「響!」
 静まり返った校舎の一室でのんびりと月を仰いでいた響は、怒りをにじませた由紀斗の声にゆっくりと振り返った。ドアを開け、ズカズカと近づいてくるその顔は怒りのためか赤みを帯びていた。
「邪魔された!」
「あの女、なに考えてるんだよ!?」
 由紀斗に続き、律まで鼻息も荒く詰め寄ってくる。よほどいい場面で桃子の邪魔が入ったらしい。その性根の曲がり具合に思わず笑むと、庇護翼たちはさらに怒りをあらわにした。普段が従順な分、そんな姿はよけいに興が湧く。
 だが、響は意図して笑顔を消し去った。
「なんだよアイツ! 場所指定しておきながらなんで邪魔しに来るんだ!?」
「……もともと、お前たちがオレの命令を無視して鬼頭の花嫁さらってきたんだろ。初めから予定外だ」
「それは――」
 由紀斗は口ごもる。
 響は職員宿舎の四階を調べてこいと命令しただけで、なにも鬼頭の花嫁をさらってこいなどと言った覚えはない。改装後の四階の状態が知りたかっただけだ。
 もし鬼頭の花嫁をさらうなら、相応の時期に、鬼頭である華鬼にもっとも痛手となるよう計画する。
 こんな中途半端に進めたりなどしない。
 そんなわかりきった事にも気付かず、彼の庇護翼は花嫁の色香に惑わされて簡単に予定を狂わせたのだ。そのことに響は腹を立てていた。
 花嫁の色香は印を刻んだ鬼に比例する。花嫁の色香に惑わされるというのは、印を刻んだその鬼の力を認めたという事にもなる。そんな事実すらわからない己の庇護翼に弁解させる気など毛頭ない。
 響が由紀斗と律に冷ややかな視線を向けると、不満げな二つの顔からすっと血の気が引いていくのがわかった。
「これで鬼頭の花嫁を殺してたら、オレがお前たちの首をはねていたところだ。土佐塚桃子に感謝するんだな」
 低く告げる。
 たまたま桃子が居合わせたときに由紀斗が電話をかけてこなければ、そして彼女が部屋を指定して出て行かなければ、不甲斐ない庇護翼たちを遠慮なく殴っていたことだろう。
 不本意ながら神無を華鬼の元に送り返さなければならなかった――その手間を考えれば、桃子に任せたことは間違いではない。
「まだ早いんだよ」
 神無が華鬼のアキレスであることは生家で確定した。だが、決定的な何かが足りないことを感じ取り、響はその視線を職員宿舎へと投げる。
 月光の中を何食わぬ顔で女子寮へと向かう少女の姿があった。良心が痛んだ様子など微塵もない軽い足取りだ。
 彼女は女子寮に入る前に足を止め、ゆっくりと職員宿舎に顔を向けた。
 きっと満面に醜悪な笑みを浮かべているだろう。
 何を考えているかはわからないが、神無の窮地に駆けつけたその意図ならばおおよそ想像できた。
 おそらく桃子は神無の信用を得ることを望んでいる。
 初めから裏切るつもりで彼女は鬼頭の花嫁に手を差し伸べているのだ。
「悪趣味な女だな」
 黒瞳を細める。じっくりと信頼関係を築こうとはせず、早急に動くその姿に危惧を抱かないわけではないが、別段止める気にはならなかった。
 仮に桃子が失敗してもただ切り捨てればいい。手駒を失うのは惜しいが、響にとってはたいした痛手にはならなかった。
 しばらくは桃子を自由に泳がせておくのも悪くないと彼は判断する。
 暗くよどんだ心の奥に何を沈めているのか、それを暴いていくのも意外に面白いかもしれない。
 響は机の上に置かれていた携帯電話に手をのばした。
 基本的に桃子との連絡はすべてこれを通している。もう伝える事もないとポケットにしまおうとした直後、着信メールを知らせる小さな音が聞こえた。
 響は女子寮に視線をやってから携帯を開く。
 桃子からのメールはいつも簡潔で、電話でもよけいな言葉を一切挟まない。彼が望むまま、もっとも欲しい情報だけを確実に提供する。
 そして、このメールにもそれが言えた。
「由紀斗、律」
 携帯をたたみ、響は窓から離れる。
「しばらく鬼頭の花嫁には手を出すな」
 驚く庇護翼に冷笑を向ける。愉快な内容を知らせた小さな機器を彼はポケットにしまってから口を開いた。
「潰れるぞ、あの女」

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