もぞもぞ身じろいで、神無は眉をしかめた。
 妙に動きにくい。何かに束縛されているようだと思ったが、さほど不快感はなかった。
 だが、体を移動させたことによって冷気も動いたのか、不意に肌寒さを感じて間近にある熱に擦り寄った。
 あたたかい。
 ずっと震えていたのが嘘のように、全身を包み込む緩やかな熱がそこにある。その熱をもっと感じたくて身をよせる途中、神無はぱちりと目を見開いた。
 そして眼前に迫る男の体に声なき悲鳴をあげる。職員宿舎別棟の四階には、いまだにベッドが一台しかない。なんとなく雰囲気が変わった華鬼を見て、さらに、熟睡中の彼が安全であると判断した神無は、昨夜は彼が眠ったころを見計らってこっそりベッドのすみにもぐりこんだ――はず、だった。
 もちろん、逃げる準備は万端である。ベッドの近くにはコートを用意し、靴下は装着済みだ。華鬼と神無の間にできる空間のためにどうしても寒さを覚えたが、さすがにこの時期に毛布なしで眠るのは辛いと思っての行動だった。
 それがいつの間にか、過去の再現のようにすっぽりと抱きくるまれている。拘束に近いこの状態に混乱しないはずがない。
 神無は無言で口を押さえていた。声は悲鳴にはならなかったが、心臓が飛び出すかと思うほどの衝撃だった。
 今、彼からは危険な空気が感じられない。以前ほど警戒しなくていい気がする。
 だが現状、彼女にとっての最大の問題はそこではなかった。
 赤くなった頬を押さえながら、神無は真剣な顔で時計を仰ぎ見た。思った以上に寝過ごしてしまったことを確認し、すぐに青ざめて体を起こす。
 華鬼の腕が重いが、彼を起こさないように注意して腕をはずし、なんだか微妙に絡まっている足に動転しながらもベッドから抜け出した。
 まるで重労働のようだ。大きく肩で息をつき、神無は慌てて寝室から出た。顔を洗って着替えをすませ、エプロンをつけて朝食の支度を始める。
 彼がいない間、ずっと二人分の食事を作り続けた。広いキッチンを有効に使いながら、彼女は味噌汁と数品の煮物、焼き魚に漬物という、ものの見事な和風の食事を用意した。
 テーブルに並べ、セッティングが終わったところで立ち止まる。
 時間がない事もあって急いで用意をしていてすっかり忘れていた。警戒をし続けた二ヶ月前を思いだし、呼びに行きにくくなっていた。
 こっそり寝室に運んでおくか、それともこのまま置いておくか――そう考えて、唇を噛む。料理は、誰かと食べたほうが美味しいと思う。楽しい会話などないだろうが、時間を共有することくらいできる。
 自己満足かもしれないが、とにかく今はいっしょにいたい。
 神無は意を決して踵を返した。華鬼を起こしにいこうと足を踏み出し、そしてようやく、戸口に彼が立っていることに気づいた。
 いつからそこにいたのかわからず神無は一瞬硬直したが、そんな彼女を一瞥してから、すでに制服に着替え終わっている華鬼は平然と食卓についた。
 いっしょに食事をとってくれるらしい。そう判断して、神無は急いでテーブルに戻って茶碗を手に取った。
 この光景を望んでいたのだが、なんとなく奇妙な気分だった。
 以前と同じように会話はないが、仏頂面の彼が目の前にいるというのに息苦しさや恐怖などは感じない。茶碗を手渡しながら小首を傾げ、神無は自分のご飯もよそって箸を手にして華鬼を見た。
 彼から受けるのは、拒絶か苛立ったような気配が多かった。それが今では、どちらともいえないのだ。
 仏頂面のまま食事を始める。口に合わないのではないかと不安になると、彼の表情が少しだけ動いた。
 どうやら、食事は悪くない出来だったらしい。なんでも文句一つつけずに食べるのだが、口に合わないとわずかに表情が硬くなることを別荘から帰る途中に入った店で知った。
 生家に行けば彼の好みの食事が用意してもらえるだろうに、彼はかたくなに拒否したのだ。さすがに文句は言えなかったのかとも考える。
 昨日家に帰ってから、本当なら直にしなければならない報告を電話で忠尚に伝えた。気分を害するのではないかと心配したが、彼は思った以上に機嫌がよく、そして神無の無事を大げさではないかと思うほど喜んでくれた。
「少しは丸くなったようだな。退学届けは一時保留にしておく。面倒をかけるがよろしく頼む。――今度は二人で帰ってこい」
 電話越しにかけられた言葉に素直に頷くと、忠尚はどこか満足そうに電話を切った。
 そんなやり取りがあったとも知らず、華鬼は空になった茶碗を神無に差し出してきた。意外と食べるのだと感心して、茶碗にご飯をよそってから返し、神無も食事を進めた。
 満腹になったらしく茶をすする華鬼の姿がなんだかとても不似合いで――しかし面白いぐらい似合っていて笑みがこぼれた。
 彼が席を立つときに、
「美味かった」
 ぽつりと言葉がかけられ、空耳かと思って慌てて顔をあげた。そそがれていた視線はすぐにそらされて、彼はカバン片手に玄関に向かった。それを見送っていた神無の顔がふわりと赤く染まる。
 初めて褒められた。
 そっけなくはあるが、驚くほどの変化だった。思わず止まってしまった箸を動かしていた彼女が笑顔になる。時間を確認しながら食事を終えて、洗い物は帰ってからやることにして家を出る。
 一階には三翼が待っていて、それはそれは複雑な表情をされた。
「よく連れ戻せたね」
 感心するのは水羽である。
