神無は唖然としてその部屋を見渡した。
 時刻は七時。刻々と傾いていく太陽が空を朱色に染めると同時に、緩やかな闇が広がっていく時刻。
 鬼ヶ里高校は山を切り崩して作られた巨大な高校で、周りの建物は総て学校関係のものばかりだった。そこから見る夜空は驚くほど澄んでいて、とても神無が母と暮らしてきたアパートから見ていたものと同じだとは思えなかった。
 しかし、ここの比ではない。
 華鬼の生家は周りに一切の建物がないのだ。
 夜か来れば、そこは自然が本来持ち合わせる姿そのままを人々の前に晒す。
 雄々しくも繊細な、洗練された世界。
 その光景を声もなく見詰めていた神無は、太陽が沈みきる前に伊織に強引に腕を引かれて長い廊下の果てにある大広間へと通された。
 そして現在、神無は鬼ヶ里に来てから何度目かの驚きに立ちすくむ事となる。
 大きく開けられた襖の向こうには、眩暈を起こしたくなるほどの膳が並べてある。上座には不機嫌この上ない表情で、殺気さえ発する華鬼が腰をすえて明後日の方向を見ていた。
 その隣は空席で、空席を挟んで華鬼の父である忠尚が表面上は威風堂々、胡坐をかいて座っていた。
 あまり思いだしたくない、けれど妙に見覚えのある光景だ。
 十六歳の誕生日の夜を思い出す。それは数日前の出来事であるにもかかわらず、神無にとってはひどく遠い過去のようでもあった。
 ただ唯一救われるのは、居並ぶ人々があの時とは違って、女性が大半を占めていることだ。向けられる視線は決して好意的ではないが、あの時のような下卑た好奇心を隠しもしないものばかりではない。
 中には明らかに同情するようなものも含まれていた。
「花嫁はだいたいそろってるね」
 伊織は一通り女たちを見て、感慨なく告げる。
「……だいたい」
「給仕に回ってるのと、あと少し足りない」
 神無の呟きに平然とそう返す伊織は、赤子をあやしながらゆったりと上座に向かって歩き始めた。しんに問いかけたかったのは、ここにいるのが総てたった一人の鬼のために集められたか否かである。
 神無はちらりと女たちに目をやった。
 まるで観察するような視線の一つとぶつかり、彼女は慌てて伊織のあとを追った。
「忠尚様、食事は家族でとることにこだわってるからさ、この部屋作っちまってねぇ」
 伊織はクスクス笑っている。
 どうやら本当に、女たちは彼の花嫁らしい。一人二人と数えていき、神無は30人を越えた時点で数えるのをやめた。年齢はまちまちだが、中には神無とそう変わらない歳の女も何人かいる。
 少し離れたところに鎮座している黒スーツ軍団の中には、神無を迎えに来たうしさん≠アと、渡瀬の姿があった。
 それは不思議な光景でもあった。
 庇護翼の数が半端でないなら、花嫁の数も尋常ではない。そして、ここに彼らが集まるということは、どんな形であれ忠尚に従っていることの表れだった。
 出会った直後に散々な言葉を吐き出した男は、神無を見るなり鼻で笑った。
 そして顎で隣の空席を指す。
「さっさと座れ。伊織、お前もだ」
 忠尚の言葉に足をとめた神無に、伊織は苦笑する。
 華鬼と忠尚の間にある空席――目立ちすぎるほど目立つ、嫌がらせのような場所だ。この中で華鬼が一番偉く、その花嫁が神無であるなら仕方のない事かもしれないが、彼女にとっては少しも嬉しくない席順だ。
 しかも、あからさまに華鬼が威嚇している。
「聞こえないか?」
 忠尚の問いに、
「ほら、特等席だよ」
 と、苦笑したまま伊織が神無の背を押した。特等席には違いないが、素直に喜ぶ気にはなれなかった。
 それでも、多くの視線が見守る中、彼女は緊張したままノロノロと中央の空席に移動した。
 室温が一度低くなった気がして、神無は華鬼を見た。彼は相変わらず天井を睨み据えたまま微動だにしない。
「……おい、七時に開始だって……」
 不意に聞こえてきたのは、不機嫌そうな忠尚の声である。
「ちゃぁんと伝えたよ。さき始めちまおう。すぐ来るさ」
 笑いを含むような声で伊織が応じている。そちらに視線をやると、息子をそっと畳の上に降ろし、ビールの栓を抜いている伊織の姿が見えた。
