桃子に送られ、神無は職員宿舎の別棟に辿り着く。部屋まで送るとの申し出を断り、神無は恐怖を思い出して震える足を叱咤しながらようやく四階にあるドアのひとつの前に立った。
 ほんの数時間前までは平気で触れることのできたドアに恐る恐る手をのばす。息を殺してドアを開け、そこに靴が一足脱ぎ捨ててあることに気付いてすくみあがった。
 とっさに背後を確認し、人の気配がないことに安堵してから再び黒い革靴に視線を戻す。
 鬼ヶ里高校は制服や体操着、カバン、靴、靴下などはすべて学校指定のものに限られている。玄関に脱ぎ捨てられているのは、学校指定の革靴――それは、気絶する前よりも幾分くたびれた感のあるものだった。
 華鬼のイメージとは合わない。だがその靴には見覚えがあり、今度は本当に彼が帰ってきたのだとわかった。
 緊張しながら玄関で靴を脱ぐと、料理の入ったタッパーが視界に入ってきた。落としたままにしては不自然な場所にあるのを見て、どうやら華鬼が拾ってくれたらしいと悟る。中を覗くと、多少崩れはしたものの予想通り蓋を開けた痕跡すらなかった。
 変に思わなかったのだろうか。
 ふと、考える。
 玄関に転がったタッパーの入った袋を見て、彼はその状況に疑問を抱かなかったのだろうか。なぜこんな物がここにあるのだろうと、そう――
 神無は無言のまま靴を脱いだ。
 疑問に思ったところで、それが神無に繋がるはずはない。ましてや、彼が助けに来てくれるなどあまりにも都合のいい願いだと、漠然と感じた。
 死んだところで心を痛める事もないだろう。鬼とはそういう生き物なのだ。学園で向けられ続けた視線が、漠然とした思いを確固たるものへと変化させていった。
 安全な場所がどこにあるのかすらわからない。タッパーの入った袋をキッチンの前におき、神無はバスルームへと歩を進める。
 なるべく音を立てないように気を配りながら引き裂かれた服を脱いだ。肩に鋭い痛みが走り、そこにくっきりと歯型がついていることを確認する。血がにじみ、内出血の痕がある。もう少し力が加わっていたら肉をえぐり、骨を砕かれていたに違いない。
 殺す気だったのだと改めて知った。
 殺し、喰らうか、喰らいながら殺すか。
 恐怖と嫌悪感に震え上がる。バスルームに飛び込み、コックをひねる。冷水に一瞬だけ息をのんだあと、ボディソープに手をのばした。
 気持ちが悪い。
 触れられた場所からただれて腐っていくような気がして、血のにじむ肩と舐められた首を重点的にこすった。痛みはひどくなる一方だが、不快感が勝って力を加減する事も忘れた。
 同じ場所を何度も往復するように洗う。すでに汚れを落とすという行為を通り越しているが、それを中断することすら思い浮かばなかった。病的なほど体を洗っていると白い肌が赤く内出血を始め、さらにこすると皮膚がすりむけ始める。
 そこまで来て、神無はようやく手を止めた。頭上から降りそそぐ水が温かくなっていることに気付き、刺すような痛みに自分の体を見た。
 まだ肩には歯形がくっきりと残っている。神無は再びその場所を洗い始めた。
 けれど深く刻まれた痕はなかなか消えない。しばらく同じ行動を繰り返し、その事実を確認するとシャワーを止めてのろのろと脱衣所に戻った。
 体を拭いてパジャマに着替え、タオルで髪を丁寧に拭いてからボロボロになった制服を手に取った。
 小さな音を生み出し、何かが床に落ちた。ビクリと体を硬直させてから神無は慌てて落ちたものを拾い上げた。
 それは、三翼ともえぎにもらったそれぞれの部屋の鍵。
 いつでもそこに行っていいのだと、そう伝えてくれる証。
 何より心強いはずの鍵に視線を落とし、けれど彼女はそれを握りしめるだけでどうしても使う気にはなれなかった。
 彼らもまた、鬼なのだ。
 どんなに表層を装っても、本質は消えることなく存在し続ける。
 かわることなどない。優しい顔で裏切る者を今まで嫌というほど見続けてきていた。
 神無は廊下に出て鍵のかかる部屋を探す。彼女のために用意された部屋だともえぎに教えられた場所はすぐに見つかり、彼女は内側から鍵をかけてその場にへたり込んだ。
 ずっと震えが止まらない体をきつく抱きしめる。家具すらまともにないその部屋には隠れる場所さえ見付からなかったが、ここ以外に逃げ込める場所が思い浮かばない。
 明かりさえつけず、彼女は膝を抱えて丸くなる。
 ドアに背をあずけて双眸を閉じた。
 死にたいとあれほど渇望したのに、死ねばすべてが終わって楽になれるとそう信じていたのに、一瞬の苦痛なら我慢できるはずなのに――
 我慢できると思っていたのに、今はそれを考えるだけで体が震えた。
 向けられる黄金の瞳は情欲と殺意の塊でしかない。理性を失えば、きっとそれが彼らの本能なのだ。
 まるで己の心を束縛するように、神無はきつく膝を抱いて小さくなる。
 安全な場所などどこにもない。
 ここにいる男も鬼で、そして過去に誰よりも神無をうとみ、その死を望んでいた。
 安全な場所などない。
 子どもの頃から刷り込まれてきた記憶が鮮明に彼女のなかに蘇る。心の一部が冷えていくようなその奇妙な感覚はひどく懐かしかった。
 己を守る術を、彼女は誰よりも心得ている。
 月の光がわずかにさす部屋には闇に溶けるように様々な色が混在していた。それらが前触れなくくすみ、色を失っていく。
 その光景を、彼女は無言のまま眺めていた。

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