「しかもなんか、大人しくなってるし。……なんかあった?」
 ごく自然に問いかけられ、神無は小首を傾げた。
「いや、この場合何もないほうが妙なんやけど……ホンマになんもなかった?」
 重ねて光晴にまで質問され、神無はさらに考え込む。何もないといえば、何もない。今までの関係からすれば、いっしょに朝食をとったというのは大きな違いであるが、しかし、問いの内容が微妙にそれとはずれているようである。
「本当に鬼の花嫁には興味がないんですかねぇ」
 のんびりと麗二が歩き出す。過去に華鬼が相手をしたのはことごとく一般の女子生徒で、その中に鬼の花嫁は含まれていない。
 さらに自分の花嫁にまで興味を示さないとなると、華鬼の花嫁嫌いは本能を捻じ曲げる事実から、思った以上に根深いと予想された。
 三人のやり取りを聞いていた神無は、ようやくその危惧が何であるかを理解して絶句する。
 華鬼は男だ、と神無は間抜けなことを確認する。
 おかしな事に今の今まで、あれほど危険だと思っていた男が異性≠ナあることをすっかり忘れていた。むろん、正確には忘れていたのではない。ただ、二ヶ月ぶりに会った彼の雰囲気が以前とはまったく違っていて異性としての危機感を抱かなかったのだ。
 とくに睡眠中の彼は恐ろしく無害だ。
「よく寝てたから、だから……」
 慌てて弁解すると、水羽が奇妙な顔をした。
「華鬼の眠りってすごく浅いよ。熟睡ってほとんどしないんじゃないかな」
「あれだけ火種抱えとったら呑気には寝られんやろ」
「体がもつから不思議ですよね」
 確かに華鬼の体にはおびただしいまでの傷がある。熟睡していたからそんな気など起きなかったのだ、だから彼は安全だと思いたかったが、あの傷を考えればどうにも納得がいかない。
 過去にあれほどの傷を負わされた男が、果たして他人を信用して眠るものなのだろうか。
 だが、無防備すぎる寝顔は気が張っているようには見えなかった。
 そして彼女自身も、華鬼のそばではよく眠れる。
「……安全」
 なのだろうか、お互いに。そんなことを思っていると、
「でも、そうなるとあれですね」
 どこか楽しげな麗二の声が聞こえてきた。
「種の保存云々で、神無さん、別の鬼を選ばなきゃいけなくなると思うんですけど」
「あ、麗二と光晴はダメ」
「なんで断言やねん」
「だって、連絡来なかったでしょ」
 あっさり返す水羽に、麗二と光晴の視線が向かう。少年はそれを受け止めながら言葉を続けた。
「神無の鬼候補。ボクのとこには通達来たよ。昨日取り消されたけど」
「なぜ私が候補にあがらないんですか?」
「そりゃ麗ちゃんは若作りだからやろ」
 麗二は年齢から考えればはずされても仕方がないのだが、納得がいかないのかいつもどおり凄味のある笑みを浮かべていた。ふと光晴がはずされる理由を考え、神無はハッとして口を開く。
「昨日は、勝手なことしてすみませんでした」
 歩きながら頭をさげて、それから何の反応もないことに疑問を抱いて顔をあげた。
 どこか不思議そうな顔を向けられ、唐突すぎる言葉だったことに気付き恥ずかしくなる。わずかに身を強ばらせると光晴が隣に並んだ。
「渡瀬っちゅう鬼といっしょやったから、行く先はわかっとった。あとで水羽も連絡入れたしな」
「華鬼に会いに行ったって聞いた時には、さすがに親父さん怒鳴りつけちゃったけどね」
 ぺろりと舌を出して水羽が頷く。
「無事でよかった」
 続けられた言葉に小さく頭をさげた。本当に心配ばかりかけている。あまり無茶なことはしないようにしようと心に誓うと光晴の視線を感じた。
 神無は柔らかな笑顔に動じて息を呑む。
「おおきに」
 神無にだけ聞こえるように囁いて、彼は優しい眼差しをそっとはずした。動悸が治まらないのは、優しくされることに慣れていないからだ。神無はそう自分に言い聞かせながら、さらに動悸が激しくなって顔をあげることすらできなくなる。
 校舎に着き、いつものようにバラバラに別れて昇降口に行くと、桃子が仁王立ちで待っていた。
 思わず立ち止まる神無に、桃子は小首を傾げて苦笑する。
「怒ってないよ、別に」
 そう言って呼び寄せられ、神無は素直に彼女に近づいた。
「それよりさ、木籐先輩帰ってきたんだって? よかったね、神無」
「え?」
「やっと好きな人といっしょにいられるじゃん」
 ニッと笑って耳元で言われ、顔が真っ赤になったのが自分でもわかった。さっき以上に動悸が激しくなり、どもってしまって言葉がうまく出てこない。
 しかも彼女自身、言い訳がしたいのか否定したいのかもわからない状態だ。パニックをおこす彼女を見つめて、桃子は瞬時に笑顔になった。
「別に隠さなくてもいいよ。自分の鬼を好きになるのって普通だし? ってゆーか、すごく嬉しいな、あたし的には」
 そう言いながら彼女はなぜか携帯を手にしてせわしなく指を動かす。
「神無は木籐先輩といっしょになるのが一番だよ」
 まだ整理のつかない感情に一つの区切りをつけてくれた友人は嬉々とした笑顔で告げる。
 指が携帯の上を滑るのがわかった。
 なにか、ボタンを押したようだった。
 その直後、神無の胸の奥に響いたのは決して聞きたくない懐かしい音――危険を報せる警笛の音にひどくよく似ていた。

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