ゆらりと男の体が揺れる。
 とても正気とは思えない彼は、ナイフの刃を握り締めたまま顔を伏せ、障子に突っ込んだ由紀斗に視線をやることすらなかった。
 ナイフを握る手から鮮血がしたたり、磨きこまれた黒塗りの床に触れた瞬間ぱたりと音をたてる。
 神無はその場に立ち尽くし、対峙した男を凝視した。
「華鬼」
 赤い雫が彼の手から生まれる。
 所在無げなその手は、しばらく由紀斗からナイフを奪ったままの形で止まっていた。
 神無は慌てて華鬼に駆け寄った。近寄るだけでもその熱が伝わる――立っているのも不思議なほどの高熱にうかされ、どこか虚ろな瞳を彼は床に向け続ける。
「……ッ」
 由紀斗が声にもならない声をあげて立ち上がると、遠くから廊下を駆けてくるあわただしい足音が聞こえた。
 女が廊下を折れて近付いてきた。
「どうし――」
 神無が華鬼を支えようと手をのばすと、遠方からかけられた伊織の声が途切れる。
「鬼頭!?」
 動けないはずの華鬼がそこにいることに驚いているらしい。彼女はいったんとまった足を再び進めた。
「どうしたんだい!?」
 その問いかけを耳にしながら、神無は意識が朦朧としたままの華鬼を支えるように寄り添って由紀斗を見た。
 彼の持っていた武器は華鬼の手にある。皮を裂いて肉に食い込み、新たな血を誘い出して床に暗い花を咲かせている。
 由紀斗が武器を出そうとしないところを見ると、それ以上手持ちがないのだろう。だが、それで安心できる相手でないことはわかっていた。
「毒はちゃんと効いてるみたいだな」
 口腔の血を吐き出し、由紀斗は金色に染まった瞳を神無に向けてきた。
 神無はわずかに息をのむ。いつもの華鬼ならばすぐさま臨戦態勢に入るだろうが、今の彼は逃げることすらままならない。痛みすら感じていないようにナイフを握りしめ、ただぼうと床を眺めている。
「華鬼」
 名を呼び腕を引くと、その体がかしいだ。
「――今なら、やれるか」
 黄金の瞳を細める鬼は口を引き上げる。赤ん坊を抱いたまま伊織が駆け寄って、神無と同じように華鬼の腕を引いた。
「こんな時に誰もいないなんざ、本当に役にたちゃしない」
 吐き捨てて、彼女は眉をひそめる。ゆらゆらと揺れているにもかかわらず、まるで伊織に抵抗するように華鬼の足は動かない。
 その間に、由紀斗は殴り飛ばされた一室にあった戸棚から裁縫用と知れる裁ちばさみを一丁取り出した。
 伊織に腕を引かれてもいっこうに動こうとしない華鬼は、やはり床を見つめたままだ。その姿は斬り付けてくれといわんばかりだった。
 神無は一歩前へでる。
 病人を盾にするわけにはいかない。話し合いで解決できるならそれに越したことはないが、神無には彼を説き伏せるほどの話術はない。
 早く華鬼を寝かせつけて手の治療をしたいが、それには犠牲が必要らしい。
 キュッと唇を引き結んで由紀斗を見ると、その背後にのそりと小山ができた。
「ヒトが警告してやってるんだから聞きやがれ。クソガキが」
 怒声と共にその主――忠尚が、上体を低くする。その直後、足を払われた由紀斗が畳のうえに無様に転倒した。
 落ち方が悪かったのか、奇妙な声をあげて由紀斗は低く呻いた。
「ったく、オレの庇護翼はなにやってやがる」
 由紀斗の服装を見て忠尚はあきれ返った表情になり、すぐに彼の持つハサミを取り上げた。
 相変わらず高圧的な態度はとってつけたような違和感がある。だが、以前とはどこかが少し違う気がした。
 忠尚はハサミを握りなおすなり、何の迷いもなく振り下ろした。
 鈍い音が漏れる。
 真新しい畳にハサミが突き刺さった。
