久しぶりにいい夢を見ていた気がする。
昼過ぎからここに陣取って空を眺めていたが、太陽はすでにずいぶん傾いていた。いつの間にか眠り、そして意外にもそれが深かったらしい。
華鬼は両手を突き上げ伸びをし、そしてぴたりと動きをとめた。ハンモックが微妙に傾いていることに気付き、さらに森特有の香りが別のものに打ち消されていることを知る。
彼はおかしな格好のまま動きをとめて、ちらりと視線を横にやった。
ハンモックに上半身を預けたまま眠る少女の姿がある。あまりに予想外な彼女の出現に、さすがの彼も言葉どころか思考すらとまった。
この別荘までの道のりを知るのは生家の中でもごくわずかだ。どう頑張っても神無がここに来られるはずがない。
はずがないのだが、現に彼女はここで眠っている。半身を起こすと首元から何かが滑り落ちて冷たい風が喉を撫で、彼の視線が自然と降りた。肌触りのいいマフラーが膝の上に落ちている。手にとってしばらく考えあぐね、彼は眠っている少女にそっとかけてみた。
しかし、マフラーを肩にかけるのはどうにも格好がつかない。首に回すのが筋だろうと引っ込めた手をもう一度伸ばすと、ハンモックが大きく揺れてしまった。
パッと神無が顔をあげ、華鬼は誤魔化すこともできずに妙な格好のまま止まった。
「おはようございます」
頭をさげ、彼女は華鬼を不思議そうに見詰めてから辺りを見渡し、ようやく状況を把握したらしかった。
「お邪魔してます」
もう一度頭をさげた。あげたその表情は以前見たときよりもずいぶん柔らかく、まっすぐに見詰めてくる瞳は驚くほど澄んでいる。
宙に浮いたままの手を無意識にその頬に添えると動揺が伝わってきた。彼は指を滑らせてマフラーに触れ、それを彼女の首に巻いてハンモックから降りた。
一体何をやっているんだと、渋い顔をしながら思う。
拒絶ではないその感覚はどうしても慣れない。いまだかつてただの一度も抱いたことのない戸惑いは、彼女に口付けた時に感じたものとひどくよく似ていた。
得体が知れない。
戸惑いと安堵、不安と混乱――そのすべてが、絶え間なく押し寄せる。
離れていれば少しは落ち着くかと思ったが、結局この二ヶ月、さほど変化らしい変化はなかった。
それどころか、さらに悪化しているような気配がある。
「華鬼」
そして、不思議なことに彼女がいると落ち着く場合と苛立つ場合の二種類があるのだ。今はどちらかといえば前者にあたる。
名を呼ばれて振り返ると、彼女は小走りに近づいてきた。
「下に車が待たせてあって、……それで、い、いっしょに家に……」
じっと見詰めていると訴えかける声がどんどん小さくなっていく。かなりの距離があるにもかかわらず、わざわざ迎えに来たらしい。
無駄なことを、と冷徹に考えた。あの学園に帰る必要などこれといって思い当たらない。もともと気まぐれに通い始めただけだ。だから、飽くまでここに留まる気でいた。
困惑する彼女をおいて華鬼は小さな別荘へと足を向ける。忠尚から与えられたその家を、母はなによりも大切にしていた。
気位の高い女だった。老いた自分の姿を嫌い、不自由な体を引きずりながらも一人で生きることを望んでいた。
そんな女に手を差し伸べた理由など忘れた。肉親であるという、ただそれだけのものだったのかもしれない。
彼女は日々老いて弱っていくその事実を疎んでいた。
華鬼は庭を横切って玄関に向かい、そこから別荘へと入る。
彼女と暮らした最後の数ヶ月、ただ目まぐるしいほど慌しい毎日だった。暇を見つけてはすっかり傷んだ家を補修し、他者の介入を嫌ったために家事も一通りこなさねばならなくなり、あまり体の自由がきかない母の介護もやった。道楽で入った学校では、授業中ほとんど寝て過ごしていた。
すべてにおいて限界だったあの頃が、彼が鬼頭と名乗ることをこころよく思わない者たちから一番命を狙われていた時期でもあった。
生きることも死ぬことも興味がなかった。ただ本能だけが生へと執着し、命を繋ぎとめようと動いていた。
廊下の途中でふと立ち止まり、華鬼はひとつのドアを見詰めた。
他者に弱点を見せればどれほどの報復が待っているかを知っている。その日も彼は新たにできた傷に大した治療もほどこすことなく無造作に止血の包帯を巻いていた。
いつも静寂に包まれていた別荘は、格段に静かだった。違和感を覚えながらも母親のもとに行くと、彼女は珍しく穏やかな顔で窓の外を眺めていた。
あざやかに蘇る過去に華鬼は低くうめいた。
そう、その日は、とてもよく晴れていて。
「華鬼」
彼女は微笑を浮かべながら彼の名を呼んだ。
「今までありがとう。私はもう大丈夫」
紙のように白い肌が目にしみた。表情同様に穏やかな声は、不思議なくらい明朗な言葉となって華鬼の耳に届いていた。
