夢の中を彷徨い続け、華鬼は一瞬息を詰めた。
 かすむ視界のその奥の景色が何を示しているのかわからない。
 手をのばせばすぐ届くというその場所には、少女がぺたりと座り込んでいた。目線が限りなく低いために伏せられたその顔すらよく見える。
 疲れたような青白い顔は、意外にも穏やかな表情に見えた。
 無防備なほどすやすやと眠る線の細い体は小さく前後に揺れている。それをしばらくぼんやり眺め、どうしてこの女がここにいるんだと疑問を抱いた。
 ゆっくりと体を起こしてから、彼はようやくその手に包帯が巻かれていることに気付く。
 肩の包帯もいまだにきっちりと巻かれたままだ。
 軽く頭を振ると、中身を掻き混ぜられるような不快さがこみあげてきた。華鬼はしばらく動きを止め、その波が去るとようやく立ち上がる。
 乱れた浴衣を適当に直し、そしていまだに眠る神無に視線をやった。
 何かが引っかかっている。
 それは苛立ちや殺意ではなく、もっと別の、もっと不可解なもの。
 だが、その原因を追究するより早く、華鬼は神無から視線をはがすように目を逸らした。わずかな苛立ちが視界を染める。
 彼女の脇を通りすぎるとき、不思議な香りと共に苛立ちが少しだけ和らいだ。
 華鬼はいったん足を止め、起きる気配のない少女を見おろす。
 なぜあの時。
 不意に、クロスボーをかまえた響の姿が脳裏をよぎった。
 なぜあの時、体が動いたのか。
 自分以外の手にかかって死んでも、結末が同じならそれでいいはずなのに。それとも、それほどこだわりがあったとでもいうのか。
 包帯が巻かれた手を持ち上げる。
 振り下ろせば、あっけなく壊すことができるだろうあまりに儚げな少女。
 腕を移動させようとして、小さく刺すような痛みが包帯の下から伝わり思わず動きを止めた。
 これですべての片がつく。今なら苛立ちの原因である少女を簡単に殺せるというのに、それなのに、殺意が沸き起こらない。
 今までのような躊躇いとは明らかに違う。
 華鬼は茫然と神無を見詰め、そして先刻と同じように視線をはがして重い足を引きずりながら歩き出した。
 大きくひとつ息を吸い、前方を睨みすえる。
 廊下に出ると、
「神無?」
 そう呼びかけながら女がすぐ隣の部屋から出てきた。
「なにかいる物が……え? 鬼頭?」
 いかにも驚いた顔をして女は目を丸くした。
「また神無がいなくなったの?」
 驚いた顔のまま奇妙な質問を投げ、そして慌てて駆け寄ってきた。近づくなり腕を掴まれ、華鬼はとっさに振り払う。
 すると、女はきょとんと華鬼を見上げた。
 それを刺すような眼差しで睨み付けると、女は宙に浮いた手を引っ込めて何かを納得したように苦笑した。
「はぁ、本当に一晩で起きてきちゃったんだ。さすが、忠尚様」
「なに? どうしたの?」
 慌しく女たちが部屋から出て、同じようにきょとんとした顔で華鬼を見詰める。
「神無探してるの?」
 これまた意味のわからない言葉を発すると、華鬼に手を振り払われた女は部屋から出てきたばかりの女たちに視線をやって、
「違う違う、意識戻ったみたい」
 そんなふうに告げて笑顔を見せた。
 女たちは顔を見合わせ安心したように小さく笑いながら近付いてきた。
「鬼頭、寝てなくてもいいの?」
「なにか食べる?」
「それより神無は? あの子どうしてるの?」
「ああ本当、どうしたんだろ」
 うるさくさえずり、女たちは華鬼の背後を覗き込もうとする。その姿に疑問を抱きながらも後ろ手にぴしゃりと扉を閉めると、途端にいつも見せる媚びた顔ではない、不満そうなしかめっ面をむけてきた。
「なんで閉めるのよ。あの子、今朝方まで鬼頭の面倒みてたのよ。まさか倒れてないでしょうね」
 神無を嫌っていたはずの女たちは、どこか気づかうように問いかけてくる。
