「あ、ほら」
 放送部用の書類をまとめていた神無の耳に、明るい桃子の声が飛び込んできた。
「寒いと思ったら、やっぱ降ってきた」
 彼女の顔はまっすぐ上空を捉えていた。室内にいた生徒たちが、声につられたように窓の外を仰ぎ見て、それから驚きの声をあげた。
 粉雪は瞬きするたびに大きくなっていく。室内はじゅうぶん暖房が効いていたが、桃子が窓を開けたため、一瞬で冷気が駆け込んできた。
「おぉ、積もるな」
 大きな体躯の男が曇りガラスを乱暴にふいて低く呟く。
「部長、今年は無事にできそうですね」
 傍らの少年が弾む声をあげた。大男は、そうだなと気のない返事をして肩をすくめた。
「何かあるんですか?」
 窓を閉めて桃子が神無のところに戻りながら問いかける。放送部は三年生が二人に二年生が六人――このうち、幽霊部員が三人――そして、一年生が二人という弱小部である。しかし、金に糸目をつけない学校であるお蔭で、機材だけは一流のものがそろっていた。
 放送部は放送室のほかに、今使っている部室と声楽部と共同の完全防音の部屋を一室使えることになっていた。
「雪が積もったら、鬼ヶ里祭があるんだ」
「お祭り? 学園祭じゃなくて?」
 学園祭は十月にすんでいる。手を止めて会話に耳を傾けていると、部長が低い声で補足するように続けた。
「執行部の余興みたいなもんだ。札幌の雪祭りがあるだろ?」
「え!? 雪像作るんですか!?」
「……あんまり期待するなよ。いろんなところから雪かき集めて、班分けして雪像を作る。途中からビニールシートで見えないように囲っちまうから、余興としては面白いが」
「雪が降らないとやれないだろ。だから、去年はなかったんだよ」
 微妙に神無からは離れた位置で男子生徒はそう説明した。
「夜にはライトアップされるから結構ムードいいよ。屋台も呼んじゃうし、執行部ってそういうイベント系には力入れるんだ」
「うわぁ、楽しそうですね」
「昼間には催し物があって、屋台は全部無料。それだけはいい案だが」
 どうやら乗り気ではないらしい部長は、嬉しそうにしている少年と桃子に渋い顔で語る。部長は三年の大田原おおたわら、会話に参加しているのは二年の藤生ふじゅうと言い、ともに一般の生徒だった。
 室内にはさらに、三年の宇堂うどうと二年の森屋と言う、鬼の花嫁がいた。
 明らかに離れた一角にいる女子生徒は、不機嫌をあらわにして書類に視線を落としていた。しかし、弾む会話に我慢ならなかったのか顔をあげると、鋭く桃子たちを睨みつけた。
「部長、ラジオの企画、応募するんですよね? そろそろ案出して、デモテープ作らないとまずくないですか?」
「あ?」
「副部長がいないからって……」
「ああ、わかってるわかってる」
 うるさそうに手を振ると、女子生徒の顔が怒りで赤くなるのがわかった。
「買い出し行こ」
 同席した少女が慌てて立ち上がり友の手を引いて部室から出て行った。
 神無たちが入部してからというもの、放送部の空気が明らかに剣呑となっていた。知ってか知らずか、見当はずれのことを始めて桃子がさらにそれを荒だてる。
「何だ、あれ?」
「あーあれですよ。神無」
 大田原がボソリと悪態をつくと桃子が手を打つ。
「神無が木籐先輩と結婚してるから、ヤキモチ焼いてるんですよ。可愛いじゃないですか、先輩たち」
「……土佐塚」
「はい?」
「あんまり口にするな。……なんかややこしくなる」
「何がですか?」
「結婚話だ。生徒会長の話は部室内では禁止」
「えー。別に嘘言ってないですよ、あたしは。ね? 神無」
 唐突に話をふられた神無は無言のまま小さく項垂れた。華鬼が帰ってきてからかれこれ一週間たつが、彼の女遊びがピタリと止んでしまい、お蔭でなぜか神無の肩身は狭くなる一方だった。
「神無、新婚生活どう? 当然ラブラブだよね!」
 事あるごとに確認され、神無は返答できずに口ごもる。期待されるような進展も、がっかりされるようなトラブルも何ひとつないのだ。どうやら華鬼は、努めて神無を気にしないようにしているらしい。
 いつでも逃げ出せるように準備を怠らなかった神無は、そんな変化を見せ始めた華鬼のそばが心地いいような気がして、意図して同じ部屋にいるよう心がけている。
 変化といえば、そのくらい。
 しかしそれが驚くべき変化であることを、彼女自身はまったく気付いていない。
「神無?」
 いつものように押し黙ってしまった神無の顔を桃子がのぞきこむ。
「神無が木籐先輩とイチャイチャしてれば嫌がらせも減るし、一石二鳥じゃん」
「土佐塚」
「だって部長、結構すごいんですよー嫌がらせ。木籐先輩もビシッと言わないから逆恨みばっかりで」
「だから、もうその話題はよせ」
 溜め息をつきながら大田原が言うと、桃子は口を尖らせて不満な表情をする。それから、ふっとポケットを探って携帯を見た。
 聞き慣れた着信音は、最近頻繁に彼女の携帯から流れている物だ。少し考えるようにして携帯を開き、メールを読んで手早く返信する。
 すると、すぐに再び携帯が鳴った。
「ちょっと出ます」
 桃子は携帯を閉じて笑顔で会釈し、慌しく部室をあとにした。
「忙しい女だな」
「……彼氏ですかね」
「あ?」
「前に見たんですよ。二年の……名前わかんないんですけど、仲良くしゃべってたの」
