華鬼はふと顔を上げる。
 胸の奥からなにか得体の知れないものが湧きあがり、それはすぐさま苛立ちに変わった。怒りに似たその感情はひどく息苦しく不快で、彼は無言のまま柳眉を寄せる。
「木籐くん?」
 鼻にかかる甘ったるい声とともに、よく日に焼けた腕が伸びてきた。無遠慮なその指先は、華鬼の首にまわり彼を引き寄せた。
 苛立ちが増す。
 少女と言うよりは女≠感じさせる体が、カーテンの隙間からこぼれる光にあたってわななくのが見えた。
 張りのある豊かな胸が震えている。
 彼のもとを訪れる女は、決まって同じ事を求める。心がともなわないと知りながらも肌を重ね、いっときの快楽におぼれる。
 そして華鬼は、そんな彼女たちが鬼の花嫁でさえなければ拒むことなく抱く。情熱的とは言いがたい、ひどく冷めた目をして一連の作業を終わらせる。
 実際、彼の息が乱れることも、服装が乱れることもひどく珍しい。今までにないと言っても過言ではないほど彼はいつも冷淡だった。
 しかし、情熱の欠片も見せない男であるにもかかわらず、彼から女の影が途絶えたことはない。
 相手を束縛しないかわりに、自分も束縛されない――彼はある種のブランドであり、触れることはできても手に入れることは叶わない、そんな男だと認識されていた。
「どうしたの?」
 甘やかな吐息が問い掛ける。苛立ちに臓腑が焼ける気さえしたが、華鬼はさらけ出された隆起へと手を伸ばした。
 張りのある、やわらかな胸。手に広がる感触は不思議と心地いい。
 そう思えるのに苛立ちは刻々と増し、それが狂暴なものへと変化していくのがわかった。引き千切ってやろうかと考えた瞬間、ようやく張り詰めた空気に気付き、女が体を動かした。
 この体を引き裂けば、形容しがたい心が軽くなるのかと残虐に思い、彼は口元を歪めて薄く笑った。皮張りのソファーの上で華鬼に両腕をまとわり付かせていた女は、驚愕するように大きく目を見開いてまっすぐ彼を見上げた。
 視線をはずすことすら思いつかないのだろう。こわばる顔が目障りだった。
 乳房から離した手を華鬼は女の頭部へと移動させた。
 力をこめれば簡単に砕ける。造作ない。戸惑いも迷いも浮かばなかった。
 すでに殺すという概念もない――そう、殺すのではなく、壊すのだ。悩む必要すらなかった。
「木籐くん、目が……」
 女の声に華鬼の表情が動く。殺伐とした感情がふいに去って、かわりに動揺が生じた。女の頭部を鷲づかみにしていた手を離し、それで顔を覆う。
 いつもは漆黒である双眸は怒り以外で変化したことはない。今も確かに苛立ちを感じていた――しかし、たかが人間の女相手に、黒瞳が黄金に転じたことなど一度もなかったはずだ。
 動揺が増す。
 華鬼の殺意が揺らいだのを見計らうように、組み敷かれた女が這いずって彼の下から抜け出し、床に散らばった服を手早く身につけた。
 華鬼は衣擦れの音に柳眉を寄せたまま、動くことすらなく彼女が生徒会室から出ていくのを待った。
 ドアが閉じた瞬間、腕で大気をぐ。ソファーの背もたれが轟音をたてて歪んだとほぼ同時、廊下ですくんだように立ち止まった影が弾かれたように走り出した。
 朝は、こうではなかった。
 低くうなりながら思い出したのは、穏やかな早朝の風景。それ自体は、不快ではなかったはずだ。
 登校していつものように遠巻きに騒がれ、そこから何かが狂っていった。暇つぶしに通っている華鬼が休み時間に女から誘われることは別段珍しくない。同様に、彼が不機嫌なことも日常なので、それを気にとめる者もいない。苛立ちをそのまま女に向ける事などごく当たり前で、乱暴に扱った女など掃いて捨てるほどいた。
 彼はもともと、そうやって歪んだ形で学園生活をおくっていた。
 彼にとって、女は手ごろな欲望のはけ口であり、それ以上の価値などなきに等しかった。
 殺意を向けることさえなかった相手だ。だが今は、抱くどころか殺しかねないほどよどんだ感情がとぐろを巻いている。
 急激な変化についていけず、華鬼は低くうなる。
 苛立ちの理由が思い当たらない。日常をたどるだけの毎日に、これほどの怒りが混じった事はない。
 日常、と心の中で繰り返して華鬼は瞳を細めた。
 一点だけ彼の日常を狂わせたモノがある。
 いつもと違う風景。
 柔らかな光の中で迎えた穏やかな朝は、今までに味わった事のないものだった。彼を取り巻く環境の中で、それだけが異質な空気をまとっていた。
 華鬼はきつく柳眉を寄せたままうなる。
 おおよそ彼には似つかわしくないその時間がどうやら苛立ちの原因らしい。彼なりの平穏を乱したものが、それ以外には考えられなかった。
「あの、女か」
 腕の中で無防備に眠っていた少女。生家で和らいだはずの怒りにも似た感情がふつふつと湧いてきた。
 それは、初めて神無を見たとき以来――それ以上の怒気。
 動揺とはまったく異なるもの。
「目障りな」
 つぶやいた瞬間、怒りが沸点を超えた。薙ぎ払う腕がテーブルをかすめ、ほんのわずかに触れただけのテーブルは壁にめり込んでいた。
 苦いものが口の中に広がる。
 殺し損ねた彼の印を持つただひとりの花嫁。
「――神無」

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