疼痛に低くうめいた。口の中に血の味が広がる。
 身じろぎし、神無はようやく射るような視線が自分に向けられていることに気付いた。途切れた警笛が、再び狂ったように鳴り響いている。
「やっと起きた?」
 低くかすれた男の声に背筋が冷える。何かが頬から顎をそっと辿り、そむけた顔をなかば強引に正面へと固定する。
「凄いな、何があったんだ?」
 別の声がうめく。耳朶をくすぐるその声は暗くこごるような欲望に歪んでいる。身をすくめ、神無はようやくうっすらと目を開け――そして、息をのむ。
 見たことのある鬼がいた。
 月光に浮かびあがったその顔はひどく醜い物に見えた。恐怖で混乱した彼女は、鳴り狂う警笛の意味すらわからずに目を見開く。
 体を動かそうとして、両手が頭上で固定されていることに気付く。顔を動かすと、やはり見たことのある鬼がどこか楽しげな表情を醜く歪め、神無の手首を押さえつけていた。
 まともな明かりさえないが、そこが昏倒する前とは違うことはわかった。どこか無機質のように感じる壁や天井は、まだあまり慣れてはいない鬼ヶ里高校の一室だろう。なんの飾り気もない蛍光灯や、月明かりに浮かびあがった収納棚から、神無はそう判断する。
 そして、彼女はようやく己の状態に意識を向けた。
 体はいくつかあるソファーのひとつに固定されている。固定と言っても、ロープや器具を使っているわけではない。のしかかってくる体温が生地を通して伝わってくるその状況は、恐怖以上の絶望を呼んだ。
 どうして、と言葉もなく問う。
 華鬼が帰ってきたのだと思った。あそこは彼の家で、彼がいるのが当然だとばかり思い込んでいた。
「そうそう、怯えろよ。泣き叫んで、命乞いでもしてみる?」
 陰惨な笑顔を浮かべた鬼は、優しくささやいて黄金に染まった瞳を細める。
「誰にも届かないけどな」
 神無は彼らの名を知らない。ただ、響と呼ばれる男とともにいた彼の庇護翼であることだけは理解している。そして、自分を快く思っていないことも。
「放して……」
 痛いほど手首を掴まれ神無は小さくうめく。彼女の体を束縛する鬼が――生家に忍び込み、忠尚に抵抗する事すらできなかったはずの鬼が、唇を歪める。
「この状況わかってるのか?」
 馬鹿にするように由紀斗が笑った。両手で顔を包んでまっすぐ見下ろされると、その鮮やかすぎる黄金の瞳の意味を悟って身がすくむ。
 逃げなければならない。だが、体は完全に固定されて抵抗らしい抵抗ができない。声を出そうにも、まるで何かにしめつけられるように、うまく声を発することすらできなかった。
「暴れろよ。面白くない女だな」
 頬に添えられた手が残忍な微笑とともに動く。指先が顎をたどり、喉をゆっくりと降りてくる。その手の動きに合わせ、鬼の一族らしい整った顔が近付いてきた。
 神無はとっさに顔をそむける。遥か頭上からの忍び笑いが聞こえると、小さく舌打ちして由紀斗の顔が別の場所へと移動した。
「動脈は、あとから」
 耳元でそうささやかれた時、ざっと全身に鳥肌がたった。白く浮かびあがった喉を唇がかすめ、彼女の肩へ移る。本能的な恐怖がこみ上げた。
 鬼の動きを目で追って、神無は硬直する。
 大きく開かれた口には白い歯が並んでいる。どこか笑んでいるようなその唇は、そのまま薄い布越しに神無の肩に触れた。
 悲鳴がようやく神無の口から漏れたが、とっさに大きな手がそれを塞ぐ。
「顔は残しておけよ。誰だかわからないと意味がない」
 短く律が告げる。その凄惨な言葉に、肉を噛み切ろうとする鋭い痛みが重なった。

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