木々の木陰に隠れるように仲良く三つ並んだ双眼鏡がゆらりと動く。
「――あ、神無発見」
 少年の声に、二つの双眼鏡が動く。
「どこや!?」
「あそこ!」
「だから何処や!?」
「そこだったら!」
 ウロウロと彷徨う双眼鏡が、ようやく止まった。
「お〜ホンマホンマ。……なにしとるんや?」
 満足げに双眼鏡が上下に揺れたあと、それは斜めに傾いた。
 双眼鏡の奥の少女は女たちと別れたあと、しゃがみ込んで何かをじっと観察している。
「ん……ああ、水琴窟」
 少年の声がそう応じた。
「なんや?」
「土の中に壷が埋めてあって、その中に水が落ちると独特の音がして――親父さん、気に入ってるんだよね」
「ほぉ」
 小石が並べてあるだけのその場所に水琴窟と呼ばれるものがあるらしい。少女は飽きもせずその石を見詰め――そして、それを遠方から同じように飽きもせず眺めている影が三つ。
「……なんと申しましょうか」
 いつも白衣を愛用している男は、今回ばかりは私服に着替え――しかしきっちりネクタイを締め、両手にしていた双眼鏡を胸元まで下ろした。
 そして隣で肩を並べて人様の家に双眼鏡を向け続ける二人を見た。
「覗き魔ですね」
 爽やかに美麗の高校校医、高槻麗二は現状を述べる。
「せめてストーカーって言わんか?」
 鬼ヶ里高校執行部会長である士都麻光晴が、双眼鏡を下ろしながら怪しげな行為の名称を提案すると、
「バードウォッチングだよ」
 少女と見紛うほどの可憐な容姿の少年――早咲水羽が、同じく双眼鏡を下ろしながらさらに無難な言葉を続ける。
 彼らが監視する屋敷は、山林の中に建つには異様な大きさだった。
 本来ならそこに押し入って、事情を説明した上で花嫁である神無を保護すべきだ。
 鬼頭の名を持つ鬼は、己の花嫁を幾度かその手にかけようとした。
 その事実を話し、そして保護すべきだった。
「……状況、悪すぎますよねぇ」
 主の花嫁に求愛すること自体が異例で、その相手は歴代最高の鬼頭と言われる鬼で――そして、花嫁が命の危険に晒されていることを知るのは、まだほんの一握りだけという現状。
 事実を明らかにすれば、神無を守りやすくなる。
 だがそれによって好奇心を剥き出しにした無神経な目を増やし、これ以上彼女を晒し者にするわけにはいかない。
 本来なら誰よりも祝福されるべき少女なのだ。
 鬼頭の花嫁として選ばれた少女は、誰よりも愛されるはずだった。
 だが実際には、神無を守るべきはずの鬼が彼女の命を狙っている。
「……退くわけにはいかん。絶対に」
「退く気なんてないけどね」
 光晴の言葉に応じるように頷いて、水羽は再び双眼鏡を覗いた。
「――あ、華鬼発見」
「……あのボケは何しとるんじゃ?」
「寝てる」
「……」
「……」
 チャッと双眼鏡を目の高さまで移動して、光晴が水羽と同じ方向を見る。
 確かに岩で囲まれたそこには、芝生の上に寝転んでいる見慣れた男の姿があった。呑気なことに、本当に寝ているらしい。
「シバいてきたろか」
「目立ちすぎますよ、光晴さん。やるなら夜襲でこっそり」
 あまり笑えないことを麗二が言っている。彼は主の動向に興味がないようで、構えた双眼鏡は神無のいるほうに向いていた。
「こんな広い屋敷で、華鬼の部屋なんて――」
「あ、それは知ってるから大丈夫」
「……用意ええな?」
「ん」
 驚いて光晴が水羽を見ると、彼は双眼鏡を覗き込みながら気のない返事をした。
「でも単純に、殴り合いで解決するとは思えないんだよね」
「――アホは一発殴らんとわからん」
 光晴の言葉を聞いて、水羽がようやく双眼鏡をおろした。しかしその視線はいまだに屋敷に向けられたままである。
「華鬼ってさ、ずっと花嫁選ばなかったじゃない」
「その代わり他の女に手ぇ出しまくっとったんやろ?」
「……そう。それがいきなり花嫁の話を出したって……変だと思わない?」
「思わん。適当に選んで、それが生きとったから――」
