相変わらずクラスから浮いているが、神無はそれを気にする事もなく窓の外を眺めている。傷つかないわけではないが、もともと嫌がらせの類は彼女の日常の一部であったし、今は何より改装された部屋のことのほうで頭がいっぱいだ。
 三日という驚異的なスピードでリフォームされた職員宿舎の別棟四階は、全体的に淡い色調でまとめられ、木のぬくもりも温かいどこかカントリー風な様相へと変身していた。
 それにともなって家具なども新調され、まるで新築の家に越してきたのではないかというほどの変貌だった。
 ただ以前と変わらず寝室にはキングサイズのベッドが置かれている。
 昨晩は部屋の主である華鬼は不在で、彼女はそのベッドのはしで丸くなるようにして眠ったのだ。生徒たちの噂を聞く限り、華鬼も生家からこちらに戻ってきたらしい。学園生活を楽しんでいるようにも見えないから、きっと忠尚が嫌味のひとつでも言って生家から追い出したのだろう。
 なんとなくその光景が想像できて、知らずに表情が緩む。
 忠尚は息子を物扱いしているばかりではない。そんな気がして嬉しかった。
「神無? 帰らないの?」
 少女の声に驚いて顔をあげると、クラスの女生徒で唯一神無に話しかける桃子の姿があった。
 きょとんと見上げると、
「授業、終わってるよ」
 そう続けて呆れ顔を向けられた。神無はあたりを見渡して、まばらになったクラスメイトに驚いて机の上を片付け始める。
「……ねぇ、部活入らない?」
 考えるように問いかけられ、神無は目を瞬く。中学校で在籍したのは帰宅部と噂された茶道部である。実際彼女は茶室に数度足を運んだだけで、部活らしいことは何一つこなさずに三年間を過ごした。
 高校に進級したあとは本当に部活に入ることなく、授業が終われば明るいうちに帰宅するのが日課となった。そして、そんな彼女を部活に誘う人間は誰一人いなかった。
 まさか転校した先で部活に誘われるとは思ってもみなかったのである。
「スポーツ系じゃなくて。あたしも部活入ってないから一緒のところに入ろうよ。よさそうなところ見付かったら入部届けの用紙もらってきてあげる」
 桃子は一方的に告げて驚く神無に笑顔を向け、答えに窮する彼女の前を去っていった。
 ポツンと残された神無は帰り支度を始めた桃子の背中をただ無言で見詰めている。視線に気付いた彼女が顔をあげ、別れの挨拶と共に教室を出て行った。
「……部活入るの?」
 再びのろのろと机の上を片付けてカバンを手に立ち上がると、同じように帰り支度をすませた水羽が近づいてきた。
 神無は迷いながらも頷いてみせる。守られているから安全と高をくくっているわけではない。初めて誘われたことに戸惑いを覚えはしたが、単純に嬉しかったのだ。
「あんまり無理しちゃダメだよ」
 微苦笑する水羽はそう言ったきり複雑そうな顔で押し黙った。突き刺さる視線を気にしながらも肩を並べて教室を出る。
 ここ三日、学園内で目立つ人間がこぞって姿を消したのだ。いろいろ聞きたい事も多いだろうが、質問をするのも癪だと言わんばかりの空気だった。
「うーん、ますますわかんないなぁ」
 学園を出て職員宿舎に向かいながら、水羽がようやく口を開いた。
「華鬼。戻ってきたって事は……うーん」
 あれだけ周りから注目されていたにもかかわらず、まったく気に留めていなかったらしい。彼は小首を傾げながら職員宿舎を見詰めていた。
「ライバルってことだと思う?」
 不意に話をふられ、神無はうろたえた。
「ま、本当いまさらなんだけど」
 腹に一物ありそうな表情で微笑んで、水羽は視線を神無から再び職員宿舎に戻した。その視線が建物から脇にそれる。
 大きなバスケットに取り込んだ洗濯物をいっぱいつめた女がいた。
「もえぎさん」
 足早に近づくと、もえぎは柔らかく笑みを浮かべた。
「あら、もうそんな時間ですか」
「手伝います」
 手を差し出すとやんわり断られ、代わりにドアを開けて欲しいと告げられる。
 素直に従うと、
「鬼頭の生家で何かありました?」
 唐突にもえぎが質問をしてきた。神無は返答できずに水羽を振り返り、彼は微妙な笑顔で小さな唸り声をあげた。
「別に何にもなかったと思うけど」
 何が、とは言えない。さすがの水羽も答えにくそうに苦笑して、その語尾さえ尻すぼまりになっていくのがわかった。
「そうですか」
 いつも通りにたおやかな女性は、同じくいつも通りの笑顔でバスケットを抱えたまま廊下を歩き出した。そして、その途中で足を止めて振り返る。
「神無さん、お部屋気に入りました?」
「はい」
「それはよかった。無理を言って可愛くしてもらったかいがありました」
 コロコロ笑う彼女が廊下の角を曲がっていく。
 姿が見えなくなってから、水羽が肺を空っぽにするような深い溜め息をついた。
「怖い……」
 呻くように言って、彼は自室へと退散した。神無はもえぎが消えた廊下をしばらく見つめ、麗二の顔を思い出す。
 そういえば彼の顔色もあまりよくなかったような気がした。
 いろいろ大変らしい。
 エレベーターに乗り込みボタンを押して、神無も小さな溜め息をつく。きっと今晩は各自で食事をとる事になるだろう。幸い新居と化した四階の冷蔵庫には料理するのに十分な食材がつまっている。
