伊織に通されたのは華鬼の部屋からずいぶん離れた一室だった。
「家の者は手を出さないよう言われてるから」
 そんな言葉を残し、彼女はあっさりと去っていった。
 十畳一間のその部屋の中央には男物の服がひとそろえ置いてある。素直に同行していた華鬼は、少しふらつきながらもその服を手に取った。
 きっとまだ本調子ではないのだろう。
 腕を引かれるまま素直に従った華鬼の姿を思い出し、神無は部屋の奥に移動しながらも心配そうに彼を見詰めた。体調も万全でないのなら、意識がはっきりしているかも疑わしい。殺意と拒絶に慣れていた彼女は、従順な姿に不安を感じずにはいられなかった。
 神無は乱暴に浴衣を脱ぎ捨てる男の後ろ姿を無言で見守った。
 介護の時には散々見てきた体だが、相手の意識があるかないかでは受ける印象がだいぶ違うらしい。多くの傷を背負ったその体はやはり痛々しいままだったが、しなやかに動く肢体はひどく美しいものにも見えた。
 彼女は魅入っていた自分に気付き、慌てて視線を逸らした。
 衣擦れの音が耳につく。
 何か別のことを考えようとすればするほど、衣擦れの音が大きくなっていく気がした。
 鼓動が速くなる。
 ただ殺意を向けるばかりだった男がふいに見せる動揺、その体を埋め尽くす傷、そして意識のないまま花嫁を守るためだけにそばにいようとする行為が、彼女を混乱させる。
 色々なことに不慣れという理由もあるのだが、それだけではない。自分の中で確実に何かが変化していることに気付き、平静を装うことすらできなかった。
 神無は確実に速くなる鼓動を必死で落ち着かせるために深く息を吸い込んだ。
 何度かそれを繰り返し、神無はようやく顔をあげる。
 どこか遠くで、ゆったりと時間の流れていくこの屋敷にふさわしくない音が響いた。
 華鬼が鋭くあたりを見渡す。いつもと違った空気をまとう彼が瞬時に緊張するのがわかった。
 神無もつられるように息を詰める。
 昨日、忠尚は屋敷に侵入してきた鬼に一日休ませろと横柄に伝えていた。
 まだどこかふらつく華鬼を盗み見て神無は唇を噛む。毒を受け大量に出血していたにもかかわらず、彼は忠尚が言ったとおりわずか一日で覚醒した。
 そして、自分の体調すら気に留める様子もなく神経を尖らせている。
 屋敷全体を警固していた忠尚の庇護翼は、華鬼が目を覚ましたのを合図に撤退しているはずだ。
 意識のなかった華鬼が現状を把握しているとは思えなかったが、彼はすでに戦うための体勢に入りつつある。
「……華鬼」
 助けはない。
 たとえこれから何が起きようとも、この屋敷の中で鬼頭≠ノ手を貸す者はいない。
 手を出さないと伝えた伊織の言葉はそういう意味なのだろう。非情にも思える忠尚の命令に、しかし華鬼は絶望も動揺も見せはしなかった。
 まるでそれが当然であるかのように万全でない体で敵を待つ。
 ピリピリと肌を刺すように空気が張り詰める。
 いつもなら真っ先に神無に向かっていた殺意にも似た苛立ちは、その相手が別であるというその事実だけでまったく印象が違った。
 今まで恐怖を覚えていたその空気を間近に感じているのに、安堵のようなものが胸の奥を満たしている。
 ふと指が胸元の華に触れる。
 その瞬間、華鬼が見詰め続ける引き戸が不快な音をたてて壁ごと押し開かれた。力を誇示する乱暴な動きに神無は身をすくませて視線を移動させる。
 廊下には忠尚の庇護翼たちが身につける黒スーツで身を固めた鬼が、木片を投げ捨てながら嘲笑していた。
「まだ起きるには早いだろ?」
 彼は作り物のように整った顔を華鬼に――そして、神無に向けた。
 静かすぎる屋敷のどこかで、再び破壊音が聞こえた。
「本当は忍び込むつもりだったんだけど」
 困憊こんぱいの色が見え隠れする華鬼を楽しげに見詰め、響は黒いジャケットのボタンをはずした。
「あんたの父親、理解不能。そんな状態なのによく庇護翼を退かせたな――よほどの阿呆か、大物か」
 意味を解さない華鬼が無言で響を見詰めた。
「――それとも、立場をわきまえているのか」
