味噌汁の匂いで目が覚め、華鬼は体を起こした。
 一瞬、また神無がいるかもしれないと身構えたが、広いベッドには自分以外が眠った痕跡はなかった。
 大きく息を吐き出して、彼は首を傾げた。かろうじてソファーベッドがあることは確認していたが、どう見ても貧弱そうな彼女が上手くコツをつかんで背もたれを倒し、ベッド代わりにできるとは思えなかった。
 だいたい、布団もない。眠るにしても環境が整わない。
 そこまで考えて眉をひそめる。
「……なんでオレが心配してやる必要がある」
 わざわざ口に出すと、穏やかだった心に苛立ちが広がる。別に誰がどこで寝ようが関係ない。苛立ちの原因がそばにいないのは喜ばしいことなのか残念なのか、それすらもよくわからずに苛々する。
 いっそ早く片付けてしまったほうが面倒がなくていい。
 そう判断すると、苛立ちにいっそう拍車がかかる。ベッドから降りて乱暴にドアを開け、朝から殺気をみなぎらせてキッチンのドアを開けると、テーブルの上には一人分の朝食が用意されていた。
 急に殺意をそがれ、華鬼はあたりを見渡す。可愛らしくこざっぱりとまとめられたダイニングキッチンにフツフツと怒りを増長させるものの、怒りを吐き出すべき相手はそこにいない。
 ひとり、テーブルの前にたたずんで華鬼はジロリと朝食を見る。湯気が立っているご飯や味噌汁から推察するに、作った本人がこの部屋から出て行ってから間がないのだろう。入れ違いになったらしい。
 どっかりと椅子に腰掛け、華鬼は箸に手をのばした。もともと彼は小食なほうではなく、人並みに食べる。好き嫌いはこれといってないが、食に執着もないので食事の用意がされていなければ食べようともしない。
 幼少の頃から過激な目にあっていたので、多少の毒には抵抗がある。黙々と皿の上を片付けながら、不意に、なぜ自分が一人で食事をとっているのか不思議になった。
 鬼ヶ里高校の食堂で昼食をとるときには鬱陶しいほど人がいたし、彼の生家でも父親の花嫁や庇護翼が大勢いたためそれは同じだ。夜は名も知らない女と食事をする場合もあるが、食べないこともある。
 朝は――
 咀嚼しながら茶碗を見る。
 基本的にどんなに遅くなっても必ず家に帰ってくるのだが、家に他人を迎え入れることはなく、自分で自分のために作る気にもならなかったので自宅で食事をとること自体が珍しい。とくに朝は手軽なものを用意することすら面倒臭かった。
 そんな男が一人で朝食をとっているのだ。
 ぴたりと動きをとめてテーブルを見渡す。神無が先に食事をした形跡がないのが腑に落ちない。昨日は寝室まで運んできたのに、なぜ今日は朝食がこっちに用意してあるのか、その理由もわからない。
 柳眉を寄せつつ華鬼は再び箸を動かす。
 皿の上を片付け空腹が収まると、疑問符を浮かべながら食器をシンクに突っ込んで踵を返した。気は進まないがサボれば父親に命じられて厄介な鬼が彼のもとに訪れる。仕方なく制服に着替えるために歩き出した華鬼は、その途中で足を止めた。
 鼻腔をくすぐる香りがある。
 廊下を出て視線を彷徨わせ、あたりをつけて歩き出す。日常で必要最低限の部屋しか確認していなかった彼は、一度も開けたことのないドアの前で立ち止まった。
 ドアノブに手をのばし、触れた瞬間とっさに引っ込めた。
 反射的にとってしまった行動に動揺しながら再度手をのばしドアを開けると、視界が大きく揺らぐ。
 部屋に人影はない。だが、はっきりとわかる。
 ここに神無がいたのだ。気紛れに印を刻んでしまった、たった一人の花嫁が。
 胸の奥で膨れあがる得体のしれない感情を無理に押さえ込み、華鬼はその部屋のドアを閉める。思い出せば苛つくだけの相手なのに気がかりでならないのは何故だろう。
 一見しただけでそこにまともな家具がないとわかる。その部屋に神無が一晩中いたのだと考えただけで混乱した。
 なぜここにいないのかと己の腕を見て、彼はその思考にさらなる混乱を覚えた。
 急激になにかが変化している。
 それはそのまま神無の変化に他ならないのだが、現状を把握していない華鬼はすべてを消し去るようにかぶりを振った。
 生家で怪我を負い、完治したはずの手の傷痕が刺すように痛む。
 それを奇妙に思いながらも服を着替え、彼は部屋を出た。治り始めた肩の傷もうずき、苛立ちが少しずつ大きくなる。
「木籐くん」
 明るい女の声に華鬼は鋭い眼光を向けた。
 笑顔で駆け寄ろうとした幾人かの女がその場に立ち尽くす。華鬼はそれを一瞥して素通りした。
 かけられる言葉と向けられる視線のすべてが苛立ちの原因になる。まるで昨日の再現のようなその光景に嫌気すら覚えた。
 立場上、注目されるのは仕方がない。それらにあざけりを向けるか無視を決め込んで、彼は日々を送ってきたのだ。
 しかし、生家からここに戻ってきてからの苛立ちは以前の比ではない。一番の原因となるであろう少女の姿は見つけることができず、彼は登校中の生徒に殺気のにじむ視線を向ける。
 さすがにその不機嫌ぶりに気付いたらしく、いつもまとわりつく女たちが遠巻きに様子をうかがっていた。
 これで今日一日は静かに終わるだろう。そう思うのに、先刻からいっこうに視線が定まらない。
 以前なら探そうなどとは思わなかった苛立ちの原因を、彼は己の意志に反して探し続けている。
 殺すためなのかと疑問を抱くと、再び刺すように手の平が痛んだ。
「木籐先輩」
 どうしてできたのかもわからない手の傷に視線を落とした瞬間、緊迫した空気に割り込むような少女の声が聞こえた。
 華鬼が顔をあげる。
 さほどスタイルがいいとは言えない、美少女が多いはずの鬼の花嫁らしからぬ少女が笑顔で立っていた。
 記憶にない女だ。
 華鬼が思わず立ち止まるのとは反対に、彼女は彼に向かって歩き出した。
 媚びも羨望もない、挑むような眼差しが華鬼を捉える。多くの視線を受けながら、彼女は華鬼の目の前で立ち止まった。
 辺りがどよめく。それは華鬼のまとう拒絶の意を平然と流した彼女に対する驚きであり、まっすぐ彼女を凝視する華鬼に対するものでもある。
「一年の土佐塚桃子です」
 華鬼に接触をはかる女は多いが、そのほとんどを彼は気にとめない。名乗ることがいかに無駄な行為かなど周知の事実であるはずだった。
 しかし桃子は、敵意さえ感じた眼差しを瞬時に消して友好的な笑顔で名を告げ、ざわめきを無視して軽く会釈をする。
「以後、よろしくお願いします」
 華鬼の目には、上手く取り繕ったはずの彼女の笑顔が奇妙に歪んで見えた。

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