「じゃねーだろ。機嫌悪そうだった」
「え? 笑って……」
「ありゃ作り笑いだろ。相当怒ってたぞ」
 難しい顔をしてドアを見る男に部員は驚いた顔をする。
「部長、女心はわかるのに彼女いないんすよねぇ」
「うるせえ」
 鼻息荒く口にして、大田原は女生徒たちが見ていた書類に手を伸ばす。思わず身をひいた神無の動きを見て、彼は太い眉を心持ちしかめてからのっそりと離れた席に腰掛けた。
 室内には神無と、部の先輩が二人――それが異性でも同性でも、今の彼女にとっては警戒せざるを得ない相手だった。
 張り詰めたような空気が満ちている。鬼頭の花嫁としての印は、彼女の意志に反して絶えず火種となり続けていた。
「ごめん」
 唐突に口を開いたのは、藤生だった。
「オレ、朝霧さんのこと嫌いじゃないんだけど、なんか緊張するんだ。な、なんでだろう!?」
「……お前はおめでたいヤツだな」
「なんでですか、部長!? オレには彼女が――ッ」
「いや、本当にめでたい」
 大きな背中を丸めて書類を読みながら、大田原は呆れ声を後輩にかけている。部屋を出たほうが二人のためなのだとわかってはいるが、状況を察して無視を決め込んでいる男と、状況がわからずにパニックになる男がいるこの部屋は、意外なほど彼女には安全な区域のようでもあった。
 書類をまとめると、まるでそれを待っていたかのようにドアが開いてひょこりと水羽が顔を出した。
「神無、終わった?」
 毎日誰かが必ず神無を迎えに来る。華鬼との結婚が公になった上で、このお姫さま待遇を快く思っていない者が多いことはわかっている。
 だが、断っても三翼は了承してくれないし、実際に危険なので神無はこの迎えを素直に受け入れていた。
「部長」
「ああ、土佐塚には言っておくから帰れ。残りは明日でいい」
「終わりました」
「……あ、そうなのか? 早かったな」
 ふっと大田原が笑顔になった。荷物をまとめて深々と頭をさげると、お疲れさん、と土方どかたのような勢いのいい言葉がかけられた。
 驚いてもう一度頭をさげると、大田原の快活な笑い声が聞こえた。
 廊下に出て、ホッと息を吐き出し緊張をとくと、
「意外といい部活だよね」
 水羽がそう囁いて笑顔を見せる。
「光晴はまだ渋ってるみたいだけど、ボクはいいと思うな。あの部長、ちょっと鬼の血継いでるみたいで気になってたけどね」
「……鬼の、血?」
「うん。でも、ほとんど人間と変わらないくらいかな? どっちつかずって感じ」
 確かに力は強いと思うが、鬼の一族だとは思いもよらなかった。造形から判断したわけではないが、雰囲気が異なっていたのだ。
 色々なタイプがいるらしい、と神無は納得する。それこそ人と同じように。
「実際ね」
 長い廊下を歩きながら、水羽が小さく続けた。
「鬼の血って薄くなってるらしい。考えてみれば当然なんだよ。人との間に子供作ってるんだから、鬼の血が濃くなるってことはない――だから、華鬼って特別なんだよね」
「……先祖がえり」
 過去に言われた言葉を思い出し、神無はそうつぶやく。水羽は少しだけ沈黙して再び口を開いた。
「中にはね、女が生まれなくなった時点でこの種は滅ぶべきだったんだって言うヤツも出ちゃって、色々と……大変らしい」
「鬼の中に、女の……」
「ん。すごく昔だけど、いたんだって。本当、文献しか残ってないくらいの大昔。だけどもう生まれることはないだろうから、それはずっと歴史が物語ってるから、……この先、華鬼以上の鬼は生まれないってのが、この種族が出した結論」
 静かな声が物悲しく廊下に響く。滅びを待つ一族の末裔は静かに瞳を伏せた。
「今ね」
 水羽の言葉に少しずつ緊張が増していく。胸騒ぎに息を呑むと、それに気付いた水羽が微苦笑した。
「今、神無の処遇についてもめてるらしい。神無の印の基盤は華鬼だから、強い鬼が生まれる確率が高い――だから、強い鬼のもとに嫁がせるべきだって意見が根強くて」
「でも、華鬼は」
「戻ってきても、本人があれじゃダメでしょ。もともと華鬼って鬼の花嫁には興味がなかったから、神無が花嫁に迎え入れられたときからこの話しは出てたみたいなんだ」
「……」
「ボクも候補にあがってる。でもたぶん、ボクは選ばれない」
 神無は無言のまま水羽を見つめる。
「なんとなくね、そう思う。本当は華鬼が……」
 言いかけた言葉を彼はあえて呑み込んで歩調を合わせて神無に並んだ。ふっと手の甲に温かいものがかすり、すぐに包み込まれて神無はひどく狼狽した。
「悔しいけど本当の話し、自分の印がある花嫁っていうのは自分の物にならなくてもいいんだ。ただ――」
 ただ、幸せになって欲しい。
 続く言葉は音にはならず、けれどひどく胸を締め付ける。
 守る手は、自分の物でなくてもかまわない。たとえ差し伸ばした手を振り払われたとしても、思いだけは確かにそこに宿っている。
 包み込まれた手から伝わってくるのは、優しい願いのような想い。
「この思いがあれば、たぶんボクは大丈夫」
 応えることができず言葉を失う少女に、少年はふわりと笑みを向けた。
「だから、ちゃんと間違えずに選ぶんだよ」

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