 冷笑をたたえる鬼がジャケットのポケットからジャックナイフを取り出し、不要になった服を畳の上に落とした。ネクタイを緩めジャックナイフを握りなおす。
 昨日見たものとは少し形状が違う刃先を指がそっと撫でた。
 華鬼の体調が戻っていないことなど見ればわかる。なんとか立ってはいるがその足元がおぼつかない。いまだに包帯の巻かれた肩や手は、きっと彼の思うようには動いてくれないに違いない。
 それでも華鬼は戦うことを放棄するつもりはないらしく体勢を低くする。
 過去にあれほどの傷を負っているのだ。死を目前にして、臆することなく受け入れようとする男なのだ。
 いまさら痛みが増えることなど気にも留めないのだろう。死がどれほどの誘惑を持つのかを、神無自身もよく知っていた。
 ことごとく自分と重なっていくその姿に胸が痛む。
 逃げることを選んだ彼女と、戦うことを望んだ彼は、反しながらもその本質がひどくよく似ていた。
「華鬼」
 小さく呼びかけると華鬼の肩がわずかに揺れた。
「先に相手をしてやろうか」
 響が黄金色に染まった凍てつく瞳を神無に向ける。響が握るナイフの刃が移動すると同時に、華鬼の体が動いた。
 包帯を巻かれた華鬼の手が瞬時に響の腕を掴む。白い包帯がじんわりと赤く染まっていく。
 手の傷は肩の傷同様にふさがってはいない。響は華鬼を睨みすえ、片手を華鬼の腕にのばした。
「こっちだったよな?」
 優しく問いかけると同時に、その指が華鬼の肩に埋まっていくのが見えた。息を呑むような声が神無の耳に届く。
 華鬼の服も所々が赤く染まり始める。
「華鬼……ッ」
 神無は蒼白となった男の名をただ呼ぶことしかできない。そばに行けば邪魔になることは彼女が一番よく知っていた。
 戦う術も、身を守る方法すら知らない彼女は、ただ見守ることしかできない。
 それを嘲笑うように響は華鬼の肩越しに神無を見詰める。肩がいっそう赤く染まった。
「やめて……!」
 非力なことをこれほど呪ったことはないだろう。神無が二人に近付こうと足を踏み出すと、華鬼の顔が一瞬だけ神無に向けられた。
 来るなと言われた気がして動きが止まる。
 この状況で、それでも華鬼は一人で戦おうとしている。
「本当、ムカつく」
 響は微笑みながら、肩を掴んだ手にさらに力を込めた。華鬼の柳眉がきつく寄せられる。ようやくひるんだ手を振り払うように、響は華鬼の体を壁に叩きつけた。
「動けないヤツは寝てろよ」
 抑揚なく言い、響はようやく低くうめく華鬼を一瞥した。壁に血痕がうっすらと付着していることに気付き、陰惨な笑顔を浮かべてから神無を見た。
「どうして欲しい? 望みどおりにしてやるよ」
 ナイフを手に優しく問いかけるその姿に神無は後退りした。
 響は、華鬼を苦しめるために神無を利用したいらしい。そう言われたことを思い出し、彼女はとっさに逃げ道を探す。
 右手に襖がある。どこに続くかはわからないが、一番近い退路はそこだと目星をつけた。
 ほんの数歩先にある襖がやけに遠い。
「貴様」
 青ざめた神無は不意に聞こえてきた声に驚き、その視線を響の背後に移動させた。持ち上がっていた華鬼の足が綺麗な弧を描いて響の腹部に入る。
 不意打ちに響が大きくバランスを崩した。
「どこを見ている」
 怒気を孕む声が空気すら震撼させ、鮮やかに変化した瞳が響に向けられた。
 体勢を崩した響はすぐにポケットからダガーナイフを取り出した。
「近付かなくても問題ない」
 んで片腕を上げた瞬間、立ち尽くす神無の隣にあった襖が勢いよくひらいた。
 ふわりと風が生まれ、その風は神無を包み込むといったん足を止めた。
「探すの苦労した」
 茫然とする少女を彼はやすやすと抱き上げる。ダガーが、軽い音を発して壁に突き刺さり小さく震えるのが視界に入った。
 その高さからどこを狙っているのかを悟り、驚くほど可憐な容姿をした水羽は表情を険しくした。
「最低」
 毒づく彼に横抱きにされた神無は、抵抗らしい抵抗もなく唖然とその顔を凝視した。
「……今のあんたにだけは言われたくないけど」
