職員宿舎の別棟四階――当面の自宅≠ヨ帰り着いて、神無はほっと吐息をつく。
 校舎内、どこにいても視線が突き刺さってくるようで生きた心地がしなかった。視線自体は慣れているはずの神無だが、今日のそれは奇妙を通り越して奇怪きっかいでさえある。
 その理由をはかりかね、彼女は小首を傾げた。
 しかし、いっこうに思い当たる節がない。
 考え込みながら服を着替え、少し憂鬱な気分で居間のソファーに腰掛けた。
 急激な体の変化についていけず、訳もなく不安になる。何度か溜め息をついたあと気を取り直すように立ち上がって、ふと玄関を見た。
 そこには神無の靴が一足だけ置かれている。昨日はきちんと帰ってきたのだから、今日も華鬼はこの家に帰ってきてくれるに違いない。
 何か栄養のつくものを作って用意しておけば、少しくらいは食べてくれるかもしれない。
 今朝、寝室に運んだ食事は中身を平らげ、食器だけがシンクに突っ込んであった。少し意外な気もしたが、そういった事はするタイプのようだ。
 好き嫌いはよくわからないが、それはいずれはっきりしてくるだろう。
 飄々としているが、彼は一応怪我人なのだ。体に真新しい傷は増えていないようで、一番大きかった肩の傷にはすでに包帯すら巻かれていなかったけれど、完治するにはまだ早い。
 顔をあげる。
 部屋にはひとつずつ壁掛けの時計が設置されていた。腕時計をはめる習慣も、携帯電話を持つ習慣もない神無にとって、どこにいても時間が把握できるのはありがたい。
 献立を決めようと立ち上がると、電子音が響いた。
 あたりを見渡し、電話の内線が鳴っていることに気付いて慌てて受話器をあげた。
 そして、わずかに目を見開く。
 電話をかけてきたのは光晴だった。30分後に一階へおりてきて欲しいと頼まれ、戸惑いながらも了承する。
 受話器を置いてからもう一度持ち上げ、記憶には鮮明に残るのにひどく押しなれない番号に触れる。指をはなすと軽いコール音が繰り返された。
 時計は6時20分をさしている。家にはいないのだろうか、それとも眠っているのか――そう考えた直後に音が切れ、数日来の懐かしい声が聞こえた。
 その声がひどく沈んでいると感じた瞬間、神無は電話を切っていた。
「あ……」
 きっと変に思われたに違いない。
 いたずら電話だと不快にさせたかもしれない。けれど、再び同じ場所に電話をかける事はどうしてもできず、神無は無言で受話器を見詰めた。
 16年間聞き馴染んだ声は、機械を通して聞くとどこかが違う。それが悲しかった。
 神無は唇を噛んで視線をはずした。
 もう自由にしてあげようと誓ったのだ。だから、二度とあの声は聞いてはいけないし、聞きたいと願うべきではない。
 印の呪縛はきっと一生苛み続けるものだから、せめてたった一人の家族だけは幸せであって欲しいと思う。
 後ろ髪をひかれながら神無は冷蔵庫に向かう。ドアを開け、食材を確認していると小さな音がせかすよう鳴って、彼女は慌ててドアを閉めた。
 無意識のうちに溜め息をつく。
 気分がふさぎがちなのは体調の変化から来ているのだろう。心が揺らぐのも、おそらくはそれが原因に違いない。鈍く痛む腹部に手をやって神無は再び溜め息をつく。
 考えもまとまらずに部屋を眺めていると外はすでに薄暗かった。ようやくそれに気付き時計を見ると、光晴に言われた時間をとうにすぎていた。
 夕食の支度は何ひとつ整ってはいないが、神無はそのまま玄関を出た。一階へおり、なんとなくいつものクセで食堂へと足を向け、その途中で立ち止まる。
「お、ええタイミング」
 食堂のドアを開け、そこから顔だけ出して光晴が手招きをする。素直に従ってドアをくぐり、神無は目を見張った。
