授業終了を報せるチャイムが鳴ってしばらくの間、神無は机の上の物を片付けたままの姿で考え込んでいた。
 他人というものを警戒していた彼女は、誰かと二人きりになるという状態がひどく苦手でもある。だが同時に、住み慣れたアパートは決していい環境ではなく、そこで暮らしていた彼女は安全さえ確保できればどこででも寝られるという、矛盾した一面を持つ。
 そんな自分をよく理解している彼女は、どこか難しい表情をして思考をめぐらせた。
 リフォームされた寝室で、神無はあの華鬼の腕の中で深い眠りについていた。それはつまり、あの場所は安全だと彼女自身が結論を出したからでもある。
 よくよく考えると納得はいかないのだが、眠れたというのはそういう事なのだろう。
 神無は小首を傾げる。
 眠っている相手を警戒するというのもおかしな話だ。――そう、おかしな話なのだ。
「寝てるときは、平気……」
 起きている時はよくわからない。危険なときもあれば、必ずしもそうと言えないときがある。
 だが、眠っている時なら大丈夫かもしれない。華鬼の生家でも彼は深い眠りにつき、これといって危険な様子はなかった。
 それなら、彼が眠った後にベッドのすみに忍び込んで、彼が起きる前に抜け出せば安全≠ネのではないか。幸い眠りは深いようだし、あれだけ広いベッドなら小柄な彼女が眠るスペースは十分にある。
 布団を探し損ねた神無は、本来、華鬼の眠りが浅いという事実も知らずに悶々と考え込んでいる。
 ベッドの中はとても心地がよかった。すっかり華鬼に抱き枕にされてしまって窮屈ではあったが、それでも、あの空間は彼に守られているかのようにひどく落ち着く。
 トクンと小さく鼓動が響き、神無は目を見開いた。
 今朝方から何かおかしい。体調が悪いのだろうかと、彼女は真剣に悩んでいる。
 心音もそうなのだが、妙に腹部が重い気がする。ここ数日、あまりに多くのことが起こり過ぎたからかもしれない。普段ならゆっくりできる休日も、華鬼の生家でバタバタして見事に潰れてしまったのだ。疲れが溜まっていてもおかしくないだろう。
 そう思おうとして、ピクリと顔をあげた。
「神無?」
 桃子が席を立ち、呼びかけながら近づいてくる。その姿を見上げ、神無は何かを言おうとして口を開け、しかし、とっさに言葉にはできずに立ち上がった。
「どうしたの?」
「ちょ、ちょっと……ッ」
 かろうじてそう濁し、神無は教室をあとにした。ざわめく室内を無視して廊下を小走りに移動して、トイレに飛び込んですぐに飛び出し、混乱しながら階段をおりる。
 どこをどう走ったのかもわからずに、あがる息のまま保健室のドアを開けようと立ち止まると、ドアが目の前でスライドした。
「神無さん、どう……」
 息を切らせて麗二の顔を見上げ、問いかける彼に神無はパクパクと口を開く。何も考えずに駆けてきたはいいが、状況を説明するのが恥ずかしくなった。この場合は桃子に相談すべきだったのではないかと思い当たり、神無は真っ赤になって言葉を呑み込む。
 すると麗二は、ああと小さく声を発し、踵を返して近くにある棚の引き出しから小さなポーチをひとつ取り出して神無の前に戻ってきた。
 それを握らせるなり、廊下の奥を指差す。
「女子トイレはその奥です」
 麗二の一言にさらに赤くなり、神無は小さくひとつお辞儀をしてから小走りで廊下を折れて姿を消した。
 少女が消えた廊下を眺め、麗二はうなり声をあげる。
「さて、とてもおめでたい事なのですが」
 くるりと振り向いたその先には、椅子から滑り落ちた一樹と拓海の姿があった。彼の庇護翼である少年たちは、ドアを指差し真っ青になっている。
「麗二、今の……!!」
「ああはい、神無さんですよ」
 にこやかに返答すると、二人はさらに青ざめた。
「だって、今までと全然違う……ッ」
「ですねぇ。覚悟はしてたんですが……守れそうです?」
 一樹と拓海は激しく首を左右に振った。椅子に座りなおす事も忘れた二人に、麗二は苦笑を浮かべて溜め息をつく。
 彼にとっては予想内の反応だった。ただ、予想を超えていたのは華鬼の印。
 歴代最高の鬼頭と言われた鬼の持つ生来の力――それに追随する、呪縛。
 己を守り続け、大人になることを拒否し続けた神無に何があったのか麗二にはわからないが、ここに来てようやく、彼女は女性としての成長を始めた。
 それはとても喜ばしいことであるのだが。
「困りましたねぇ」
 頬に手をあてて、内心では本気で焦っている麗二が、どこかおっとりと呟く。
 ちらりと庇護翼を見やり、
「やっぱり無理そうです?」
 再度問いかけた。
「無理です! こっちが傷つけないようにするのが精一杯! ち、近づいたら守る自信ありませんッ」
「ぼ、ボクも無理」
 花嫁を守る立場にある庇護翼自身が花嫁に害を成すわけにはいかない。正しい判断を素直に口にした二人に、麗二は困ったように頷いた。
 守りは多いほうがいい。だが、守るほうには堅固なものがなくてはならない。
 守るべき花嫁の色香に惑わされる庇護翼では役には立たないのだ。それどころか、より危険な目にあわせる可能性がある。
 開いたのは、目を疑うほど大輪の華。
 それは紛れもなく妖花と呼ばれる種類のものだ。
 人も鬼もへだたりなく狂わせるだけの力を持つ刻印は、チリチリと麗二の胸の内も焼いている。しかし彼はそれを理性で捻じ伏せて、飄々と携帯電話を取り出した。
 守るべき女性――たとえどんな状況であろうとも、その事実には変わりない。
 携帯電話に指を走らせ、麗二は軽く耳に当てた。
 しばらくして聞こえてきた少し棘のある声に彼は微苦笑する。
「もえぎさん、ひとつお願いがあるんですが」
 控えめに告げると、突然の頼みに驚いたようにもえぎが不思議そうな声で問いかけてきた。その変化に安堵して、言葉を続ける。
「神無さんのために、お赤飯、炊いていただいてもいいですか?」
 一呼吸あけて、わずかな言葉ですべてを察してくれたらしいもえぎが声を弾ませた。楽観的に喜ぶ彼女の反応が今は素直に嬉しく、麗二も穏やかに微笑を浮かべる。
 ようやく咲いた花は、妖花。
 それを守るのは三翼だけになるだろう。
 そして、彼女を害するのは――

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