 力任せに叩きつけられたハサミはあと数センチずれれば耳を貫いていただろう。状況をようやく理解した由紀斗は青ざめた顔を忠尚に向けた。
「警告は一回きりだ。まぁ、家を見学に来た学生なら見逃してやってもいいがな」
 莫大な時間と金をつぎ込んだ屋敷を指し、揶揄するように笑って忠尚は片足を持ち上げた。
「でないなら、さっさと失せろ。二度と日の目を見られなくするぞ」
 持ち上げた足の下には由紀斗の肩があった。忠尚は足をおろし、その肩を床へと固定する。
「別にずっと手を出すななんて言ってない。せめて今日くらいは休ませろと――聞いてるのか、おい」
 音が聞こえてきそうなほど足に力を込め、忠尚は由紀斗を見下ろした。
 抵抗すれば難なくその呪縛から解放されそうなのに、由紀斗は脂汗をかきながら茫然としたように忠尚を見詰め続けている。
 忠尚は由紀斗から視線をはずし、神無たちを見た。
「休ませてやれ」
 華鬼のことを言っているらしい。神無はじっと忠尚を静観し、そして華鬼を見上げた。
 辛い状態であるはずなのに、やはり声すら出さない鬼。
 その彼に、わずかな情を見せる鬼。
「あんなだからね、不器用なんだよねぇ」
 何かを察して、伊織が苦笑している。
 ふと、胸の奥があたたかくなる。ひどく曖昧な感情の名はよくわからないが、それが安堵を運んできたことだけ理解して小さく息をついた。
 そして、伊織が不意に難しい顔を作ったことに気付く。
 彼女は華鬼の腕を引き、小首を傾げた。
 意識があるかないかも疑わしいこの状態で、彼はそこに立ち尽くしたまままったく動く気配がないらしい。
「ちょっと、寝てるんじゃないだろうね?」
 焦りを含んだ声音で伊織はつぶやき、再び華鬼の腕を引いた。
 しかし、彼は動かない。手を振り払うことさえしなかったが、促されて動く様子もみせないのだ。
「神無」
 困り果てた伊織を見て、いまだに由紀斗の肩に足をのせたままの忠尚が声をかけてきた。
「お前、華鬼を連れて行ってやれ」
 唐突な言葉に驚き、神無は忠尚を凝視する。
 理由を聞こうとしたが、どこか面白そうに見られていて言葉をかけづらく、神無は緊張しながらもそっと華鬼の腕を引いた。
 ゆらりと熱い体がゆれる。
 かたくななまでにその場に留まろうとしていた華鬼は、あっさりと歩き出した。何を基準に動いているのかがよく理解できない。
 だが、これで華鬼を休ませ、手の治療ができる。
「やっぱり鬼頭も鬼なんだねぇ」
 伊織は一人納得したように笑顔を浮かべ、神無が手にしていた洗面器をとりあげた。
「氷水がいるかい? それとも、湯?」
 神無が伊織に視線をやると、
「誰か寝室の近くに控えといてやれ」
 忠尚が笑いを含んだだみ声で怒鳴っていた。
「そのぶんじゃ、花嫁がいなくなるたびに探し回るぞ」
「わかってるよ」
 負けずに伊織も忠尚に怒鳴った。そして、唖然とする神無に言葉をかける。
「神無、何かあったらすぐ呼びな。意識戻るまでついててやんないと、鬼頭、ずっと歩き回っちまうよ」
 向けられる笑顔にただ頷く。
 ――頷くことしかできなかった。
 見失えば探す。
 探しあてれば、共にあろうとする。
 意識もなく、ただ本能で守り、そばに在ろうとする命――
 触れた場所から熱が伝染してくる。
 不思議と負担にはならないように歩く男を全身で受け止めるように支えながら、神無は言葉もなく彼が進む道に従った。
 胸の奥にともった灯が揺らめく。
 音もなく、ただゆらゆらと。

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