 もえぎの作る料理はいつも多種多様と言ってもいい。国籍もわからないような創作料理が食卓を埋め、それが日常と化している。そして今もそれにかわりはないのだが。
「ささ、どうぞ」
 もえぎが神無の手をとって着席させた。目の前に広がるのは、誰が食べるのだろうと本気で悩みたくなるような料理の数々。
「おめでとうございます」
 控えめにそう言って、もえぎはふわりと柔らかく笑んだ。
 茫然と山盛りの赤飯を見詰めていた神無の頬が桜色に染まる。どう返答していいのかもわからずに、ただ口ごもって小さく頷いた。
「いやぁ、もうホンマ、ムラムラしそうなくらい――」
 ごつり、と背後で鈍い音がした。
 神無が振り返ると、背後で麗二と水羽がヒラヒラ手をふり、後頭部を抱えるようにうずくまる光晴の姿がある。
「なにすんねん!」
「デリカシーのない男はシメるよ?」
「まったく困った人ですねぇ」
「冗談に決まっとるやろ――!?」
 後頭部を撫でさすりながら、光晴は疑わしげな視線を向けてくる麗二と水羽を睨みつけた。そして、思いなおしたように神無に向き直る。
「でな、その色香を取る方法っちゅうのが一個だけあってな?」
 きょとんとする神無の目の前で、光晴の後頭部から再び鈍い音がした。神無は思わず肩をすくめ、再びしゃがみこんだ光晴を見おろす。
「本当に締め上げるよ?」
「そんな生ぬるいことじゃダメですよ、水羽さん」
 にっこりと水羽が笑う横で、般若も微笑んでいる。意味のわからない神無だけが不思議そうな表情で三人を見詰め、状況を理解しているもえぎは小さく笑みをこぼしていた。
「とても楽しそうなところ申し訳ないんですが、食事が冷めてしまいますよ」
「あの……!」
 神無は慌ててもえぎを見た。
「私、こっちでは……あの、華鬼のご飯の支度……」
 皆で楽しく食卓を囲む、というのがどうにも似合わない華鬼は、きっと食事の支度がしてなかったら何も食べずに眠ってしまうに違いない。そう思うとなぜだか焦る。言い訳を探して腰を浮かせると、
「たくさんありますからタッパーに入れましょうか」
 もえぎのその一言で、素直に椅子に座りなおした。テーブルを埋め尽くす料理の数々に自然と目が吸い寄せされる。
 どれが口に合うか、どれが一番栄養がいいのかを考えながら見ていると、もえぎが半透明の容器をいくつか持ってきてくれた。
 神無はいそいそとタッパーの蓋をあけ料理をつめていく。いくつかつめて納得すると、もしかしたらもう華鬼が帰ってきているかもしれないという事実に気付く。時計はすでに7時を過ぎていた。
「これ……」
 タッパーに視線を落としているともえぎが苦笑した。
「そうですね、早いほうがいいかもしれません」
 祝いのためにわざわざ用意してくれたものに手をつけないまま立ち上がるのは気が引ける。
 だが、この料理を華鬼に届けたいと思ったのも素直な気持ちだった。そして、今手元にあるタッパーの中身を少し分けてもらうだけで食の細い彼女には十分なのだ。
 神無はタッパーを紙袋に入れて立ち上がった。
 そして、三翼の微妙な視線とぶつかる。立ち尽くす神無に、彼らは苦笑だけを返して道をあけてくれた。
 ものすごく申し訳ない気分になるのは、料理の苦手なあの三人も手伝ってくれたと予想できるからかもしれない。
 深く頭を下げると近づいてきた三人が神無の手に次々と鍵を落としていった。
「誰を選んでも、花嫁が幸せになるんが一等嬉しい。せやから、こーゆんはフェアにな?」
「いつでもおいで。言っとくけど、ボクは誰にでも渡すって訳じゃないからね」
「……耳が痛いですねぇ。私は、これが最後ですから」
 それぞれにかけられた言葉とともに、手に残るのは三つの鍵。それがどこの鍵なのかは問うまでもなく、返答できずにうろたえた。
「あら、それじゃあ私も」
 コロコロ笑いながらもえぎが近づいてきて、神無の手の上にさらに鍵を二つ追加する。
