ぬけるような青空が小さく石で囲まれている。
 あと数時間もすれば夜の帳がひっそりとおり、世界は静寂に包まれる。閉鎖された小さな空間は外部との接触が極端に少なく、深い森の中に建てられているにもかかわらず、どこか澱んだ空気を滲ませていた。
 以前となんら変わることのないその空間に苛立ちを覚える。
 屋敷の中にいる人間は少なからず変わっているはずなのに、それでも何一つ&マわってはいない。
 学園でも同じ事が言えた。
 たかが名一つで踊らされる哀れな男と女。その名にどれほどの価値があるというのか、本人すら量りかねているというのに。
 恐怖と羨望の眼差しが彼を取り巻く総てだった。
 生まれた時に与えられた鬼頭≠フ名は呪縛のように絡みつく。
 華鬼はふと閉ざしていた双眸を開く。
 何もかもがくだらないと、そう思うようになったのはいつの頃だったか。
 その名同様に、それを継いだ鬼には何の価値もないのだと気付いたのはいつからだったか。
「……くだらない」
 苛立ちがチリチリと脳の奥を焼くようだった。
 誰もがそれに価値を見出しているのなら、そう思わせておけばいい。心の奥で、冷ややかに囁く声が聞こえる。
 勝手に騒いで、勝手に自滅していけばいい。
 それをさも当然のことのように見下してやるのが、彼の選択し続けた道。
 物心ついた頃から彼は誰の心も誰の言葉も受け入れずにただ己のために生きてきた。
 それが歴代最高の鬼頭と呼ばれる鬼が選び続けた道。
 選択の余地もなく、ただ一つ残された己を守る術――
「何がくだらないのさ」
 ぬっと突き出した人影が、呆れたような口調でそう言った。
 華鬼がわずかに眉を寄せる。逆光で見にくいが、その声と口調には嫌というほど聞き覚えがある。
「なんだ?」
 苛立ちを隠さず問いかけると、あたりの空気が張り詰めるのがわかった。誰もが顔色を変えるその威圧感に、声の主も息をのんだ。
「別に。またここにいるのかと思って覗いたら、本当にいたからさ」
 少し早口でまくし立てる女の胸に抱かれていた白い布の塊がもぞもぞと動く。
「ああ、起きちまう。ちょっと、威嚇しないどくれよ。せっかく弟見せてやろうと思って連れてきたのに」
 女――伊織がそういうのを聞いて、華鬼はさらに不機嫌そうに彼女を睨みつけた。
 伊織は胸に抱いた我が子をあやしながらそっぽを向いた華鬼を見下ろす。
「あんたの花嫁、あんたを探してたけど? でもすぐに諦めて水琴窟に夢中に――あの子、面白い子ねぇ」
 クスクスと笑う女を睨みつけると、彼女はすぐに笑いを引っ込めて真面目な顔になった。
「ちゃんと傍にいて案内してやらないと可哀想じゃないか。あんたがここに連れてきたんだろ?」
「――誰が」
 ボソリと呟く華鬼を、伊織が不思議そうに見詰める。
「違うのかい?」
 確かに渡瀬が運転する車に同乗はしたが神無をわざわざ連れてきたわけではない。
 どちらかというなら、あのタヌキ親父にまんまと嵌められたというのが正直なところで、当の本人は華鬼の怒りを知って知らずか、廊下ですれ違い様に、
「他にいい女を紹介してやろうか」
 などとほざく有り様だ。
 花嫁を選んだことを誰にも言わなかった上にわざと婚礼に呼ばずにおいたが、それしきの事ではびくともしなかったらしい。
 屋敷の中を歩き回っていた先々で女たちに絡まれ、そして知った事実は、女子寮での騒ぎが耳に入って連れ戻されたらしいということ。
 しかし実際には女子寮はあまりにうるさくて泊まる事ができなかったのだが――そこまでは、父親の耳には入っていなかった。
 鬼頭ともあろうものが、まさか学校の保健室で夜を明かしたとは口が裂けても言えず、微妙な誤解のみが広がり続けている。
「……だから、威嚇しないどくれよ」
