わずかにうずく肩の痛みに細く息を吐いた。手の平のものはもうほとんど気にならないが、肩は肉をえぐっている。いくら鬼の治癒力が優れているとはいえ、完治するにはしばらく時間が必要だ。
 厄介だなとぼんやり考えていると、腕の中からなんだかゴツゴツした感触が伝わってきた。
 無意識に抱きよせて、その微妙な抱き心地に柳眉を寄せた。久しぶりに深い眠りに落ちていた彼は、それの正体を確認すべく瞳を開け――そして、ものの見事に硬直した。
 かつてなら決して有り得なかった。
 相手がどうこうという問題ではない。彼は人がまわりにいると安心して眠ることができなかったのだ。
 その眠りは常に浅く敵となる可能性がある者を警戒しつづけ、彼自身もその生活に慣れきっていた。
 油断すれば命を落とす。華鬼が鬼頭を名乗っていることを善しと思わない鬼など、それこそ掃いて捨てるほどいた。
 ゆえに彼は人を寄せ付けない。人がいようがいまいが、眠りは常に浅い。
 ――はずだった。
「いつ……」
 いつからここにいたんだと、ただ混乱して腕の中の少女を見た。この状況で、神無は呑気なことにすやすやと眠っている。
 勝手にベッドに入ってきて眠っているのも十分異常だが、自身の腕がしっかり神無を抱きしめているこの状況は、彼を動揺させるには十分だった。
 なぜこんな事になったんだと、動揺を誤魔化すように意識をそらせる。
 昨日は、道楽息子に食わせる飯はないとひどい悪態をついて父親に家を追い出され――もともと生家を嫌っていた彼は、腹いせに一番高級な車に乗り込んで鬼ヶ里高校に戻ってきた。
 学校に行けば好奇の目にさらされ、学校を出れば眩暈を起こしそうになるほどの変貌をとげた家が彼を迎えた。そのすべてにあれほど腹を立てていたにもかかわらず、今では眠りにつく前の苛立ちなど吹き飛んでいる。
 翠の黒髪が白いシーツの上を流れていた。ただなんとなくそれに手をのばし梳いてみると、指通りのいい髪がかすかな音を奏でる。
 もう少し肉がついていたほうが抱き心地がいいのにと、つらつら考え華鬼は再び動揺した。
 不意に腕の中で少女が身じろいだ。小さく声を発する彼女からは覚醒の気配がただよってくる。
 とっさに腕をどけようとしたが、なぜかそれは思いとどまって目を閉じた。
 もぞもぞと腕の中で神無が動いている。
 その動きが止まり彼女の視線を感じたが、寝たふりを続けながらどう対応していいのか迷っているうちに腕から抜け出そうと苦戦する気配がした。
 絡め取るようにまわした腕と足を緩めてやると、ようやく神無がベッドから降りて安堵の息を吐いた。
 彼女はしばらく華鬼を見詰め、そして部屋をあとにする。
 無意識に緊張していた華鬼は、ごろりと寝返りをうって小さくうなり声をあげた。
 訳がわからない。
 妙な具合にはね上がった心音は、ただこの状況に混乱してのことだろう――そう、彼は勝手に結論を出した。
 それにしても、いろいろと腑に落ちないことが多い。
 事例をひとつずつあげながら、彼はベッドに寝転んだまま首をひねる。悶々と考え込んでいるうちに、遠くから何かを刻む音が聞こえ、味噌汁の匂いが空気にのってきた。
 ふと、彼は思い出す。
 昨晩キッチンを覗いたら、テーブルの上に食事が用意されていた。
 腹を立ててはいたが減ってもいたので、適当につまんだら意外と口に合った。
「……料理はうまいのか」
 悪くない、と心の中で続けて押し黙る。何かが引っかかっている気がしてならないのだが、その詳細にどうしても辿り着けない。
 再度悶々と考え込んだ華鬼の耳にドアを開ける音が届いたのはそれからしばらくしてからだった。
 神無は遠慮がちに何度か華鬼の名を呼ぶ。
 答えようかと思ったが疑問だけが広がって口を開くことができず、身じろぎもしない華鬼を見詰めていた神無はいったんドアを閉め、さらにしばらくしてから戻ってきた。
 小さな音をたてながら、神無が部屋の中へ入ってくる。
 味噌汁と炊きたてのご飯――それにいくつかの香りが華鬼の鼻腔をくすぐった。
 神無はお盆をサイドテーブルの上に置き、静かに退室していった。
 遠ざかる足音に耳を傾け、華鬼はようやく体を起こす。
 なんとなく妙な表情をして彼は味噌汁が入ったわんに手をのばした。
 一口すすり、
「悪くない」
 ポツリともらしてドアを見た。
 ――奇妙な季節の幕開けである。

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