「リボンのついているほうが、四階の神無さん用に用意したお部屋の鍵で、若葉のキーホルダーがついているのが麗二様の――三階の、私の部屋の鍵です」
 三翼がギョッとしてもえぎを見る。
「鬼は紳士的だからいらないかと思いましたが、どうも必要そうだったので。ああ、私室にはベッドもありますから安心してくださいね? 神無さんのお部屋にも必要かしら」
「ちょ……も、もえぎさん!」
「なにか?」
 焦る麗二に、もえぎが涼やかな視線を向ける。口元は確かに微笑んでいるようだが、目が明らかに笑っていない。
 それに気付いて麗二が二の句を告げずにいると、その隣で光晴と水羽が肩を落とした。
「羊をみすみす狼の中には置けないでしょう」
 選択権を神無に与えながら、もえぎがさらりと断言する。
「狩人やな」
「手ごわいなぁ。麗二、完全に負けてるよね」
「そらまぁ自分の花嫁やし。勝ち目ナシ」
 項垂れる麗二を眺めてぼそぼそと話し合う二人の声が神無の耳に届く。たおやかな女性はどうもそれだけではないらしく、主導権すら握っているようだ。
 神無は鍵を見る。
 もえぎがくれた鍵以外の三つにも目印代わりにキーホルダーがつけてある。それは小さな水滴の形をしていたり、ディフォルメした太陽であったり、洒落た三日月だったりした。それぞれの意味を考え、表情が緩む。
 たくさんの心遣いがにじんでいる。それが素直に嬉しかった。
 そして、そこにとどまりたいと思わなかったわけではないが、神無は礼を言って食堂から出た。手にした五つの鍵を確認するようにしっかりと握ってからポケットへと滑り込ませる。
 四階に向かう足取りが軽いのは食堂で優しい空気に触れたからかもしれない。もえぎたちが作ってくれた料理もとてもおいしそうだった。皿に盛るのが楽しみだ。
 そうやってつらつら考えているうちに、四階の廊下に面した少し立派なドアに辿り着く。
 これが華鬼の家≠ヨ繋がる玄関なのだ。そういえば半壊する前は鍵を使った記憶がない。そして今も、ここから先が個人のスペースであるにもかかわらず、鍵がかかってはいなかった。
 三翼たちが鍵を手渡してくれたという事は、普通は施錠をするものなのだろう。
 しかし、華鬼にはその習慣がないようだ。
 意外に無用心なのかと首をひねる途中で、鬼にはそもそも鍵がなんの役にもたたないことを思い出す。腕力が人とは違うのだ。
 鍵は用心というより、自己主張のために使うのかもしれない。
 ここから先は触れて欲しくない場所である事を示すものなら、鍵は確かに有効な手段だ。
 そして、そのプライベートな部分に踏み込んでもいいと教えるものが、ポケットの中にある。
 神無は服の上から鍵を確認した。
 確認しながらやはり疑問を抱く。
 華鬼はどの部屋にも鍵をかけてはいない。リフォームされる前も玄関や寝室には鍵がかかっておらず、生家でもそれは同様だった。他者を寄せ付けようとしない男なら、鍵をかけていても不思議ではない。
 神無を締め出す事くらい、していても当然なのに。
 ドアの前にたたずんでしきりと首をひねる。華鬼の行動にはいろいろと矛盾が多いが、きっとそれにも何らかの理由があるに違いない。
 だが、答えらしい答えも出ず、彼女はノブをひねって玄関先に脱がれていた靴を確認した。
 家人は帰ってきたらしい。
 安堵の息を吐いて台所に向かおうとした。しかし、気はくのに足は床に貼り付いたように動かない。
 警笛が鳴っている。
 ここが危険であると報せる、今まで彼女の命を繋ぐために繰り返された警笛が心の中で鳴り狂っている。
 異常に気付いた時、ふっと眼前がかげった。

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