 二投目をかまえた響は見事にそれを投げ損ねて低くうめく。淡いピンクに染まった少年は不機嫌そうに唇を尖らせた。
「そっちが忍び込むと思ったから、こっちも用意したんだよ。予定狂うからやめてよ」
 水羽はものすごく一方的な文句を口にし、いかにも鬱陶しそうにヒラヒラのスカートの裾を蹴り上げるようにして茫然と見詰められる中を歩き始めた。
「化粧までしたのに、これじゃ恥かきに来ただけじゃないか」
 辛うじてカツラはつけなかったらしいが、そのかわり柔らかい栗色の髪を入念にセットをしてきたようだ。それでなくとも少女に見えるその容姿は、レースをふんだんに使った可愛らしいワンピースと化粧の威力が見事に発揮され、誰がどう見てもしとやかな美少女だった。
「……あんまり見ないで」
 ポソリと水羽に懇願され、感嘆していた神無は慌てて視線を逸らす。室内の緊張を無視して現れた水羽は、やはり来た時と同じように何事もなかったかのように神無を抱えたまま去っていった。
 取り残された二人はどうするのだろうと思って息を殺すと、すぐさま破壊音が聞こえてきた。
「ほっといても大丈夫。飽きたらやめるよ」
 あの緊迫感を知らない水羽が適当なことを告げる。そう言われるとそんな気もして、神無は戸惑いながらも素直に頷いた。
「ああ神無さん、ご無事でしたか?」
「水羽、足速――!!」
 聞き馴染んだ声にホッとして視線を動かし、神無は水羽の腕の中で硬直する。満面の笑みで手をふるのは、忠尚の庇護翼と同じ服装をしている光晴と、目を見張るばかりの美しい大女だった。
「うわ、神無ちゃん固まっとる!?」
 麗二を凝視したまま動きをとめた神無に気付き、光晴が奇妙な悲鳴をあげた。
「凶悪やろ、麗ちゃん」
「貴方が用意した服を着ただけですが?」
 目を見張るほど美しい女≠ェ異様なほどドスをきかせて微笑んでいる。体感温度すら低くなりそうなその姿に光晴の笑顔が凍りついた。
「べ、別嬪やろ、な?」
 取り繕うように同意を求められ、神無は慌てて何度も頷いた。
 忍び込むにしてもこれではあまりに目立ちすぎる。かろうじて華鬼の生家に馴染むのは光晴だろうが、長身の彼も誤魔化しが効くとは到底思えなかった。
 神無は残された華鬼を気にしながらも眼前の光景に表情を緩める。それが、ふと変化した。
「どう――」
 神無をおろしながら水羽が問う。神無が見詰める先に残りの視線が集中した。
 そこには、すでに一戦交えてきたらしい由紀斗と律の姿があった。
「なんや、立ち直り早いやないか」
 敵対する鬼に光晴が感心した声をあげると、
「中途半端にするからだよ」
 と水羽が呆れる。
「そのお蔭で、神無無傷だからいいけどさ」
 ナイフ片手に近づいてくる鬼たちのはるか後方の壁は大きくえぐれていた。その位置が華鬼の部屋あたりであることに気付き、神無は青ざめる。
 部屋を移動していなかったら、華鬼はあの破壊の渦中に身を置くことになりかねなかったのだ。
 今も不快な音が聞こえる。
 病み上がりどころか、いまだにその延長上にいる華鬼は無事なのか。心配そうに視線をめぐらせる途中、神無は廊下の反対側に人影を見つけて小さく声をあげた。
 艶やかな女が立っている。
 短い言葉を残して去ったはずの彼女は、この切迫した中、いつもどおり赤ん坊を抱えて廊下の中央に立ち尽くしていた。
「れ……」
 頬を紅潮させ彼女が見ているのは間違いなく大女である。
「麗二様!」
「お久しぶりです、伊織さん」
 背後に意識を集中させながらも穏やかな声と表情でにっこり大女が笑う。体格を我慢すれば、絶世の美女といえなくもない雰囲気だった。
 その麗二のもとに伊織がツカツカと歩み寄る。
 腕を取り、艶然と微笑んだ。
「そんな姿をしてまで会いに来てくれたんだね! ほら、麗二様の子供――!!」
「え!?」
「つもる話はお茶でも飲みながらゆっくりしようじゃないか」
 返事も待たずにぐいぐい腕を引っぱって歩き出した。
 神無は、いつもとは違った意味でどこか怖い伊織の姿を二歩も三歩も遠い位置から見詰めながら、そういえば昔何かあったらしいなと過去に仕入れた情報を思い出していた。
