神無は所在無げにあたりを見渡した。
 多少年季の入ったその建物は、外観からは想像もつかないほどの最新のセキュリティーを兼ね備えた強固な城でもある。
 カードキーを挿し込んで開いたドアに案内され、神無は唖然と立ちすくむ。
 職員宿舎の別棟も神無が暮らしてきたアパートに比べれば恐ろしく整った設備があり、一般家庭では有り得ない住居なのだが、ここはそれ以上だった。
 花嫁たちのために用意された施設。
 彼女たちのストレスを軽減させるために造られた建物には、普通の女子生徒も暮らしていた。
 皆に与えられた部屋がこれならば、あまりに贅沢すぎる。
 しかし、神無を部屋に案内した少女は平然とした顔を向けた。
「ここがあたしの部屋」
 桃子はそう言って広い玄関で靴を脱いですぐ目の前のドアを開けた。
「あ、そこがトイレで、隣がお風呂。反対側は押入れ。こっちがダイニングキッチン」
 シンプルなドアの向こうには、広い空間が待っていた。
 神無は返す言葉もない。確かに女子寮も男子寮も大きな建物だとは思ったが、その内訳がこの内装だというのは――納得できるのだが、あまりに過ぎた設備だと言わざるを得ない。
 軽く眩暈を起こしながら、神無は壁に貼り付くように設置してあるワイドテレビと可愛らしい応接セットを凝視した。
「食器洗い機やシステムキッチン、普段そんなに使わないけど意外と便利なんだ。欲しいものは申請して、許可が出れば買ってもらえる。今まで一人だったから食器なんかが足りないから、申請書書かなきゃ駄目だけど」
「でも、あの……」
「遠慮しないで。木籐先輩や三翼と同じ部屋なんて昨日の今日じゃ怖いでしょ? 本当はすぐこうしてあげればよかったんだけど、あたしも昨日は混乱してたから」
 桃子はそう言ってひとつのドアを開けた。
「ここ、もともとは二人部屋なんだ。神無、こっち使いなよ。ね?」
 優しくかけられた言葉に神無は思わず頷いた。昨日一晩、ほとんど一睡もしていない。おびえ続ける生活に慣れはしているが、そんな中でも安全と思える場所が過去の彼女には確かに存在していた。
 しかし、今の彼女には何もない。
 帰りたいと思う家には帰ることができず、体を休めるための場所が思い当たらないのだ。
 ここは女子寮だ。
 少なくとも、昨日のような恐怖は味わわなくてすむ。
 神無は青ざめた顔を上げて桃子を見た。初めて友達だと言ってくれた少女は、ニコニコと笑顔を絶やさずにまっすぐに彼女を見つめ返していた。
「ありがとう」
「よし、じゃあ手続きに行ってくる。あとで食堂に案内するからしばらく部屋で休んでて。あ、着替えとかもいるかぁ、勝手に持ってきてもいい?」
「え?」
職棟しょくとうの四階でしょ? 服がないと困るし」
 職棟、と言われそれが職員宿舎の別棟――華鬼と三翼たちの居住区を指す言葉だと判断した。
 好意は嬉しい。
 相変わらず自分の力では何一つできない彼女はただ口ごもった。
「遠慮しないでよ。悪いことしちゃったって思ってるの」
 少しだけ声のトーンを落とし、桃子は笑顔を苦笑に変えて言葉を続けた。
「木籐先輩のこと。ムッとして余計なこと言っちゃったって思ってるんだ。ちょっとは、ひがみもあったけどね」
「……」
「いっつも偉そうじゃん、あいつら。ムカついてたんだ。だから余計なこと言って本当ごめんね?」
 拝むように頭を下げられ、神無はさらに口ごもる。思ってもみない言葉にうろたえた。
 桃子の一言は、確かに波風立てずにはいられないものだった。
 それは、今まで誰もが意図的に避けてきた話題でもあるかのように、多くの者たちがあえて触れなかったもの。
 しかし、触れなかったからといって状況が変わるわけではない。
 神無は首を振った。
 鬼頭の花嫁というその事実が公になってしまったのは正直に気鬱で恐怖すら覚えるが、それはいずれ知られてしまうことであり、変えようのない現実だった。
「いろいろ、ありがとう」
 皆の視線から逃げるように桃子は神無を誘導し、結局学校が終わるまでのあいだ人気ひとけのない教室で時間をつぶし、そして今、行き場のない彼女のために部屋の手配をしてくれている。
