所を失うことを恐れていた。
 印は赤々と胸元を飾る。それを抱きしめるようにしてうずくまり、彼女は声もなく泣いていた。

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