校庭からざわめきが聞こえてきた。
 水羽から桃子のカバンを受け取ってそれを机の上におき、そして自分の机に戻ってから、神無はようやくその声に反応して窓の外を見た。
 皆の視線が一ヶ所に集まっている。一瞬跳ねた鼓動に驚きながら、神無は人だかりの間からその原因となるものを確認した。
「うしさん」
 いまだに微妙な覚え方をしている彼女は、渡瀬を見るなりそうつぶやいて慌てて廊下に出た。
 忠尚の庇護翼である男は、過去に一度だけこの学園に訪れた。真剣な表情はどこか暗くも見え、なんとなく嫌な感じがして廊下を足早に移動する。
 突き刺さるような視線に気づかないふりをして、彼女は靴に履き替えると昇降口から出る。
 渡瀬はすでに生徒用の昇降口を通り過ぎ、来客用の玄関に向かっていた。
「うしさん」
 息を弾ませながら小走りで近づくと、声に反応して渡瀬が足を止めて振り返った。
「神無様」
 呼ばれた名に驚いて、今度は神無の足が止まる。様をつけて呼ばれるなど生まれて初めてだった。
 渡瀬は神無の元まで戻ると、驚いたように目を見開いてからゆっくりと伏せた。
「ご無沙汰しております」
 丁寧に頭を下げる男につられて神無も深々と頭を下げる。顔を上げると、何かを納得したように彼は再度、瞳を伏せた。
「どうかしたんですか?」
 問う声に渡瀬は溜め息をついた。周りの生徒を気にしながらも、神無のまっすぐな視線に根負けしたように重く口を開く。
「これはあなたにも関係するので……伝えなければいけないのですが」
 そこでいったん言葉を切って、また溜め息をつく。その様子から、これから彼が話す内容を彼自身は納得していないのだとわかった。
 彼は手にした黒い革のカバンに視線を落とした。
「忠尚様からの命令で鬼頭の退学届けを持参しました。これ以上、勝手なまねは許さないと――それから神無様、あなたに見合う鬼を探してくれるよう、校長に直談判してこいと」
「え……?」
「あなたは鬼頭には過ぎた花嫁だ。格ではあの方の上を行くものなどいないが、彼よりはあなたを幸せにできる鬼はいる。……忠尚様はあなたを気に入っているようです。このままでは不憫でならないとぼやいておられた。三翼の一人も候補に入るでしょう」
 言われた意味がよくわからず、神無は渡瀬の顔を凝視する。華鬼が退学する理由も、自分が他の誰かと婚姻するのも、なぜ必要なのかわからない。
「これは求愛とは別扱いとなります。我々は鬼頭の刻印を持つあなたを無意味な争いに巻き込みたくない」
 神無は胸元に咲く華を服の上からその手で包んだ。
 鼓動が速くなるのがわかる。神無は刻印を包んでいた手をきつく握っていた。
「私は……」
「お察しください。これはあなたのためを思っての決断です」
 たとえそうだったとしても、これではあまりに一方的すぎる。その善意は今の神無にとって嬉しいと思えるものではなかった。
 動揺を隠さず神無は渡瀬を見上げる。震える唇をきつく噛んで、大きく息を吸い込んでからようやく口を開いた。
「お義父とうさんに会わせてください」
 頼りない、けれど精一杯の言葉。拒絶されるだろうと思ったそれを耳にし、渡瀬は明らかに安堵の表情を浮かべた。
 伏せ気味だった顔を上げ、彼も神無をまっすぐ見つめる。
「お義父さんのところに……」
 戸惑いながら言葉をさがす途中で、神無はようやく自分が口にした言葉を反芻した。
 実父は彼女が生まれる前に他界していた。16歳になってようやくそう呼べる相手ができたのをこの混乱ですっかり忘れていた。だが確かに、神無にとって忠尚は義理ではあるが父親なのだ。第一印象はあまりよくなかったが、途中からは廊下で会えば機嫌よく話をしてくれたことを思い出す。 
