ぎしり、と
朧月夜という言葉があるが、その晩の月はいつになく鮮明で怖いほど美しかった。底冷えのする闇の中、少年は冴え冴えとする意識にただ不安になって、あたたかい布団から滑り出した。
大きく肩をひとつ震わせて彼は障子をそっと開ける。
途端に、気味が悪いほど青白い月が覆いかぶさってきた。
少年は瞬時に天空を見上げて息をのんだ。まだ太陽が昇るには早い時刻――月の恩恵を受け、世界が青白く染まる。
視界がいつも以上に白いことに気付き、少年は視線を地上へと戻す。
そしてまた、息をのんだ。
庭にある大木に薄紅色の花が咲いていた。その木はすでに立ち枯れていると父から聞いたばかりの少年は、慌てて厳格な彼の元へ走った。
不意に嵐のような風が庭に吹き込む。
少年は立ち止まって目を閉じ、次の瞬間、うっすらと開けた視界に桜の花びらを見た。
昨日は蕾すらなかった桜は、すでに散りゆこうとしている。風に舞う小さな花びらに手をのばし、ただ無上に切なくなって廊下をわたった。
そして、父を呼ぼうと障子の前に立ち、聞き慣れぬ音を耳にする。
ぎしり、と何かが鳴いている。
障子に妙な形の影が落ち、それがゆっくりと揺れていた。
彼はその影を見詰め、ようやく父の名を口にした。返答の変わりに、再び室内で何かが鳴く。
小刻みに震えた体は、寒さのためか、動揺のためか。
少年は障子を開けた。
ぎしり、と梁が鳴く。
宙に浮かび左右に揺れる父の体を見上げ、少年は声をあげる事も、目をそむける事もできずに立ち尽くした。
ひらりと、鬼たちが最も愛する小さな花弁が部屋に舞い込んだ。
――桜を愛したその鬼は、花が散る前に己の首を
「――……ッ」
ベッドから飛び起き、響は大きくあえいだ。
嫌な汗が背筋を伝う。上手く呼吸すらできない状態に苛立って、彼は拳をきつく握る。
気付けば服が汗で湿り気を帯びていた。額に張り付く髪を鬱陶しそうに払い、肩で荒く息をついて柳眉を寄せた。
父親が死んだ晩の夢は、忘れた頃に繰り返された。
厳格だった父親は、ただ弱いだけの負け犬に成り下がって生きることを放棄した。
くだらない男だと、矮小な鬼だったと嘲笑をおくり続ける響は、不意打ちのようなその夢に――その夢が見せる過去に、ひどく苛立ちを感じた。
「くそ……」
背を丸め、シーツに顔を伏せるようにしてうめいた。
当時、鬼頭を名乗っていた彼の父の死を
父はその程度の男だった。
持っていた名に価値はあったが、父の命には一言分の重みしかなかった。
同情なんてしない。
己の名にすがることしかできなかった弱いだけの男に生きる価値などない。
そう心の中で繰り返し、響はきつく双眸を閉じる。眼裏には、梁に括られたロープをささえに、嫌な音をたてて揺れる父の姿があった。
なぜ、鬼頭などというものが存在するのか。
苛立ちながら、響は幾度となく問うた疑問を胸のうちで繰り返す。
それが鬼たちの頂点に立つ者にのみ与えられる名だからどうだというのだろう。
それがあるばかりに確執が生まれ、いさかいが生まれ、命を捨てる者が現れる。
たかが名一つのために。
「ムカつく」
低くうなり、顔をあげた。
一度鬼頭の名を受けた鬼は、より強い鬼が現れない限り自ら名を返上することはない。華鬼はその命の続く限り鬼頭を名乗り続けるだろう。
ならば、その名ごと片付けてしまえばいいだけの話しだ。
死後に名が返上されるのなら、そのシステムごと叩き潰してしまえばいい。
「……すっきり片付くな」
クスリと笑った。奪い取った名は、常世で眠る父にくれてやる。
それでようやく落ち着くというものだ。
ひとつ息を吸い、響はかすかな振動を繰り返すテーブルに視線を移動させた。携帯電話が耳障りな音を発していた。
手をのばし、乱暴に掴み取って耳に当てると、懐かしいと感じる女の声が彼の名を呼んだ。
「何の用だ?」
無愛想に問いかければ女が息をのむ気配がした。しばらくの沈黙ののち、
「……切るよ」
短く告げると、女は緊張したように口を開いた。一度は花嫁にと受け入れた女の声からは、怯えのようなものしか伝わってこない。
偽善で塗り固められた女は、遠まわしに非難する言葉だけを彼に伝える。
愛情深いと言われる鬼の一族に生まれた響は、例外的に他者に興味を持つことができなかった。
周りの勧めで選んだ女は、ひどく彼を苛立たせるだけの存在に終わった。
その女が――他の鬼のもとへ嫁いでいった女が、いまさら懇願してくる。
もう馬鹿なまねはやめて欲しいと、まるで見知ったかのように偽善者の仮面をかぶって、親身なふりをして涙声で説得までしてくる。非難めいた言葉をうまく誤魔化すようにして。
「言いたいことは? それだけ?」
突き放すように聞くと女は再び沈黙した。
まだあの女のほうがましだな、と響は冷え切った心で嘲笑った。
憎悪だけをまっすぐに向けてくる桃子のほうが、よほどわかりやすくて扱いやすい。使い捨ての駒であるからこそ、大切にしてやる必要もない。
守られて当たり前だと、愛されて当然だと暗に語ってくる女よりはるかにましだ。
「死にたくなかったら二度と電話をかけてくるな。お前、ムカつくんだよ」
優しくささやいて、響は一方的に電話を切った。どうせ返答を待ったところで口を開くことはないだろう。
愛されて当然と信じて疑わないからこそ、否定されれば誰かにすがって助けを求めるだけの女。
そんな女を一時でも花嫁にと思った過去の過ちに反吐が出そうだった。
響は携帯電話をベッドの上に放り投げ、わずかにひらいたカーテン越しに空を見た。
小鳥のさえずりが聞こえる。
視線を移動させれば鬼ヶ里高校の巨大な校舎が悠々と構えていた。
新たな一日を迎えようとするその建物を、彼はただ静かに見やった。