 それを無言で睨みつけると、いつもなら確実にひるんでいる彼女たちが今日に限って気丈にも顔をあげ続けた。
 胸の奥がざわめくような違和感。
 その理由を探ろうと口を開きかけたとき、長い廊下の角を折れて女が一人、近付いてきた。
「何してんだい」
 ちらりと華鬼を見やり、伊織は小さく鼻で笑った。
「どうやら起きたようだね。なに油売ってんのさ」
 問う声に、女たちは小さく声をあげた。
「あ、報告……!」
「あたし、忠尚様んとこ行く!」
「じゃあ残りは外だね。朝餉あさげの支度もしなきゃ」
「でも一日でよかったよねぇ。これで三日とかだったら、いくら鬼でも倒れちゃう」
 言葉を交わして女たちが廊下を小走りで移動していく。その後ろ姿を困惑して見詰めている華鬼の視界には伊織だけが残っていた。
「……何だ?」
 思わず問いかけると、相変わらず子供を抱いたままの伊織が口を開き、外に庇護翼がと言いかけて、ふと言葉を切って艶やかに笑んだ。
「まぁ、あんたには関係ないことさ。それより、神無は?」
「……寝てる」
「そりゃそうか。昨日は一晩中、甲斐甲斐しく鬼頭の面倒みてたもんねぇ。あんなに細っこいのに頑張るもんだから、見てるこっちがハラハラする」
 声をたてて伊織が笑う。
「でもホラ、昼間の事があるから皆あの子に協力的で助かったよ」
「昼間……?」
昼餉ひるげに神無が忠尚様に噛みついて……鬼頭もいただろ?」
 小首を傾げながら伊織が話す。
 華鬼はただ柳眉を寄せた。
 何度か部屋を出た記憶があるが、いつなのか、どうして出たのかがわからない。どこに行ったのかすらはっきりと答えられない。
 延々と続く廊下を、あてどなく彷徨っていただけのような気もした。
「いくら鬼頭の花嫁だからって、鬼頭の名に固執する忠尚様に面と向かってあんなこというなんて」
 思考に女の声が割り込む。
 鬼頭の名。
 誰もが欲しているくだらない名前。
「鬼頭の名前は無意味だ」
 胸に、女の声が飛び込んできた。
 華鬼は目を見張る。心の中だけで繰り返してきた言葉を口にするその女を、彼は茫然と見詰めた。
「あの子がね、忠尚様にそう言ったんだよ。華鬼は物じゃない、鬼頭の名に価値なんてないって」
 自分の意に従わない者には容赦することない男相手に、どうしてそんなことが言えたのか――
 偏屈な父親が初めて満足げに笑っていた。
 鬼頭の名だけに執着を見せていたはずの男が、それを否定した娘を見ていい花嫁を選んだと、そう言って笑っていた。
「ねぇ、鬼頭。もっとちゃんと見てあげなよ」
 静かにささやく伊織の声に別の音が混じった。
 ふわりと鼻腔に届く香りに無意識に体が動く。
「華鬼」
 慌てたような声。
 背後に移動させた視線の先には少女がいて、彼女は不安げな顔をしてそっと手をのばしてきた。簡単に振り払えるはずの手を、しかし即座に振り払う事もできずに華鬼はその場に立ち尽くす。
「大丈夫?」
 支えるように寄り添いそう問いかけてくる神無を華鬼は茫然と見下ろした。
 そこにいるのは、今まで拒絶してきた鬼の花嫁≠ナある少女だ。他の女たちと同じ、鬼頭の名に踊らされている者。
 苛立ちの原因となるはずの――
「鬼頭」
 神無に向けていた視線を、華鬼はようやく伊織に戻した。
「ちょっとこれから厄介なことが起きるから場所を移動しよう。神無、ついておいで」
 解せない言葉と共に伊織が歩き出す。
 誰がついて行くかと心の中で毒づくと、それとは正反対に足が出た。ぎょっとして隣を見るとしっかりと腕を掴んだ神無が、真剣な表情で伊織の背中を見詰めて歩を進めている。
 自室に戻るには、まず神無の手を振り払う必要がある。
 だが、どうもそれがうまくいかない。
 伊織はそんな華鬼の姿をちらりと見やり、
「鬼頭、ちゃんと花嫁守ってやんなよ」
 どこか悪戯っぽく告げた。

Back  Top  Next