 心配をしてくれているのだ。
 言葉にしてようやく実感し、照れくささのようなものを感じた。ふわりと頬をそめて口をつぐんだ神無の姿をどう思ったのか、渡瀬は周りを確認するように視線を移動させる。
「あの、家に……」
「いいんですか?」
 多くの視線を集めているこの状況を確認する口調に、神無は大きく頷いた。
 このままでは華鬼に会えなくなってしまうような気がしてならない。その事実に焦りのようなものを覚えて、気だけがいているのが自分でもわかる。
 くるりと踵を返すと、黒塗りの高級車が校門の外に停まっているのが見えた。渡瀬が乗ってきた車だと判断すると、すぐに歩き出す。その肩にそっと手が置かれた。
「そう急がなくても大丈夫ですよ」
 笑いをこらえるようにしかめられた眉がぴくぴく動いている。何もおかしな事などしていないはずなのに、渡瀬は顔を背けて肩を震わせた。
「失礼」
 小さく謝罪しながらも、揺れる肩はとまらない。真っ赤になった神無は、必死で笑いをこらえる男のあとを小さくなりながらついていった。
 後部座席のドアを開けられ、神無は素直にそこに治まった。
 車内はしっかりと暖房がきいている。そこで、初めて寒さのために肩に力が入っていたことに気付く。力を抜いてシートにもたれかかると、笑いを鎮めて渡瀬がゆっくりと車を発進させた。
 車を見送る生徒が視界に映った。
 神無は、また三翼や桃子に断りもなく勝手な行動をしてしまったことに気付き、青ざめてスモークガラスに張り付く。すると、行く先はわかっているんですよ、と渡瀬が話を切り出してきた。
「鬼頭が姿を消したのは二度目ですから。ただ、そこに立ち入る者に鬼頭は容赦しない。連れ戻すことはあきらめたほうがいいでしょう。忠尚様もそれを承知で、今回の措置に踏み切ったんです」
「退学届け」
「ええ。平気で何ヶ月もこもる方ですから」
 苦笑するようにそう返された。それから会話はぱたりとやんで、神無は表情一つ動かさずにハンドルを握る渡瀬の横顔をしばらく見詰めていた。
 過去に一度だけ見たことのある景色が車窓を流れていく。すべてを覚えているわけではないが、おぼろげな記憶をたどるように神無はそれを目で追った。
 延々と続いていた緑が唐突に途絶える。
 あ、っと、ごく小さく神無の唇から驚きの声が零れ落ちた。
「ああ、建て替えたんです」
 さらりと告げ、渡瀬は車を門扉の前に停車させる。渡瀬は、派手な装飾をほどこされた門扉が勝手に開くさまを唖然と見詰めていた神無に笑んで再び車を発車させる。
 まだ工事車両が何台か停まっているのが景観を損ねるが、古式ゆかしい日本家屋と日本庭園は、ものの見事に洋館と巨大な庭へと変貌をとげていた。
 屋敷の前で車を停めて渡瀬が後部座席のドアを開けると、神無は恐る恐る足を下ろした。下から舐めるように建物を見て、五階建てだ、と間の抜けたことを確認する。
「神無様、こちらに」
 誘導するように歩き出した渡瀬がドアに手を伸ばすと、それは彼が触れる前に内側から開いた。
「お客様――おや神無、久しぶりじゃないか。あ、息子が三ヶ月検診でね!」
「伊織様」
 このままでは伊織の自室に引っ張っていかれると判断したのか、手招きをする彼女を制し、渡瀬が溜め息をつく。
「今日は鬼頭の件でいらしたんです」
「ああ、じゃあ忠尚様の部屋かい。つれないねぇ」
 実につまらなそうに渡瀬を睨む。それから、開かれたドアから見える内装に唖然としている神無をもう一度手招いた。
「おいで、案内してあげる。屋敷全体の案内は、今度ゆっくり遊びに来たときにでもしてあげるよ」
