いつになく鼓動が早い。
 全身が震えているのは、己の弱さゆえ。
 それを振り払うように虚空を睨みすえ、彼はネクタイを絞った。ゴクリと喉を鳴らしてから大きく息を吸う。
「悪いな、少し借りる」
 低くそう言って、彼――由紀斗は足元で伸びている男に視線をやった。
 男のスーツは由紀斗には少し大きめだが、見られないほど不自然ではなかった。
 表情には出さなかったが、響は水羽を足止めできなかったことに多少は腹を立てているらしい。
「忍び込んで、スーツを三着持ってくる。屋敷の強度を調べて退路が確保できるかの確認」
 自身に下された命令を復唱して、由紀斗は苦笑いした。これくらいですんで良かったと思う自分に気付いたからだ。
 ただ、これくらいというのが敵陣真っ只中に単身で乗り込めというのだから、決してやさしいものではない。
 しかも初めて潜入する建物内で探し物をしてこいと言うのだからタチが悪い。
 だが、ここで手をこまねいている場合ではない。
 由紀斗は鋭くあたりを見渡した。
 桜の木々が死角を作ってくれている。その陰に隠れるように移動して手あかのこびりついた古臭い木戸に身を寄せた。
 建物の外部は穴が開くほど観察していたが、内部までは把握していない。音を慎重に探り、そこに人がいないと確信してからわずかに木戸を開けて屋敷の中に忍び込んだ。
 大人数で動けばまず間違いなく発見されるだろう。
 厄介だなと、心の中でつぶやく。
 毒を受けたなら、まず当分鬼頭は動けない――彼はそう判断していた。
 そして、忠尚の庇護翼頭が警告に来たのもそれを裏付けている。何か事を起こすなら屋敷に侵入しなければいけない。
 問題なのは、響の性格だ。
 彼は用意周到なくせに、チャンスだと思ったら迷いなく動くタイプだ。ひかえている庇護翼すべてと乱闘になっても気にしない男だ。
「説得……してみるか……」
 スーツを盗んでこいと言った時点で、一応忍び込むことを前提にしているのだろうが、その言葉を本当に信用していいのか。
 靴を脱いで土間から移動し、どこまで続くんだと呆れるほどの板張りの道を歩きながら由紀斗は溜め息をついた。
「ちょいと」
 溜め息の直後に聞こえた声に身がすくんだ。
「あんたサボってんじゃないよ。さっさと持ち場に帰んな」
 婀娜あだっぽい女の声が少し不機嫌に命令する。答えに窮すると、すぐに、
「聞いてンの?」
 そう続いた。
「あぁ……はい」
 裏返り気味の声で返すと女がしゃなりしゃなりと近づいてきて、思わず伏せた由紀斗の顔をのぞきこんだ。
「……あんた」
 不審げな女の声が聞こえたとき、悲鳴をあげられては困ると拳を握った。
 しかし、それを女に向けることができなかった。
 女の胸には小さな赤ん坊が抱かれている。それは、まだそう日のたっていないだろう幼い命。
 鬼の子だと気づいた時には戦意どころか警戒心すら解けていた。
「あんた、見ない顔ね?」
「……」
「忠尚様も、新しい庇護翼入れるなら入れるでちゃんと言っといてくれなきゃ」
 溜め息をついて、女は歩き出した。
「四人って聞いてたんだけど五人だったんだね。さっさと仕事に戻っとくれよ」
 訳のわからないことを言いながら、赤ん坊を抱えた女は廊下の角を折れた。
 取り残された由紀斗はほうけたように女が去った角まで移動した。そして絶句する。
 外から見ても屋敷はすごかった。山の一画に作られた屋敷は異様に――というより、無駄に巨大だった。
 そして、当然ながらその内部も巨大で複雑だ。
 華鬼の部屋を屋敷内部からも把握しておいたほうがいいだろうと思っていたが、それは簡単にはいきそうもない。ついでに華鬼の状態も知っておきたかったが、聞けば不自然に思われることは確実だ。
 由紀斗はどうしたものかと考えながら廊下をまっすぐ突き進む。
 適当に歩いても仕方がないのだが、情報が少なすぎる。障子や襖で仕切られた屋敷は退路を見出すのは楽かもしれない。
 だが、それ以外は難しそうだ。
 何度目かの溜め息をつく。
 キョロキョロとあたりを見渡しながら歩いていると、聞き逃してしまいそうなほど小さな声が背後から聞こえた。
「あの」
 ぎくりとする。
 この気配――この声には、聞き覚えがある。
 いたぶって殺そうとした女を忘れるはずがない。醜女と噂される、至高の鬼に選ばれた花嫁。
「すみません」
 遠慮がちに少女――神無が声をかけてくる。
 血の気が引きそうだった。
 確実に正体がばれる。そう思って、近づいてくる女を避けるように足早に廊下をわたる。すると背後の気配は驚いたように駆けてくる。
「すみません」
 再び声をかけられた。無視するか立ち止まるかを考えている間に、何かが彼の腕を掴んだ。
「あの、台所どこですか? 華鬼の部屋、どこですか?」
 真剣な声が、ずいぶんと間抜けた質問をした。
 手を振り払おうとして、由紀斗は思わず動きを止めてちらりと彼女を盗み見た。
 彼女は大きな洗面器を片手に息を弾ませている。
「迷って……」
 神無はようやくそう続けた。
 迷っているらしい。鬼頭の花嫁であるはずの少女が、夫となるはずの鬼の生家で。
 なんとも滑稽なと笑いかけたが、自分も同じ立場にあることに気付いて由紀斗は片頬を引きつらせた。
「ここ、どこかわからなくて」
 そう訴えてくる少女に、オレに聞くなと心の中で毒づく。迷っているのはお互い様だ。だいたい、何でわざわざ声をかけて来るんだ。
 苛立ちのようなものが胸の奥にとぐろを巻く。
 由紀斗は、自分が忠尚の庇護翼の服を着込んでいる事も忘れ、顔を隠すように逸らせてほんのわずか思考をめぐらせた。
 響は、何も言わなかった。
 鬼頭の花嫁を殺せとも、手を出すなとも、彼女に関することは何一つ言わなかった。
 あれほど気にかけている男の花嫁のことを。
 それなら――
「オレに一任されてるって事か?」
 そう囁いた瞬間、腕を掴んでいた白い手が離れた。
「そうだよな、鬼頭の花嫁?」
 主が何を望むのか、どうすれば一番喜ぶのか。
 響は、言われたことをただこなすだけの機械など欲しがらない。求めるのはそれ以上に働く、機転がきき柔軟に動く手足だ。
 そして彼の望みはただ一つ。
 由紀斗は神無に向き直った。
 驚きと恐怖で少女の顔がこわばるのがわかった。
 それを冷徹な目で観察しながら、ベルトに挟んであったナイフを取り出した。
 少女の目が鋭く光るナイフを辿る。
 そして、大きく見開かれる。
 由紀斗は眉根を寄せた。
 神無の目がナイフ以外のものを辿っている。ナイフではなく、もっと別の――
 そう、もっと別のものを。
 脅しが足りないのかと由紀斗はナイフをかまえた。どうせなら怯えたほうが面白い。泣き叫ぶさまを眺めるのも悪くない。
 鬼本来の獰猛な血が残酷に目覚める刹那、背後で得体の知れない気配が膨れ上がった。
 振り向く間もなかった。
 ぬっと背後から突き出された手がナイフを掴むと同時に、後頭部をすさまじい衝撃が襲った。

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