「どーいたしまして」
 ぱっと桃子の表情が明るくなる。
 それに安堵すると、彼女はけたたましく鳴りだした携帯電話をポケットの上から押さえた。
「部屋のものは好きに使っていいよ。出るときはカードキー忘れずにね? じゃ、ちょっと行ってきます」
 携帯の液晶画面を確認し、桃子は慌しく部屋を出ていった。
 玄関の閉まる音に耳を傾けながら、取り残された神無はゆっくりと部屋を見渡す。
 今まで見てきたどんな場所よりも小さくてこじんまりした空間は、一応掃除をしてくれたらしく、使用していない割にはずいぶんと綺麗だった。
 これといって特徴のない部屋にベッドと学習机、エアコンやパソコンなどの電化製品がある。壁に設置してあったリモコンの床暖房の表示が目に入り、思わず視線をそらして窓の外を見ると、レースカーテンの向こうに傾きかけた太陽が見えた。
 小さく息を吐き出し、神無はその場にしゃがみこんだ。
 体がひどくだるい。
 シーツを替えたばかりとおぼしきベッドをぼんやりと見つめながら、彼女は膝を抱えて小さくなる。
 床の冷たさがジワリと体にしみ、ようやく安心したように双眸を閉じた。
 そして――同時刻、女子寮三階、非常階段踊り場。
「なに?」
 携帯電話を耳に当て、桃子は薄く笑む顔とは対照的に、突き放すような口調で言葉を発した。
 わずかな沈黙の後、まだ聞き慣れることのない男の声が低く問いかける。予想通りの質問に桃子はさらに醜悪な笑顔を深くした。
「いちいち報告する必要なんてないんでしょ?」
 男に言われた言葉をそのまま返すと彼は再び沈黙する。怒り狂っているのかと次の言葉を待つと、意外にもどこか楽しげな声音が聞こえてきた。
 桃子は唇を噛む。
 いつも高みから見物しているかのようなその態度が気に入らない。焦って取り乱すか、もっと激情を見せてもいいだろうに、いつも嫌味たらしく冷ややかな視線を向けてくる。
 馬鹿にされているのがわかる。
 協定を結び、同じ立場にいるにもかかわらず、まるで見下されているようでむしゃくしゃする。
 昨日、神無の立場を明らかにするつもりだと桃子は響に伝えた。けれどその後、神無を女子寮に「かくまう」考えがあることは一言も口にはしていない。
 響にとっては寝耳に水であるはずなのに、予想に反して彼はさほど動じていなかった。
「――響」
 格下の鬼の印を持っている花嫁から呼び捨てにされれば、さすがの彼でも語調が乱れるかと思ったが、機械を通した声はいつもどおり平然としたものだった。
「鬼頭の生家、どうだった? 女子寮よりも入りやすい?」
 嫌味を言うと、まあな、とそっけなく返答がくる。そして、何を考えている、と質問が続いた。
「別にあんたには関係ないでしょ。ちゃんと情報は流す。それで、あんたはあたしが頼んだことをやってくれればいい。文句、ある?」
 勝手にしろ、と告げて携帯電話が切れた。短く繰り返される機械音をしばらく聞きながら、桃子はいつまでもくすぶる怒りに歯噛みした。
 何故これほど惨めにならなければならないのか。
 いつからこんなに何もかもが嫌になってしまったのか。
 携帯電話を憎々しげに見おろし、桃子は階段をゆっくりと降りはじめる。
「あの子が来たからじゃない」
 鬼頭の名を継ぐ鬼に選ばれ、その刻印を持つという理由だけで守られる少女。劣等感すら受け入れ、決して泣き言など口にしないと誓っていた彼女の目の前に現れた、あの存在だけがどうしても許せなかった。
 どうしても、自分と比べてしまう。
「ねぇ神無、あたしいい人でしょ?」
 笑みを醜くゆがめて、軽やかに階段を駆け下りた。
「だから、甘えてね? 頼ってね?」
 クスクスと病的に笑うその声と、軽いテンポの音が階段を木霊する。暮れはじめた世界で、彼女だけが取り残されたように奇妙な笑みを繰り返す。
「そうしたら、突き落としてあげる。奈落の、底へ」

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