 苛立っている華鬼に伊織が渋い顔をする。
 伊織も子供ができるまでは散々華鬼を追い掛け回していた邪魔な女で、今でこそ落ち着いているが迫り方は過去最悪だった。
 それを思い出したら余計に腹が立ってきた。
「失せろ」
「わかったよ、もう。……一個だけ聞いてもいいかい?」
 じろりと睨みつけると、伊織は苦笑を漏らした。
「あの子……神無って子、どうして選んだの? 鬼の花嫁は抱かない主義だったのにやめたのかい」
「……」
「あんたの事をよく知ってるヤツはね、皆そう思ってるよ。忠尚様もね? まさか忠尚様が言ったから選んだってわけでもないんだろ」
「……失せろ」
「はいはい」
 ぐずり始めた息子をあやしながら、伊織は溜め息をついた。
「話し合わなきゃわかんない事もあるよ? ――大切にしてやんなよ。やっと迎え入れた花嫁なんだからさ」
 意図的に殺気を放つと、伊織は慌てたようにその場を去っていった。弟を見せに来たというのは口実だったのか、その足音はあっさりと遠のいていく。
 苛立ちが空気を染めていく。
 別に誰でもよかったのだ。
 そう、印を刻む女など誰だってかまわなかった。
 目の前に貧相な女がいて、その女が女児を宿していたから言葉をかけた。気丈に振る舞えばその場で殺してやろうと思ったのに、その女は見苦しくも必死で命乞いをした。
 殺す気も萎えるほどに。
「選んだ……?」
 違う。
 ただ印を刻んだだけだ。
 それ以外は何もしていない。嬉しそうに穏やかな笑みをたたえる女を見つけ、そして印を刻んだだけ。
 何も望みはしなかった。
 得られる答えは同じだと知っていたから、だから庇護翼をつけることすらしなかった。
 庇護翼がいなければ花嫁の命などないと高をくくっていた。
 神無の元に光晴をやったのは、死んでいることを確認したかったからだ。
 だが、少女は生きていた。凄惨であったはずのその過去をそのまま受け止め、そして鬼ヶ里に来た。
「……殺しておけばよかった」
 苛立つ。
 何度もその機会があったはずなのに、迷いが動きを鈍らせ、結局花嫁である神無はここにいる。
 そしてその事実に動揺する自分にも苛立つ。
「殺しておけば」
 搾り出すように呟いて、彼は再び双眸を閉じる。
 怯えるばかりだった少女は、いつしかまっすぐに視線を向けるようになった。
 その眼差しは他の誰とも違って、ただ苛立ちを募らせる。
 彼女を殺せば苛立ちが納まる。
 あの存在さえいなくなれば、17年前に戻る。
 何もない空虚なだけの世界に。
 己の存在意義だけを問い、そしてもがくことをやめて生きる事を選んだあの頃に。
 ただ、戻るだけ。
 胸の奥にくすぶり続ける不可解な感情に蓋をして、華鬼は総ての思考を停止させる。
 これ以上考えたところで結論など出ない。
 いや、もう結論は出ている。
 だから考えるだけ無駄だとそう判断した。
 その瞬間、全身が危険を察知したように緊張した。
 とっさに身を起こして鋭く辺りを見渡し、そして彼の金色の目は桜の木に身を預けるようにして立つ鬼をとらえる。
 鬼は冷笑を浮かべ、ゆっくりと右手を持ち上げた。
 わざとらしいほど大きなその動きは、二人の間にある距離を考慮したものだろう。
 彼はその手を首へ移動させ、真横に引いた。
 まるで死を暗示させるように。
「堀川響」
 華鬼が低く唸り声をあげる。
 事あるごとに絡んできたその鬼は、狡猾な上に用意周到な男だった。過去に何度か命を狙われたことがあるが、その事実は三翼すら知らない。
 響は肉食獣のように金の瞳を細め、獰猛な笑みのまま桜の木々の中に消えた。

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