 どこからともなく現れた女たちは、忙しげにビールを運んではどこかに消えていく。その中には鮮やかな液体を満たした小さなボトルや徳利とっくりもあり、そのいくつかは神無の席にも回ってきた。
「鬼頭の――神無、あんた何飲むの?」
 伊織はグラスを持ってにっこり笑っている。
「美味い冷酒がある」
 神無に向けられた質問に忠尚は即答し、膳の上に伏せられていたガラス製のお猪口ちょこ》を強引に神無に持たせた。他の選択肢はないようである。
「カクテルもあるんだけどねぇ」
「冷酒だ」
 伊織が小首を傾げながら言うと、間髪を容れずに忠尚が返した。
「でも乾杯は、グラスだろ」
「冷酒」
 にべもなく言い放っているが、彼らは神無がまだ十六歳であるということを失念しているようだ。
 普通はジュースを勧めるべきであって、酒の種類を話題にすべき場合ではない。それに日本酒にはいい思い出がなく、あえて飲みたいとは思わなかった。
「あの、お茶を……」
 お猪口を握り締めたまま恐る恐る口を開くと、
「乾杯はアルコール」
 と、ほぼ同時に忠尚と伊織が言い切った。返す言葉もなく頷くと、その顔をまじまじと見詰めた忠尚は再び小さく鼻で笑った。
 その笑いはついさっきのものとは微妙にどこかが違う。
 意味もわからず黙っていると、忠尚は横柄に冷酒の入った徳利を差し出して顎をしゃくった。
 おずおずとお猪口を差し出すと、案の定、なみなみと冷酒がつがれる。
「歓迎してやる。そのバカは他に花嫁を選ぶ気がないようだからな」
 片頬を歪めるようにして忠尚が笑うと、一瞬で苛立ちを伴うような殺気が神無の半身を覆った。
 慣れる、という表現は適切ではないかもしれないが、神無自身は向けられる負の感情に別のものが混じっていると気付いてから、彼の殺意にただ怯えるばかりではなくなっていた。
 神無はゆっくりと華鬼を見る。
 その瞳はまだ完全に金色には染まっていない。苛立ってはいるがいつもほどの殺意が感じられないのは、彼の感情によるものらしい。
 しかし、他の者たちはそういかないようだった。
 宴会の支度をはじめてざわついていた広いその部屋が、一瞬にして水を打ったかのように静まり返っている。
 中には呼吸すら止めていそうな花嫁もいた。
「一丁前に威嚇だけはするのか?」
 息を呑む皆とは正反対に、忠尚はどこか面白そうに華鬼に顔を向けた。
 地位的には息子である華鬼よりはるか下――にもかかわらず、彼の言葉や行動はあまりにもふてぶてしい。
 なんとなく情が薄そうな彼らには、親子だからという甘えは存在しないような気がして神無は小首を傾げた。
 ではこの微妙な関係はどこから来るのか。
 神無は少し考えるように二人を交互に見て、結局結論を見つけられずにお猪口を膳の上に置き、華鬼の目の前にある朱塗りの膳の上からグラスを取ると、忠尚がしたようにそこになみなみとビールをついだ。
 それを静かに同じ場所に戻して、ふと視線に気付いて顔をあげる。
 そこにあったのは、ひどく驚いたような華鬼の顔。
 あまりにも露骨に驚かれたので、何かまずい事をしたのかと思い神無が慌てて辺りを見ると、それ以上に唖然とした顔がいくつも視界に飛び込んできた。
「面白い」
 くっと、忠尚が大きく肩を揺らして笑っている。
 さらにその奥にいた伊織も、何故かやはり笑っていた。彼女は笑いを堪えるようにしてビールで満たされたグラスを片手に立ち上がる。
「鬼頭の花嫁に」
 グラスを高く掲げた次の言葉に神無がぎょっとする。音頭をとるのにはあまりに不適切な言葉だ。
 事実、そこに居合わせた者たちは互いの顔を見合わせた。
 しかしそれはほんの一瞬のことで、苦笑ともつかない笑みを浮かべながら、彼らはそれぞれにグラスを掲げた。
 そして始まった宴会まがいの食事は非常に奇妙なものとなり、右隣に不機嫌極まりない鬼を置き、左隣に妙に機嫌のいい鬼を置いた少女は、食事が喉を通らないほど途方に暮れていた。
 もっとも、気が重いのはそればかりが理由ではなかったのだが。

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