 言われるままついていくと、よく磨きこまれた床が視界いっぱいに広がった。洒落たデザインのランプが長い廊下を照らしている。靴はどこで脱ぐのだろうと首をひねったが、どうやら履き替えなくてもいいらしい。伊織の足元を見て納得しながら、神無はどうにも落ち着かずにきょろきょろと視線を泳がせる。
 途中、何度も忠尚の花嫁たちとすれ違った。多少驚いた表情をしたものの、彼女たちは一様にお帰り、と言葉をかけてくれる。
 中には、神無が来たことによって起こった乱闘でめでたく洋館に建て直しの運びとなり、本気で喜んでいる花嫁もいた。
「我が儘聞いてもらってるから、みんな上機嫌だろ」
 くすりと伊織が笑った。
 しばらく歩き、伊織はひとつのドアの前に立つ。ノックをして、返ってきた低い声にドアを開けた。
「お客様だよ」
 ドアを開けながら伊織が伝えると、ソファーに寝そべるようにしながら書類を読んでいた忠尚から気のない返事がきた。
 絨毯が敷き詰められた部屋に入るよう促され神無は緊張しながら足を踏み入れる。
 ふっと、忠尚が顔をあげた。
「神無」
 ソファーの背もたれに手をかけて体を起こし、彼はそこでいったん動きをとめてからテーブルに書類を置いてソファーに座りなおした。
「渡瀬が連れてきたのか」
 非難するような声音に、神無は慌てて前に進んだ。
「無理を言って、連れてきてもらって……華鬼が」
「ああ、退学届けを出した」
「それは……」
「オレの判断だ。あのバカ息子は音信不通。すまなかったな、自分の花嫁をこんなに長期間放っておくほど……ここまでバカだとは思わなかった」
 頭をさげられてうろたえた。鬼にとっての花嫁の位置づけは知っているが、そこまでされるほど大ごとだとは思っていなかったのだ。
「いつ帰ってくるかと待っていたが……これ以上、鬼頭の花嫁に――お前の顔に泥を塗るわけにはいかん。早急に、ふさわしい相手を見つけてやる」
 本当に、心から案じてくれているのだとその表情からわかった。もともと神無は立場が弱い。鬼頭の花嫁でありながら庇護翼に守られることなく育ち、形ばかりの祝儀にはでき合いの婚礼衣装を身にまとい、印を刻んだ当人は遅れてきたという有り様だ。
 花嫁を第一に考える彼ら一族から言わせれば、見下されるには十分すぎるほど条件がそろっていた。
 その上で、華鬼の失踪――
「オレがもらってやりたいが、お前にはまだふさわしい鬼がいるはずだ。こっちでも何人か目星がついてる。あとは学園と外のほうに」
「お義父さん」
 遮るように呼びかけると、忠尚はきょとんと神無を見た。
「あ、ああ?」
 呼ばれた名に驚いたのだろう。まじまじと見られると、どうしても慣れない事もあって気恥ずかしさが先に立ってしまう。
 しかし、神無はじっと忠尚の顔を見詰めた。
「華鬼に、あ……あの」
「……会いたいか」
 口ごもった彼女の言葉をついで、忠尚は低く声を発する。何度も頷くと、彼は深く息をついた。
「わざわざ会う必要はない。ここで別れたほうがお前のためだ」
「でも」
「お前を傷つける事しかできないかもしれない。あれは人を頼ることを知らない。自分の中に、他人がいる場所を作る方法も知らない。……オレがそう育てたんだがな」
 最後は自嘲するように続いた。
 彼は視線を逸らそうとしない神無をしばらく見詰め、それからあきらめたように肩を落とした。
「意外と気が強いな、お前は」
「芯が強い、の間違いだろ」
 訂正され、今はじめて気付いたように忠尚は伊織を見た。苦笑に近い笑みを浮かべて彼は口を開いた。
「伊織、渡瀬に車を出すよう伝えろ」
「どこに?」
「……琴音の別荘に」

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