「だからって迎えなくてもいい。誰も知らないなら、そのままにしておく事だってできたんだ。でも華鬼は神無を呼んだんだよ」
「……気紛れや」
「そうかな。華鬼はちゃんと、神無を選んだんじゃないのかな」
「だったら!」
 光晴の手の中で、双眼鏡が小さく悲鳴をあげる。
「選んだならなんで庇護翼を付けんかった!? 16年間も何の手も差し出さずにボロボロになるまで放っといて、なんでギリギリになって呼んだんや!? ただ生きとったから、無事だと知ったから声をかけたんやろ! そんな――」
 手の中の黒い金属の塊が悲鳴をあげ続けている。
「そんなんは許せん!」
「確かに、黙認できるものではありません」
 光晴の意見に賛同し、麗二が双眼鏡を覗き込んだまま小さく言葉を発した。
 それを聞いて、水羽は屋敷に向けていた顔を隣にいる男に向けなおす。
「それはボクも一緒。けど、気になるんだ。華鬼が神無に印を刻んだ時――あの時、色々あったから」
「と、申しますと」
 ようやく双眼鏡を放して、麗二が水羽を見た。
「……母親が死んだ時とガチ合う」
「……母親って、華鬼の?」
「うん。享年91歳、大往生」
 光晴と麗二を見詰め、水羽は大きく頷いた。
 鬼は血の繋がりよりも個体としての能力を重んじて生きている。父親や母親がどうであれそれはたいした問題ではなく、重視されるのはあくまでも個体の能力で、それゆえに華鬼が鬼頭≠名乗ことができるのだ。
 強い鬼というのは総じて情が深い。
 しかし、それは血を残すための本能的なものが加味され、愛情を向ける相手の多くは刻印を持った鬼の花嫁なのだ。
 元来、鬼は単独で行動することが多い。
 そんな彼らが鬼ヶ里で生活する第一の理由は、いきなり見知らぬ男のもとに嫁がされた花嫁たちがストレスで潰れてしまうのを防ぐためで、その為に学校というシステムを作るほどだった。
 鬼たちは基本的に花嫁を守るための努力は惜しまないが、それ以外には無頓着な場合が往々にしてある。
 それを踏まえて考えれば、華鬼の矛盾した行動の原因が花嫁≠ニ言うならまだしも、母親≠ニいうのはどこか不自然だ。
 光晴の目が大きく見開かれる。
 母親という言葉がでてくる可能性としては――
「……マザコンかぁ!?」
「それとは違うと思うんだけどなぁ。でも時期は一緒なんだ。母親が死んで、そのあと華鬼がしばらく失踪してて――その頃、神無に印を刻んだんだと思う」
「マザコン!!」
「だから違うってば。だいたい、それで一年も失踪するタイプじゃないし」
 唸りながら続ける水羽に、麗二が小首を傾げる。
 さらりと流された言葉だが、あまりに詳しすぎる。学園内のことは色々耳にして知っているが、それ以外で起きた事件は鬼たちの間であまり話題にのぼる事はない。
 だが、水羽はまるでその時のことを見ていたような――
「水羽さん、よくご存知のようですが」
 探りを入れるような麗二の言葉に、水羽は小さく溜め息をついた。
「知ってるよ。ボク、十年くらいあそこに住んでたから」
 指をさす先は華鬼の生家。少年は再び屋敷に視線をやった。
「華鬼ってあれで面倒見いいんだよね。だから余計ムカつく。庇護翼に選ばれたのだって、ボクがどんなに喜んでたか知ってるくせに」
 今度は水羽が手にしていた双眼鏡が小さく悲鳴をあげた。
 せっかく買い揃えた双眼鏡があっさりダメになりそうなほど力を込めた手に、別の手が乗せられる。
「それはナニ繋がりや!?」
 勢い込んで光晴が問いかけた。
 水羽は一歩だけ後退して口を開いた。
「……ボクの父親の庇護翼が、華鬼の父親だったの。だから、ボクの母親を守ってたのが華鬼の親父さん。ほとんど最下層の鬼だけど、ボクの父親と馬があって仲良しこよし。家けるからって、しばらくあそこに預けられた」
「え……と、水羽さんのお父様とおっしゃいますと」
 再び小首を傾げる麗人を水羽はちらりと見やり、
綺杉総馬きすぎそうま。鬼退治に行ったっきり帰ってこない、光晴と同類の放浪癖男」
