一限目の授業が終わると、教室内は堰を切ったようにざわめき始めた。
 視線が誰かに集中していることに気付き、神無は土気色の顔をあげる。体調がよくない上に睡眠不足が重なって、さらに精神的に疲れ果てている。
 家では神経が張りつめ一睡する事もできず、朝食を作っても、結局喉を通ることはなかった。貧血を起こしそうになりながらもなんとか登校し、人の気配に安堵の息を吐く。
 だが単純に、人がいるから安心できると言うわけでもない。
 神無は終始うつむいて、拳をきつく握ったまま微動だにせず椅子にかけていた。
 過剰なほど身をこわばらせるその姿に疑問を抱く者が室内には多くいた。しかし、いつもはその色香でさんざん目立ってきた彼女だが、今はその彼女以上に目立つ存在があった。
 のろのろと顔をあげると席から離れて近づいてくる少年の姿が視界をかすめる。
 神無はとっさにうつむいて唇を噛んだ。
 水羽は信用できる相手だと思う。信用したいと思う。
 けれどその体には人ではないものの血が流れている。何かの拍子に簡単に理性を崩壊させる因子が本能として組み込まれている。
 一瞬見ただけにもかかわらず彼は戸惑うような動きをとった。
 それがなんに対してなのか――問うて、果たして真摯な言葉が返ってくるのか。
 ひどく気分が悪かった。そしてそれ以上に心細い。
 いつも孤立していて、それが当たり前だと自身に言い聞かせてきていたにもかかわらず、泣きたくなるほど不安になった。
 神無は机の上を凝視する。
 ゆっくりと喧騒が遠のく直前、少女の手が机の上に置かれた。
「もう、聞いてるの?」
 指先から腕へ、腕から肩へと視線を移動させて神無はようやく呆れたような桃子の顔を確認した。
 視線の多くが桃子に集中している。いつもは桃子を毛嫌いしているような女子でさえ険しい表情で彼女を見ていた。
 遠巻きにしていた女子が足を踏み出し、まっすぐに桃子を睨みつける。
 桃子はそれをちらりと見てから神無に向き直った。
「顔色悪いよ? 大丈夫?」
「ちょっと! 質問に答えなさいよ!」
 金切り声に神無が身をすくめると、教室内は水を打ったかのように静まり返った。桃子は机から手を離し、彼女に向き直ってから小さく笑って小首を傾げて見せる。
「江島四季子サン、ゴメン、質問よく聞こえなかった」
 わざとらしいほど丁寧に名を呼ぶと、ぬれたような見事な黒髪を持った少女は悪鬼の形相へと変化する。
 彼女は鬼の花嫁であって鬼ではない。しかし、日本人形を思わせる可憐な容姿は片鱗もなかった。
 四季子の隣には背の高いボーイッシュな少女――関根ユナがいる。幾分戸惑ったような彼女は、それでも桃子をまっすぐに見詰めていた。
「何度も言わせないで」
 鋭い怒声。
 紅潮した顔を桃子に向けたまま悪鬼は口を開いた。
「なんであんたなんかが木籐先輩に声かけるのよ!?」
 なぜここで華鬼の名が出てくるのかわからず、神無は四季子の顔を無言で見詰めた。怒りで我を忘れた少女の肩を、友人である少女がなだめるように触れるのがわかる。
 登校時の一件を知らない神無は、視線が集中し続ける桃子を再び見上げた。
「……当たり前じゃない」
 相手の神経を逆撫でし、桃子は神無に視線を落とす。
「神無が木籐先輩と結婚したんだから、あれは友人として当然のあいさつよ。江島さんに許可をもらう必要なんてないでしょ?」
 静まりかえった部屋に重い空気が満ちる。
 神無は絶句する。華鬼との婚姻は、偉人たちを集めてお披露目をしたのだから、桃子に言われるまでもなくすでに知れ渡っているはずだった。
 だが、それにもかかわらず痛いほどの視線が神無に集中する。
 神無は桃子から顔をそらし、そして息をのむ。
 向けられたのはあからさまな怒りと妬み、さらに驚き――
「ね? 神無」
 問われても頷くことすらできなかった。驚く顔のいくつかがやがて嫉妬に醜く歪むさまを、神無はただ驚倒して見渡していた。
 知っているはずだ――鬼頭である華鬼が花嫁を迎えたことは、始業式の壇上で彼の口から告げられた。
 ならばなぜ、と考えた瞬間、神無は身震いしていた。
 華鬼は花嫁の名を正確に告げてはいない。しかし鬼たちはたとえ情報として知らなくても、刻まれた印のせいでそれが誰であるかをおぼろげにも知ることになる。
 では花嫁たちは、と、その疑問は瞬時に湧いた。誰が花嫁として迎えられたのか、果たしてすべての鬼の花嫁たちにまで知れ渡っていたか。
 そして、それに属さない者たちの間ではまったくと言っていいほど知らされていなかったとしたら、今この瞬間、不確かな情報が、明確な意志を以って言葉として伝えられたという事になる。
 女を魅了してやまない男が選んだ女が誰であるのかを――鬼頭≠フ花嫁が誰であるのかを。
「結婚って言っても……まぁ、籍入れただけみたいだし。でも、友達としてはあいさつぐらいするじゃない」
 よく響く声に、廊下の喧騒すら消えていくようだった。
「神無? どうしたの、真っ青だよ。保健室行こう」
 顔色を失う神無の腕を強引に掴み、桃子は勝ち誇ったような笑みを皆に向ける。盛大に倒れた椅子にちらりと目をやってから、彼女は顔をこわばらせる四季子に微笑んでみせた。
「木籐先輩にお近づきになりたいなら神無に尻尾でも振ってみたら? なんの役にも立たない、高いだけのそのプライドが捨てられるなら話ぐらいできるんじゃない?」
 楽しげに笑んで神無を連れて廊下に出た少女に対し、立ち尽くした彼女は気味が悪いほど白い顔をしていた。
 廊下に出ても、窓から一部始終を見ていた生徒たちが唖然としている姿が目に付いた。
 彼らは桃子に引きずられるように歩く神無を見て、何かを囁きあっていた。
「ああ、すっきりした」
 クスクスと桃子が満足げに笑う。
「これであの女もどっちが格上か自覚するんじゃない? あの顔、本当傑作」
 好奇心とは別の視線が増していく中、桃子は平然と廊下を渡る。敵意むき出しのその中を、どうして楽しげに歩くことができるのかわからない。神無は体をこわばらせたまま、なんとか桃子に歩調を合わせた。
 しばらく歩くと、桃子は思い出したように振り返った。
「ほら、鬼頭の花嫁なんだからうつむいてちゃダメでしょ」
 明るい声につられて顔をあげ、神無は向けられる視線のほとんどがその意志同様、友好的なものではないと知った。
 明らかな拒絶の意。
 憎悪と呼ぶにふさわしい視線が否応なく突き刺さる。
 消えたい、と初めて心からそう思った。

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