「伊織さん!? 子供って……!?」
「相変わらず惚れ惚れするねぇ」
 茫然とする五人を残して、麗二は伊織に引きずられていった。
「……一人脱落」
 笑顔を凍りつかせたまま光晴がつぶやき、二人が消えた廊下とは反対側を見た。毒気を抜かれたような鬼が二人、美女に連れていかれる大女を見送っている。
 まったく服装に乱れがない光晴たちと違って、由紀斗たちの服は所々が裂けている。木片や粉っぽい何かが黒いスーツに付着しているあたりを見ると一方的にやられたらしい。
 彼らは気を取り直すように刃先の黒ずんだナイフを大きく左右に振った。
「その女、置いてってくれない?」
「光晴、あとよろしく」
 由紀斗が刃先をまっすぐ神無に向けると、水羽は彼女の腕を取って長い廊下を歩き出した。
「何でやねん!」
「花嫁の安全が最優先」
 迷いなく歩く水羽に光晴が肩を落とした。
「損な役回りやな……」
 水羽の回答に異論はないようで、光晴は愚痴をこぼしながらも苦笑して敵対する鬼に向かい合った。
 鬼たちが憤慨するのが手に取るようにわかる。刃物を持った二人の鬼相手に光晴が苦戦を強いられることは見て取れた。
「あの……!」
「心配ない。信じてあげて」
 しっかりと神無の手を握りなおして水羽は告げる。真剣なその横顔に、神無は言葉を失って背後に目を向けた。
 由紀斗たちにとって、光晴は進行をさまたげる障害にすぎない。不要なものを取り除くために繰り出されるナイフは鋭利に空気を裂いている。
 いつあれが肌に触れるかと思うと見ていられなかった。
 神無は促されるまま一室に足を踏み入れる。
 入り乱れる声が、一瞬で途切れた。
 神無は落とした視線をあわててあげ、そしてその一室の光景に目を丸くした。
 そこは、食事の時に使う大広間だった。
「……悠長だね」
 水羽は感心したような、呆れたような声をかけた。
 そこには見慣れた食事時の風景が広がっていた。
「喰うか?」
 上座に腰を落ち着け忠尚がケロリと問いかける。外から聞こえてくる激しい音に気をはらう様子もなく、彼は優雅に茶をすすっている。
「……庇護翼退かせるの早すぎるよ」
「起きるまでは面倒みてやった。それ以上は必要ない」
「それは――」
「オレが手出ししていい相手じゃない。あれは、鬼頭だ」
 皮肉っぽく、けれど妙に淡々と忠尚がつぶやく。
 食事の支度をすすめる者たちを見渡して、水羽は相変わらずだなぁと小さく溜め息をついた。
「それより、ずいぶん面白い格好してるじゃないか」
「こっちにも事情があるんだよ」
 忠尚の言葉に少女と化した水羽は不機嫌そうに返す。どこか親しげな雰囲気に神無が驚いていると、水羽はポケットを探って携帯を取り出した。
「撤収する」
 ひどく短く告げると彼は返事を待たずに携帯を切って忠尚を見た。
 何か不吉な音が皆の耳に届く。それが徐々に大きくなると、忠尚が眉を持ち上げた。
「屋敷、半壊するかも」
 水羽が言うと、もはや無視する事もできないほどの轟音がすぐそばまで辿り着き、障子に巨大な黒い影を落とした。部屋に集まっていた女たちはその異常事態に驚愕し、悲鳴を伴いながらいっせいに避難した。
「次は洋館でも建てるか」
 動じることなく忠尚がつぶやく。一瞬大きく跳ね上がった黒い塊は、そのまま柱と欄間らんまをへし折り障子を突き破って部屋に突っ込んできた。
「請求書回すから覚悟しろ」
 運転しているのが一時的に屋敷に受け入れた三翼たちの庇護翼であるのを確認してから、朱塗りの膳の上に湯飲みを戻して忠尚が毒づいた。
 神無を車に乗るように促し水羽が足をとめる。
「華鬼に伝えて」
 花のような笑顔で少年は口を開いた。
「神無を返して欲しかったら学園に戻って来い。彼女に刻まれてるのは鬼頭の刻印だけじゃない」
 どこかのんびりとした空気が一変する。
「いらないなら、遠慮なくもらうよ」
 波乱を含んだ風を大気に乗せて、少年は身をひるがえした。

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