 不機嫌そうに続けた。
「なんや、お仲間か〜……って、そいつ会うたことある! 危うく退治されかけたんや!!」
「あの男、手加減しないから」
 再び不機嫌そうに水羽が漏らした。
「笑いながら追いかけてきて恐ろしい鬼やった! そうか、あいつ水羽の父親――……って、なんで苗字違うん?」
 話が脱線している事も忘れ、光晴が真剣な顔をして考え込んでいる。
 ほとんどを鬼ヶ里の外で過ごす光晴は、鬼たちの間で一般的であることすら忘れているようだった。
 その姿をどこか呆れたように麗二と水羽が見た。
「すっかり外に染まってますねぇ」
「鬼って普通、母親の姓名乗るだろ。子供は皆、私生児ってことで役場に届けられて、そのあと書類改ざんの嵐」
 鬼ヶ里の近くにある町には小さな役場がある。
 恐ろしい話だが、そこには鬼の息がかかった者ばかりが勤めていて、かなり勝手が利く。
 花嫁の希望で生まれた子供を役場に届けられるように便宜を図ったが、結局は寿命が長すぎるために色々問題がおき、書類を書き換えなければならない事態が多発したため――
 結果、さり気なく役場は犯罪の香りを漂わせていた。
 別にこれは役場に限ったことではなく、彼らは彼らなりに生活しやすいよう様々な常識を少しずつ狂わせて現在の生活を維持してきた。
「おお! じゃあ、華鬼より強い鬼が出てきても、外尾華鬼にはならんわけやな!」
 ポンと手を打って、光晴が素直に納得している。
語呂ごろが悪いですねぇ」
「そんな心配する必要ないと思うけどね。華鬼以外が鬼頭って言うのも、考えられないし」
「そらそぉや――って華鬼! あのクソ餓鬼!」
 思い出したかのように叫んで、光晴は再び双眼鏡を覗いた。
「なに寝とるんじゃ、ワレ!!」
 冷酷な主はいまだに岩に囲まれた小さな空間で眠っているようである。神無との距離はかなりあるから害はないが、その無神経ぶりが癪に障ったように光晴は小さく唸り声をあげた。
「……あ」
 ふと光晴が双眼鏡を移動させ、そして絶句する。
 おかしな角度で止まる彼に、不思議そうにしながら麗二も双眼鏡を構えた。
 そして、わずか5秒でその理由を知る。
「……マズイのがついてきてますね」
「なに?」
 同じように水羽も双眼鏡をむけ、そして思い切り顔を引きつらせた。
 木の影に隠れてはいるが、三人の鬼が彼らと同じように屋敷を見張っていた。面識はあるが名は知らないという程度の相手だったが、神無がらみで色々調べてみたら、どうにもこうにもきな臭い連中であることが判明したのである。
 とくに偉そうにしている一番整った容姿の鬼は、きな臭いどころの騒ぎではなかった。
「あれって」
「堀川響」
 水羽の問いに、麗二が短く答える。
 資料では少し前に花嫁を迎えたとあったが、その影すら見せない謎の男だ。
 麗二はパッと携帯を取り出して画面を確認するなりボタンを押した。
「いい度胸です。万死に値しますね」
 まだ呼び出し音の続く携帯を耳に当て、麗二がボソボソと言っている。
「れ、麗ちゃん怖いんやけど」
 双眼鏡から顔を離し、その姿を盗み見て光晴が小さく意見を述べた。
「もえぎにちょっかい出したこと、実は根に持ってたりね」
 水羽の小声に鋭く反応し、麗二は般若のような笑顔を向けた。
「もえぎさんも神無さんも、私の大切な花嫁ですから」
 私≠ノ妙に力が入っている。それを聞き分けて、光晴は顔を引きつらせた。
「言い切りおった!」
「ヤだなぁ、大人気ない大人」
「ああはなったらあかんで、水羽」
 光晴の言葉に水羽がコクコク頷くと、
「一樹さん?」
 と、恐ろしく不気味な声で麗二が携帯に囁きかけている。
 己の庇護翼の名を優しく呼んではいるが、その声色が不自然な分、嫌な響きがこもっている。
「一つお願いしてもいいですか?」
 有無を言わさぬ口調というのがあるのなら、これが当てはまるだろう。語尾を一切荒げることなく柔らかく語りかけているにも関わらず、その語り口はあまりにも威圧的で。
