「琴音様が体調を崩したとき」
 途中で簡単な食事をとり、何度か休憩をはさむようにしながら、車はかなりの長時間公道を走っていた。真剣な顔で言葉もなく風景を見詰めていた神無は、突然の言葉に渡瀬の横顔に視線を向けた。
「――鬼頭の母親ですが、琴音様が体調を崩されたとき、あの方は別荘にい続けることを望みました。鬼は気紛れに学園に入学する場合がある。鬼頭はちょうどその頃一年生の教室にいて、琴音様の大事にお一人で付き添っていたそうです」
 言葉の矛盾に小首を傾げると、渡瀬がそれに気づいて補足するように言葉を続けた。
「母親の看病をしながら通学をされていたんです。あとで知って忠尚様は呆れていらした。……琴音様がほとんど寝たきりだったのだとわかったのは、亡くなってからずいぶんしてからです」
 人を頼ることを知らないと、忠尚が華鬼を表現した。後部座席に腰掛けて車窓を眺めるだけの神無にはよくわからないが、鬼ヶ里からずいぶん離れているのは確かだ。その距離の通学を、彼は誰にも言わずに毎日続けていたというのだろうか。
 胸の奥が痛む。
 見捨てる事も、妥協する事も、弱音を吐く事もできない。誰かに助けを求めることすら、彼にはできないのだ。
 生家での一件が鮮やかに思い起こされる。
 華鬼は、大量の出血と毒で朦朧としながらも誰にも頼らなかった。それが当然とでも言うように、己の力だけで生き残ろうとしていた。
 神無の沈黙をどう取ったのか、
「ただ、琴音様の死に顔を見て……あの方は鬼頭に看取られて、きっと幸せだったのだろうと……忠尚様は、そうおっしゃっていた」
 渡瀬はそう続けてハンドルを切る。車は公道をはずれて細い脇道に入り、冬をしらせる景色の中をさらに突き進んでいく。山の緑がくすんでまばらになっていったが、それは確実に濃さを増した。
 途中で舗装された道が途切れ、車はそこで停車した。車窓から外を見ていた神無は、渡瀬が開けてくれたドアから緊張しながら足をおろす。
 体温が急激に奪われていくようで思わず肩をすくめると、渡瀬が助手席から黒いロングコートを取り出した。
「伊織様からお借りしました」
 柔らかな手触りの生地が肩にかかる。空気をふんだんに含んでいるのか、コートは見た目よりも軽くて暖かかった。
「ありがとうございます」
 小さくお辞儀をするとマフラーを首に巻いてくれる。ほとんどされるままに突っ立っていると、寒気が去っていくように体が温まるのがわかった。
「この山道をまっすぐあがったところに別荘があります。ここから先は……鬼頭の、許可がいる。本来なら誰も立ち入ってはならない場所です」
 頷いて歩き出すと驚いたように呼び止められた。小首を傾げて振り返る神無に、渡瀬は動揺したように目を瞬いてから苦笑をもらす。
「ここでお待ちしております」
 深く頭をさげられて、神無も慌てて彼に向き直ってから頭をさげた。そして見送られるまま山道を歩く。
 小石が脇によけてあり、道は意外にも歩きやすかった。だが、慣れない山道は少し歩くだけで息があがる。木々に囲まれているため日が差しにくく、時折ひやりとした空気が頬を撫でた。
 途切れることのない山道をどれだけ進んだか、やがて木々の間に白塗りの建物が見えた。
 別荘と聞いてなんとなくゆったりと大きな建物を思い浮かべたが、そこは意外なほどこぢんまりとしていて、別荘というよりペンションという言葉のほうが似合う雰囲気だった。
 派手な装飾はなく、どこか優しい空気を感じ、それがあまりに華鬼のイメージとはかけ離れていて当惑する。
 神無は玄関にたどり着いて緊張しながら呼び鈴を押した。
 しばらく待ってもなんの返答もなく、代わりのように森から鳥の鳴き声が聞こえた。神無はもう一度呼び鈴を鳴らしたが、返答どころか物音一つしない。白く塗られた木戸をノックしてから少し考え、彼女はノブに手を伸ばした。
 案の定、鍵はかかっていなかった。ひどく緊張しながらも木戸を開けて玄関に入る。内装から土足で入るのだと判断して彼女は華鬼の名を呼びながらいくつかドアの設置してある短い廊下を歩いた。
 意外に掃除の手が行き届いている。失踪して二ヶ月間、ずっとここにいたのならもう少し汚れていてもいいだろうに生活臭がまるでない。誰か別の人と一緒に住んでいるのかと一瞬考えもしたが、華鬼の性格からはそれもなさそうだと判断した。
 もしかしたら、まったく見当はずれの場所に来てしまったのかもしれない。
 何度名を呼んでも返答が来ないことに焦りを覚える。ドアを開けて全室確認して回りたいが、さすがにそんなわけにもいかずに彼女は突き当たりにあるキッチンへと辿り着いた。
 本当に感心するくらい生活臭のないこの家で、そこだけがわずかに人の気配を感じさせる。
 神無はほっと息を吐き出した。
 いないわけではないらしい。しかし、予想以上にこまめな性格なのかもしれない。
 母親の介護をしていたという渡瀬の話を思い出していると、過去に水羽が口にした言葉が脳裏に浮かんだ。
 優しくて少し不器用なのだと彼は華鬼を表現した。
 あの時はその言葉の意味がわからなかったが、今はその意味がおぼろげながら理解できる。背後を振り返り、彼女は玄関を見た。
 言葉だけがすべてではない。
 それは正しくもあり、時として間違っている事もある。
 彼女はその視線を再びキッチンへと戻そうとし、その途中で動きをとめた。
 森を小さく切り拓いたその一角には手入れの行き届いた庭がある。庭の片隅には二本の木があり、その間には布が張られていた。
 布はまっすぐ張られているわけではなく、その中央には奇妙な隆起があり、すぐに何かが乗っているのだと知れた。
 それがハンモックであると気付いた神無は、隆起が動いたことに驚きながらも裏口に向かっていき、ドアを開けて庭の片隅へと移動する。
 緊張しながらハンモックの中を覗き込んで、神無は小さく声をあげる。
「華鬼」
 別れた頃より髪がずいぶん伸びているが、相変わらず難しそうな顔は健在らしい。
 風がなく日差しが暖かいためか、彼は薄着のまま眠っている。風邪をひかないだろうかと不安になって、神無はマフラーをはずして彼の首を包んだ。ここを暖めるだけでも体感温度がかなり違う。多少は風邪予防にもなるだろう。
 渡瀬が待ってくれているから早く戻ったほうがいいのだが、どうしても起こす気になれなくて、神無は近くにあった木製の椅子を引き寄せてちょこんと腰をおろした。
 難しそうな顔がいつの間にか穏やかな寝顔に変わっている。
 それを見て吐息をついた。
 彼が目覚めたら、まず何をどう説明すればいいだろう。
 二ヶ月の不在、学園の変化、忠尚の出した判断。
 そして。
 知らずに彼の唇を凝視して、神無は慌てて視線を逸らした。
 そして、彼女の胸の内側に広がり続ける波紋。

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