 もし必要な物があったらいつでも申し出るようにもえぎに言われている神無は、エレベーターを降りて今後の生活の基盤となる部屋の前で足を止めた。
 本来、花嫁は婚姻を結んだときに印を刻んだ鬼からカードを渡されるらしい。
 それで必要なものを買い揃えるのだが、神無は華鬼からそれを受け取ってはいない。ゆえにもえぎが細やかな気配りで神無が必要とするものの一切を買い与えてくれるのだ。
 頭が下がる思いだ。
 彼女がいなければ三翼が動いてくれるかもしれないが、今ほど快適とはいかないだろう。
 玄関のドアを開け、神無は様変わりした室内を感心して眺める。これももえぎの気配りの一端なのだ。
 昨日も散々見てまわったが、それでもまだ見飽きない。白を基調とした内装は可愛らしい家具やカーテン、装飾品であふれかえっている。
 神無はいそいそとキッチンへ移動して、冷蔵庫のドアを開けた。時計を眺め、玄関に視線をおくり、家人が帰ってくるかどうかを思案して、家に帰ってこない可能性が限りなく高いと知りつつも二人分の食事を作ることにする。
 顔をつき合わせて食事をするという姿が想像できないが、作っておけば口を付けてくれるかもしれない。まだ癒えるには早すぎる傷を思い出すと不安になった。
 そうこうするうちに時計は七時をさす。
 神無は椅子に腰掛け小さく肩を落としながら出来上がった食事に手をのばした。
 ここ数日、一人で食事をするという事がなかった。すべてが居心地のいい空間ではなかったが、一人で食べる食事が味気ないことを彼女は今になってようやく知った。
 もともと食の細い彼女はすぐに食事を放棄して後片付けに入った。
 もう一度時計を見上げ、溜め息混じりにバスルームへ向かう。昨日はたぶん、華鬼は生家で一泊したのだろう。
 大暴れのすえに生家がどうなったのかは恐ろしくて聞けない。
 華鬼の怪我が増えているかなど、もっと怖くて聞けはしない。心ここにあらずで深刻に考えながら、神無は湯船につかって天井を眺める。
 ――不意に、音が生まれる。
 神無は勢いよく体を起こし、浴槽から出てバスルームのすりガラスを開けた。すりガラスの向こうは脱衣所になっており、さらにその奥にもう一枚すりガラスを隔てて廊下がある。
 その廊下を、黒い影が横切っていった。
 安堵と緊張がほぼ同時に彼女を襲った。
 どうしようかと考えあぐね、神無は体を拭いて髪を乾かし、パジャマに着替えて黒い影が向かった方向へ足音を忍ばせて歩いていく。
 手近なドアをこっそりと開いていき、そうして最後に辿り着いたのは寝室である。
 即座に踵を返し、一歩踏み出してから思いとどまり、彼女は他の部屋と同様に緊張しながらもノブに手をのばした。
 慎重にドアノブをひねったのに、こんな時ばかりカチリと音が響く。
 一瞬硬直しながらも、神無はドアを押し開けて中をのぞいた。
 そして、小首を傾げる。いると思っていたはずの華鬼の姿が見えなかったのだ。
 さらにドアを押し開き、神無は小さく声をあげた。探していた当人は制服を着たまま、すでにベッドに横になって眠りについていた。
 神無は、怪我の有無を確認するために足音を忍ばせてベッドに近づき、再び小さな声をあげる。
「……枕」
 麗二からもらったダックスフンドが華鬼の頭でつぶされている。悪趣味なサイズのベッドにはいくつも枕が用意してあるのに、なぜわざわざぬいぐるみと見紛う枕を選んだのか理解に苦しむが、その寝顔は驚くほど無防備で見ているほうも穏やかな気分になってくる。
 ひとまず今日は居間にあるソファーベッドで眠ろうと結論を出し、神無は枕のひとつを手に取った。本当なら華鬼の使っているダックスフンドを持って行きたいところだが、気持ちよさそうに寝入っている彼を起こすことには抵抗があった。
 枕を手に、そういえば布団はどこだろうと考えた瞬間、眠っていると思っていた華鬼の双眸が開いた。
 端整な顔が神無を見上げ、言葉もなく立ちすくむ彼女の腕を取る。
 悲鳴をあげる間もなく抱き込まれて恐怖で身がすくんだ。抵抗する事もできず、ただ身を硬くして息を殺し――
 そして、約三十秒。
 華鬼はまったく動かない。しっかりと神無を抱き包んだまま、指一本動かす気配がない。
 神無はそろそろと視線をあげる。
 恐怖と緊張で激しく暴れ狂う心臓は、頭上の寝顔を見た直後に正常に戻っていった。
「……華鬼?」
 恐る恐る呼びかけてみるが、返ってくるのは規則正しい寝息のみだった。
 あんな寝ぼけ方があるのかと困惑しつつ、神無は腕の中から抜け出すために身じろいだ。しかし、眠っているはずの華鬼の腕は緩まるどころかいっそう深く抱き込んでくる。
 ぴったりと重なるように抱きしめられ、これ以上の抵抗が無駄であることを悟ると、神無は速くなる鼓動を抑えるように深く息を吸いながらもう一度華鬼を見上げた。
 穏やかな寝顔が視界いっぱいに広がる。
 緊張が解けていく。
 いま包み込んでいるこの腕は、自分を傷つけるために用意されたものではない。
 彼と共にいるときはどんな場合でも何かしら緊張し続けた神無は、初めて感じる類の安堵に吐息をつく。
 ゆっくりと全身の力が抜けていった。
 バラバラだった心音が時間をかけてひとつに重なっていく頃、少女もまた、深い眠りへと落ちていった。

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