 囁かれた一樹は、携帯を握りしめて真っ青になっているに違いない。
「華鬼の部屋、どのくらいで修復できそうです? ……一週間? ……では、三日で直しなさい」
 満面の笑みで、美麗の保健医は命令する。
 わずかに漏れてきた一樹の声は、動揺を隠せずに裏返ったまま何かを必死に訴えかけていた。
「言い訳は結構。拓海さんにも伝えてください。できなければ、親子の縁を切りますから」
 さらりと告げて麗二は携帯をポケットにしまった。
「やっぱり山中だけあって、電波が悪いですねぇ」
「……いや、ちょっと待て」
 光晴が片手をあげて麗二を制する。
「部屋が修復できてない状況では戻れとも言えないので、ここは正攻法で花嫁取り戻しましょう」
「いや、そうやのうて」
「遠方から護衛というのはあまり自信がありませんが、車も頑丈そうですから何かあったら車ごと行くとして、三日間、頑張って神無さん守りましょうね」
「ちょっと待たんかい! 親子って誰がや!?」
 襟首をつかむような物凄い剣幕で問い詰められ、麗二は驚いて光晴を見た。
「誰って、一樹さんと拓海さん、私の息子ですけど」
 あんぐりと開いた口を覗き込んで、麗二は微笑む。少し視線を動かした先にある水羽の顔も、微妙な表情のまま止まっていた。
「……何か?」
「自分の子供に花嫁守らせる鬼がどこにおんねん!?」
「え? ここに」
 ケロリと自分を指す麗二に、ガックリと座り込んだ。
「それは無神経や……」
「どうしてです? 信用しているから大切な花嫁を任せてるんですよ」
「……せやけど、無神経や……」
 頭を抱えるようにする光晴に、麗二が困ったような笑顔を向けた。
 多少は自覚があるようである。
「息子たちの中では一番若いんですが、有能なんですよ」
「今度は息子自慢か!?」
「ええ、三日間であの全壊の部屋を修復できなかったら、息子自慢もこれで最後ですね」
「……なんや、可哀想になってきた」
 あっさりとそう言う麗二を見て、光晴は肩を落とす。
「一応な、自分が行くと誤魔化しきかんから、オレも手は回した」
 溜め息と共に吐き出して、光晴は屋敷に視線を投げる。
「郡司と透、あん中に忍び込めるよう手配しといた。どんだけ役に立つかは――わからんけどな」
「あ、ボクも! 気が合うね」
 にっこりと水羽が笑う。
「名誉挽回してこいって風太と雷太、忍び込ませた! でも、あのままじゃ目立つから女装させてみたら、これがなかなか似合ってね!」
「……鬼やな」
「鬼ですね」
「なんでだよ! 見た目が子供だから普通に入るとバレそうだったんだよ! だから化粧までさせたのに!!」
 水羽の言葉を聞いて、光晴と麗二は顔を見合わせる。
「それなら自分が行ったほうが似合うんやないのか?」
「似合うからヤダ」
 気持ちいいくらいの即答である。
 ただ、話題が大きくずれ始めているから、そろそろ修正に入らないと際限なく無駄話に弾みがかかってしまう。
 ようやくそれに気付いて、麗二は少し考えるように虚空を見詰めてから口を開いた。
「あの、今は似合う似合わないの論争をしている場合でなくて」
「麗ちゃんも似合いそうやな!」
 ポンと光晴から飛び出した言葉に、麗二は小さく会釈する。
「――はぁ、ありがとうございます。……いえ、ですから、そういう問題ではなく」
「オレだけか、似合わんのは!!」
「そうですねぇ、無理があります。まぁ華鬼も似合いませんし、それはいいかと」
「せやな!」
「はい。個性の問題ですから」
 微苦笑で麗二が言うと、水羽が隣で大きく頷いた。
「そうそう。ところでさ」
 ピッと指を立ててそれを屋敷に向け、美少年は言葉を続けた。
「今晩、神無って誰の部屋に泊まると思う?」
 重要なポイントをあっさりと質問され、的外れなことを話し合っていた二人は唖然としたように屋敷を見た。

Back  Top  Next