「ふざけないで……!!」
 少女の声が怒りに震えている。
「取引したじゃない! 勝手に動かないでよ!!」
 今は使われていない鬼ヶ里高校の一角――特別室のドア越しに聞こえてきた声に響はうっすらと笑む。憎悪でできた言葉は綺麗に飾ったそれよりもはるかにわかりやすくて心地よい。
 少なくとも、昨日まで観察し続けた鬼頭の花嫁である神無のそれよりも、彼には理解しやすかった。
「鬼頭の生家にお前を連れて行っても無駄だ。それとも、いちいち報告が必要なのか?」
 嫌味っぽく問いかけると苛立つように少女が押し黙った。唐突なことで連絡をおこたったのは事実だが、そんな些細なことまで咎められるいわれはない。
 逐一把握したい性格のようだが取引は対等の立場でおこなわれるのが理想だ。すべてを相手に合わせる必要はない。
「あそこに行ったお蔭であの女が鬼頭のアキレスだって確信が持てた。これから動きやすくなる」
「……どういう意味よ」
 不機嫌そうな押し殺した声に響が声をたてずに笑った。扱いやすい女だ。
「躊躇うことはないって意味だ。他の弱点は今のところ見付からないが――あれだけ無防備な女がターゲットなら、九翼いても手段がないわけじゃない」
「……」
「お前も協力するんだろ? なぁ」
 視線をドアへと移動させ、響は猫撫で声で問いかける。ドアの向こうには気配がふたつ――そのひとつがわずかに動く。
「なぁ、土佐塚桃子」
 息をのむような沈黙の後、ドアがスライドした。
「協力する。あの子、メチャクチャにしてくれるんでしょ?」
 背の低い女がひどくすさんだ表情で嘲笑した。その顔には迷いや後ろめたさが微塵もなく、ただどす黒いまでの憎悪が伝わってきた。
 何が彼女をそこまで駆り立てているかなど興味はなかったが、彼女が伝える情報が使える≠アとだけは確かだ。
 桃子の手には携帯電話がきつく握りしめられている。響は白くなった指先を見つめ、同じように口元をゆがめるようにして笑った。
「こんな事したって仕方ないだろ」
 たまりかねたように傍らの影が桃子に近づく。今まで一度も言葉を発することのなかったその人物の口調からは動揺が読み取れた。
「うるさい。あたしに指図しないでよ」
 反発して桃子が鋭く叫んだ。
「もう庇護翼でもなんでもないんだから、あたしの事なんてほっといてよ。それともなに――」
 怒りの吐露。
 相手がなにかを言う前に、桃子は言葉を続けた。
「そんなにあたしが惨めに見える……? 同情なんてしないで、さっさとどこかに行けばいいじゃない」
 言葉尻をきつく尖らせて、桃子は言葉を投げつける。震える声は怒りのせいばかりではないだろう。それでも、それを悟らせまいと彼女は隣を睨みつけた。
「どこかに行って。もう二度とあたしのそばに来ないで」
「……桃子」
「守ってくれたことは感謝する。……16年間、無駄にさせてゴメン」
「……」
「でももう必要ない。だから、消えて」
 それは悲痛なほどかたくなな拒絶。
 彼女は男が動くまでただ無言で見詰め、逡巡しゅんじゅんののちに踵を返したその姿をどこか辛そうな表情で見送っていた。
 ひどく傷ついたような横顔は響に向けられる瞬間、怒りにすりかわった。
「鬼頭の花嫁が気に入らないのか」
「だって、許せないじゃない」
 怒りで染められた顔が歪む。それは笑顔のような泣き顔のような、形容しがたいものだった。
「なんであの子ばっかり幸せになるの? あたしとあの子、どこが違うのよ。こんなの不公平でしょ」
 毒をまき散らすように囁いて、桃子は小首を傾げた。
「あの子だって不幸になればいい。幸せになるなんてゆるさない」
 感情を抑えきれないのか、そう語る桃子の肩は震えていた。
 ああ、本当に扱いやすい――わかりやすい女だ。
 響は心の中でそう笑って、しかし、それをおもてに出すことなく彼女の言葉に耳を傾ける。
 過去に何かあったのだろう。それは、鬼頭の花嫁である娘とは何のかかわりもないことに違いない。
 だが、歪んだ怒りの矛先はあの娘に向いたのだ。
 幸いにして、彼女は神無のクラスメイトでもある。浮いた花嫁同士、それとなく気の合うそぶりをする事もできるだろう。
 取り澄ました相手より桃子のほうがはるかに利用しやすい。
 従順とは程遠いがそれなりに役に立つに違いない。桃子自身も響を利用するつもりで話を持ちかけたのだから、お互いに不要になればいつでも切り捨てることができるとわかっているぶん後腐れもない。
 怒りを隠そうともしない桃子に響は瞳を細める。
 良質な手駒がひとつ、彼の手の上で踊っていた。

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