「最後に一つだけ、母さんのお願い聞いてくれる?」
伸ばされた手を掴むとそれがひどく冷たい事に気付く。彼の思考は現状を把握しきれず、ただ茫然と微笑むその顔を見詰めていた。
「幸せになって」
勝手な一言だった。今までさんざん人を振り回した挙句にそう言って、彼の答えを聞く事もなく、穏やかに微笑みながら彼女は息を引き取った。
彼女の体を、彼女がもっとも愛した男のもとまで運び、彼は慟哭も知らずにただ闇夜を駆けた。
愛情があったわけではない。そう思っていたのに、打ちひしがれている自分に気づいた。
どこをどう走ったのかは定かではない。何かに呼ばれたような気がして、彼は闇の中で足を止めた。
延々と広がる闇の中、
際立って美しいというわけではない、それはあまりに貧相な女――しかし、浮かべる笑みは、彼が最後に見た母親のものと気味が悪いくらい重なった。
苛立ちとともに殺意が生まれた。
殺すつもりで声をかけた。
けれど女は――彼女は。
「華鬼!」
ぼうとドアを凝視していた華鬼は名を呼ばれて唐突に現実に引き戻される。息をのむようにして、彼は玄関へと顔を向けた。
「大丈夫?」
不安げに神無が駆け寄ってくる。伸ばされた手を振り払おうとしたが、体がそれを拒否するかのように動かなかった。
胸の奥がむかむかとする。
鬼の血族にかかわる者から向けられる視線は、どれもこれも恐ろしく均一だった。それをよく知っていたのに、なぜ印など刻んだのか。
そして、なぜ鬼ヶ里に呼び寄せたのか。不快と苛立ちしか呼ばないと、己が一番よくわかっていたはずだ。そもそもが、死など確認させずに、放置しておけばこれほど乱されずにすんだに違いない。
いつもいつも、彼の思考と行動は矛盾ばかりを生み出す。
「苦しいの? ――悲しい?」
静かな神無の問いに、一瞬だけ息が詰まった。
腹立たしさとは異なる感情がふっと胸の奥で生まれる。伸ばされた細い手が彼の胸に触れる直前、得体の知れないその感情ごと、彼は間近にあった細い体を抱きしめた。
腕の中で神無が硬直する。それから、そろりと腕が動いてなだめるように背中を撫でた。
そうされることで、漠然とした何かが急激に変化するのがわかった。
しかし、すべての感情を己の中に閉じ込めて過去に置き去りにしてきた男は、それがなんであるかを判断することはおろか、心配する彼女に返す言葉すら持ってはいない。
もどかしさに痺れを切らし、抱きしめる腕に力を込めると、以前よりも少しだけその体が柔らかく変化していることを知る。
なぜか今まで感じた以上に動揺した。
慌てたように戒めを解くと、ほっと神無が小さく息をついた。背に回された手が去るのが名残惜しい気がして、その思考に華鬼はわずかにたじろいだ。
「華鬼?」
気遣う声を耳にしながら華鬼は玄関に向かって歩き出した。日が落ち始めて肌寒さを感じるが、部屋に戻って服を着る気にはなれなかった。
「華鬼」
ぴったりとあとをついてくるのは、過去に何度も殺そうとしたはずの少女だった。殺し損ねたことを後悔し、隙があれば始末しようとさえ考えていた。
それなのに、そばにいるだけで心を凍えさせるような静寂すら心地よく感じる自分がいる。奇妙なその現象に、華鬼は首をひねった。
「待って……!」
歩く速度が速すぎることに気付いてそれを緩めると安堵の息が背後から聞こえた。
「どこに行くの?」
問いに思わず立ち止まりそうになりながら、彼は家を出て山道をおり始めた。
「家」
ぶっきら棒に答えるとそれ以上神無からの問いかけはなかった。山道をおりきったところで、車外で律儀に待っていたのだろう渡瀬に会った。
彼は唖然として華鬼を凝視する。不躾なその視線に不快をあらわにすると、彼は慌てたように表情を引き締め頭をさげた。
何をそんなに驚いているのか疑問を抱いて、それからようやく自分が今までその場所に誰も近寄らせなかったことを思いだす。過去に父親の庇護翼が来たとき、理由など一切聞かずに病院送りにしたことすらあった。
この場所に執着などないはずなのに、他者の介入がただわずらわしく神経を逆撫でした。それからはほとんど条件反射で、ここに来た者はまとめて血祭りにあげていた。
無抵抗の女はさすがにやりにくいが、殺意を向ければいかに気丈であろうとも、十中八九踵を返した。
そんな過去があったはずなのに神無を目の前にした時にはその種の怒りが一切湧かなかった。湧かないどころか――。
そこまで考え、顔の筋肉を引き締めていた渡瀬が再び表情を崩していることに気付く。
不思議に思ってその視線を辿り、華鬼は瞳を細めた。
白い息を吐きながら、少し離れた場所に神無が立っている。
小さな花が色づきほころぶような、淡い笑みを浮かべながら。